幕末用語・人物事典

人物編U
(藩士・家臣・志士編)

             田中 新兵衛   (1841〜1863)
 名・雄平  身分・薩摩藩士  出身地・薩摩国
  もともと商人の生まれで、大商人の森山新蔵の庇護をうけて薩摩藩士の家来となり士分を得る。示現流の達人であった。1859年の薩
 摩藩有志挙兵突出計画のときには鰹船2隻を購入しての薩摩脱藩を考え、船長になるが計画は中止となる。1862年の島津久光上洛に
 は、軽輩のために随行できず自費で上洛する。しかし寺田屋事件は終わっていて失望、以後京都で暗殺活動に従事する。まず、九条家の
 家令島田左近を暗殺、さらに九条家家臣の宇郷重国、本間精一郎などを暗殺し「暗殺の隊長」の異名をとった。1863年に公卿の姉小路
 公知暗殺が発生して、現場の刀から容疑者として逮捕される。京都西町奉行所の取り調べでは否認するが、証拠の刀を示されるとそれを
 奪い取って切腹した。
             佐々木 只三郎  (1833〜1868)
 父・会津藩士佐々木源八  名・泰昌 高城  
 身分・幕臣 京都見廻組与頭 文武場頭取 浪士取締役並出役  出身地・陸奥国会津若松
  会津藩に生まれ、神道精武流を学び「小太刀日本一」とよばれた剣豪であった。大内・宝蔵院両流の槍も達人であった。さらに国学や
 和歌にも通じていた文武両道の人であった。実兄の直右衛門が手代木家の養子にはいって手代木直右衛門となり、自分は幕臣である
 佐々木弥太夫の養子にはいった。そして江戸にいって、当時江戸遊学中の城島則頼と知り合う。その後講武所の剣術師範をしていたが、
 1862年に浪士組が結成されると取締役並出役に就任する。京都では、実兄手代木直右衛門や城島則頼の紹介で知り合った公卿有馬
 範顕、一橋家臣の平岡円四郎とともに佐幕のために行動、手代木たちを動かして新選組の前進である壬生浪士組を会津藩お預けにして
 京都守護職配下に置くことに成功、新選組の生みの親の一人となる。
  清河八郎が浪士組を討幕の尖兵にしようとしていたのを幕府が察知すると、 同役の速見又四郎とともに江戸麻布一ノ橋で清河を暗殺
 した。その後京都に戻り、旅籠「丸太屋」での大人数の志士斬りなど剣豪ぶりを発揮、その反面、公卿の有馬範顕らの和歌会に出席して
 和歌を披露するなど、文化人的側面も随所で見せている。京都見廻組が結成されると与頭勤方に任ぜられ、手代木や有馬らの威光により
 幕府編成の部隊ではあるが、実質的支配は手代木が、実質的現場指揮は自分がおこなっていた。職務の傍ら、城島の要請により、倒幕
 派に命を狙われている有馬範顕を警護するボディーガードも勤めている。その後職務が多忙を極めると新選組に有馬の護衛を任せ、数人
 の新選組隊士の派遣を近藤 勇に手代木を通じて命じている。1867年には見廻組与頭に昇進、のちに文武場頭取も兼任する。この間に
 一橋家臣の原 市之進や手代木・有馬らから坂本竜馬をはじめとする討幕派らの暗殺を命じられ、手代木などから坂本の居場所を教えら
 れ、見廻組の隊士とともに襲撃し、坂本竜馬・中岡慎太郎を暗殺している。
  その後、鳥羽・伏見の戦いになると、京都で城島を中心として主戦派の公家の家臣を集めて見廻組に入れて指揮下に置き、各地を転戦
 するが、負傷して有馬家家臣芝山昌成に戸板に乗せられて紀州方面まで退却をおこなうが、紀三井寺で戦傷死した。
             手代木 直右衛門  (1826〜1904)
 父・会津藩士佐々木源八  名・勝任  身分・会津藩士  出身地・陸奥国会津若松城下
  会津藩に生まれ、会津藩士の手代木勝富の養子に入る。実弟の佐々木只三郎は幕臣の佐々木弥太夫の養子に入った。学問に通じ
 弟と同様、和歌や国学、さらに儒学にも通じていた。1853年にはじめて江戸に行って江戸の藩邸に勤め、藩主松平容保が房総海岸の
 警備巡視の任につくと、それに従った。1859年には監察に就任、1863年には江戸詰となり、江戸藩邸での職務に従事する。
  1863年に藩主松平容保が京都守護職に就任すると、それに伴って京都に行き、公用人となり、軍事奉行副役となる。京都では実弟
