幕末用語・人物事典

人物編
(天皇・朝廷・藩主編)

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       中川宮 朝彦親王   (18241891)
 父・伏見宮邦家親王     名・久邇宮 賀陽宮 正月宮 粟田宮 尹宮 獅子王院宮 青蓮院宮 成憲 尊応法親王 尊融法親王
 幼名・富宮 熊千代    身分・皇族
  1831年の8歳の時、本能寺の僧日慈に儒仏を学び、のちに有馬重範・有馬範顕に剣術、漢学を学ぶ。1836年8月に仁孝天皇の養子
 となり、奈良一乗院の門主となる。1837年12月親王宣下され、名を成憲と賜る。1838年閏4月には得度、名を尊応と改める。1848年
 3月、二品に叙せられる。1852年3月、青蓮院宮尊超法親王の死去により有馬範顕の推挙により勅旨がでて、青蓮院門跡を相続して青
 蓮院に移住、名を尊融と改めて有馬範顕を後見人とする。その後たびたぴ有馬範顕の献策を孝明天皇に奏上したり、孝明天皇から直接勅
 問があるなど、国事に関与した。天台座主も兼任している。
  1858年の条約勅許問題や将軍継嗣問題に関与し、条約の勅許に反対し、有馬範顕とともに一橋慶喜を将軍擁立に賛同した。そして
 鷹司政通を説得して反対方につかせ、伊丹蔵人や山田勘解由ら家臣と有馬範顕の家臣の芝山昌道らの紹介により小浜藩士の梅田雲浜
 を召して密議もする。このために安政の大獄に連座し、1859年2月に幕府から「慎」を命じられ、12月にはさらに「隠居永蟄居」の処分を
 受け、相国寺内の桂芳軒に幽居して獅子王院宮と称した。
  先に赦免された有馬範顕らの尽力により、1862年4月には許されて復帰した。そして急進攘夷派を牽制させるために有馬範顕・一条忠
 香らによって12月には国事御用掛に任命される。しかし、翌年1月還俗して中川宮と称したが、現状打開が困難としてには辞意をもらすが、
 一条忠香の工作により辞意は受理されなかった。有馬範顕より開国の思想を取り入れ、三条実美ら急進攘夷派と対立、8月の真木和泉ら
 による中川宮の西国鎮撫使擁立計画を固辞して公武合体派の解体を回避する。
  攘夷派勢力が攘夷親征・大和行幸の詔を出したことにより、有馬範顕・平岡円四郎・手代木直右衛門らの攘夷派放逐計画に賛同、会薩
 同盟の成立より、盟主となる。そして有馬範顕らの計画どおりに参内して孝明天皇に政変を起こすことを上奏する大役をはたす。8月18日
 の政変の後、十津川の天誅組の追討令を発したり、在京十津川郷士を使って中山忠光らと分離させる工作や、三条実美らの処分を上奏
 したり、有馬範顕らとともに縦横無尽の働きをする。その功績により「朝彦」と名を賜り、二品弾正尹に任ぜられる。
  1864年には宮部鼎蔵らの尊攘派志士による中川宮襲撃幽閉計画を含む尊攘計画が露見して池田屋事件が発生、その年の10月には
 賀陽宮と改称する。蛤御門の変では対長州強硬論を主張して、和睦を主張する諸公卿と対立して一橋慶喜に即時撃退を命ずる。そして戦
 後には官位昇進が止まっていた有馬範顕を変の功績により権大納言に昇進させるように孝明天皇に上奏している。
  第一次長州征伐では有馬範顕とともに幕府を支持して、勅命をくだすように務め、兵庫開港問題についても幕府の苦境を察して勅許を内
 願した。第二次長州征伐では有馬範顕よりも強硬に征長を主張するが幕府は敗れてしまう。しかしその後も幕府を援助する立場をとる。
  慶応年間、処罰公卿宥免が問題化すると中川宮は独自に、岩倉具視の蟄居を破っての志士との交流を問題にして宥免不可を主張する。
 このために岩倉具視の画策した22堂上の列参建議では弾劾の対象とされる。孝明天皇の崩御後には有馬範顕らによって皇嗣として擁立
 計画が密議されるが、有馬範顕の自邸軟禁や岩倉具視らによる明治天皇の践祚強行によって失敗、国事叡慮扶助職や国事御用掛は順
 次罷免され、参朝停止処分にされた。
  1868年、有馬範顕らの再度の皇位擁立計画の中で独自でも反乱を計画、しかし密偵が江戸に行く途中で逮捕されて露見、8月には自
 身も逮捕され、親王の身分・位記は剥奪され庶民に落とされ、広島藩におあづけとなった。
  1870年閏10月、帰京しで伏見宮復帰を許され、のちに謹慎も解かれて親王に復帰して久邇宮と称した。それから神宮祭主となり皇族
 でただ一家京都に居住して神宮に奉仕、神道・皇典などの研究に力を尽くし、大勲位に叙せられる。1891年10月24日に68歳で死去し
 た。京都の泉涌寺の皇族墓地に葬られた。
    久我 建通   (1815〜1903)
 父・一条忠香  養父・久我通明   身分・公卿(清華家)
  久我通明の養子となり、久我家