 佐々木只三郎の親友の公卿有馬家家臣城島則頼の紹介により、公卿有馬範顕や一橋家臣の平岡円四郎と知り合い、反幕運動の阻止
 の第一線にたった。有馬・平岡らとは「幕末裏の三巨頭」と呼ばれ、藩主松平容保をもしのぐ影響力をもった。有馬らの威光により会津藩
 の実力者となり、部下同僚の山川大蔵や小野権之丞ら藩士や新選組、実弟佐々木只三郎の指揮する見廻組、さらには伏見奉行所・京都
 東西町奉行所まで支配下におさめた。8・18の政変では秋月悌次郎に薩摩との共闘を求める使者の役に任じ、有馬範顕や中川宮を裏か
 ら援助、政変の成功を見る。翌年の池田屋事件では、城島則頼の情報をもとに新選組に出動を命じ、自ら会津藩兵の出陣を命じて池田
 屋で尊攘派浪士の一斉検挙に成功、京都の治安維持にさらに力を入れる。会津藩の京都派の総帥として君臨し、藩主松平容保をはじめ
 京都の藩士からは相当信頼されていた。しかし、西郷頼母らの恭順を考える国許派とは対立し、京都における国許派である秋月を蝦夷に
 左遷している。同志の平岡円四郎が暗殺されると、自分の身の安全を考慮して多数の護衛をつけて浪士からの襲撃にそなえたという。そ
 れから頻繁に有馬邸を訪れ、一橋家臣の原 市之進とともに公武合体に向かって動き、蛤御門の変では病の松平容保を担いで戦闘にお
 よんでいる。各藩士との交流も行っており、有馬とともには紀州藩士の三浦休太郎の庇護や、個人的には土佐藩士の後藤象二郎から大
 政奉還建白についての相談もうけている。1867年には坂本竜馬らの暗殺にも関与している。さらには将軍徳川慶喜より金と服地が送ら
 れている。
  鳥羽・伏見の戦いの後に会津藩にもどり、軍事局に勤務し大監察に就任する。会津戦争近くになると、各藩への周旋役となり米沢・仙台
 などの藩に奥羽越列藩同盟の締結を説いてまわる。第二次中川宮皇位擁立計画に失敗して会津に逃亡した有馬範顕を喜多方まで出迎
 え、その地にかくまう。そして若年寄に昇進して、有馬や仙台にいる寛永寺執当の覚王院義観らの公現法親王の擁立を計画しながら会津
 若松城で抗戦、しかし1868年、米沢藩に開城の降伏交渉の使節となった。降伏後は猪苗代で謹慎したが、鳥取・高須・名古屋と順番に
 預けられ幽閉された。1872年に赦免され、左院少議生となり、香川県権参事となる。このとき津軽浪岡の有馬範顕が死去している。手代
 木は内密で浪岡に行っているというが、真偽はさだかではない。そのとき有馬に対して「幕末・維新期の一傑を亡くす」と悲涙したという。
 その後、高知県権参事や岡山県の区長などを歴任し、岡山にて79歳で死亡した。
              平岡 円四郎   (1822〜1864) 
 父・旗本岡本忠次郎  名・方中 近江守 円外  身分・一橋家家臣  出身地・武蔵国江戸下谷練塀小路
  旗本岡本忠次郎の4男に生まれるが、1838年に御裏門切手番之頭平岡文次郎の養子となり将軍徳川家斉に謁見する。1841年、学
 問所寄宿中に頭取となるが、1843年には武術修行のために学問所を退く。そのころに江戸に遊学していた有馬家家臣の城島則頼と出
 会っている。その後、幕臣川路聖謨が水戸の藤田東湖に推薦、藤田は一橋慶喜から直諌できる直臣の派遣をもとめられてた徳川斉昭に
 平岡を推挙して、1853年に近侍に採用されて一橋家臣となったのである。態度粗野であったが、慶喜の人柄にふれ慶喜の刎頚の交わり
 をもつ第一の側近となっていった。円四郎は才知と弁舌にすぐれ、いかなることでも処理する能力をもった人物である。一橋家では用人の
 中根長十郎とともに慶喜を補佐、福井の橋本左内に開国を説かれ、将軍継嗣問題では水戸藩の安島帯刀や福井の橋本左内・中根雪江ら
 とはかって慶喜擁立に動き、井伊直弼と対立し1858年には小十人組・小普請入差控となり、翌年には甲府勝手小普請に左遷される。
  1862年に江戸にもどり、1863年には勘定奉行所留役当分助を経て一橋家用人に復活して慶喜の第一の側近として活躍、中根とともに
 慶喜に開国・公武合体を説き、大いに慶喜の政務を助ける。慶喜の京都上洛直前に中根長十郎が尊攘派に平岡円四郎と間違えて斬られ
 るなど、尊攘派からは慶喜が攘夷をしないのは円四郎にありと狙いはじめてた。上洛後円四郎は公卿有馬範顕や会津藩士の手代木直右
 衛門と出会い、幕末裏の三巨頭を形成する。親友の有馬家家令城島則頼に開国を説く。そして慶喜を動かして公武合体を推進、1864年
 に水戸藩より一橋家臣となった原 市之進・梅沢孫太郎ら尊攘派を公武合体派に転身させ転向させ一橋家分裂を回避、後継者の育成に
 成功する。ほかには平岡の家臣待遇で一橋家に入った渋沢栄一に政治・経済の現実を教え、渋沢の経済能力を発掘し、公武合体派へ転
 向させ、後の財閥渋沢のもとを発掘した。そして同年5月に一橋家家老並に昇進、6月には諸大夫となり近江守となった。江戸の侠客の新
 門辰五郎などの町人階級からも信頼があり、幕府方の公武合体佐幕派の重鎮であった。しかし、長州藩や水戸藩の過激派からは「天下の
 権朝廷にあるべくして幕府にあり幕府にあるべくして一橋にあり一橋にあるべくして平岡・黒川にあり」として同僚の黒川嘉兵衛らとともに命
 を狙われ、1868年6月16日、公卿有馬範顕邸での池田屋成功の祝賀を兼ねた長州藩兵入京問題についての対策会議の帰りに京都奉
 行所与力長屋付近で尊攘派である水戸藩一橋家警衛世話役の江幡定彦・林 忠五郎ら数名に闇討ちされた。43歳であった。殺害の理由
 は慶喜に攘夷をしないようにさしむけたということと池田屋の報復であった。従者2人は斬られ、家臣の川村恵十郎が江幡・林を切り捨てた。
 その後有馬家家臣の城島則頼が急を聞いて急行、遺体を一橋慶喜のところへ運んでいる。慶喜は円四郎の死に大きく落胆し、大泣きした。
 池田屋の事件は明治維新を数年遅らせたというが、円四郎の死は幕府倒壊を数年早めたといえよう。    
               山川 大蔵    (1842〜1898)
 父・会津藩士山川重固  名・重栄 浩 士亮 与七郎 結城左馬助 屠竜子 二去堂主人  
 身分・会津藩士  出身地・陸奥国会津若松 
  代々家老職の家柄であり、のちに家老となる。、幼いころに父が死んだので、家老であった祖父山川重英に育てられた。同じ会津藩士の
 手代木直右衛門の後輩として1863年に藩主松平容保とともに上洛する。容保の側近などをつとめ、公用人の手代木とともに尊攘派の弾
 圧や朝廷の工作にあたる。手代木の紹介により公卿有馬範顕や一橋家臣の平岡円四郎や原 市之進などと知り合い、親交を深める。特
 に有馬家家臣の城島則頼や見廻組の佐々木只三郎とは懇意となり、一緒に行動したりしている。そののち1866年、松平容保の推薦によ
 り樺太境界画定談判使節である幕臣の小出秀実の参与となりペテルスブルグに行っている。途中のフランスとドイツで攘夷の不可と近代化
 の波を体感することになった。翌年に帰国すると、フランス軍事顧問のシャノアンに西洋式軍事学を学び、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と戦
 う。壱分金の鋳造などを行い、軍事会計官として軍費調達にも奔走、会津軍が敗れると大坂で敗戦処理を行い負傷兵を江戸に護送する。
 それから部隊を引き連れて上野方面で大鳥圭介らとともに新政府軍と戦う。新政府軍が会津に向けて動き出すと、五十里越えをして会津若
 松城にもどり新政府軍に間違われぬために彼岸獅子囃子を演奏して入城した。城では軍議に参加し、日光口の守将として新政府軍を破っ
 て奮戦したが、会津若松城が篭城となると家老となって防衛総督などをつとめたが、敗れた。1869年、会津藩が下北で斗南藩として復活す
 ると、権大参事に任ぜられ、藩士の窮乏を救うためや、殖産興業などに力を尽くし、没落して津軽浪岡に隠遁している公卿有馬範顕に内密
 に援助物資などを送っていた。
  1871年には陸軍裁判所に出仕、陸軍の軍籍に入り、1873年には陸軍少佐として熊本鎮台に所属、佐賀の乱を鎮圧する。西南戦争で
 は西征別動軍参謀として薩摩軍に包囲された熊本城救出作戦で大功を上げる。その後文部大臣森 有礼に推挙されて高等師範学校校長
 を兼任、1890年には勅選貴族院議員となり、1898年に東京で54歳で死亡した。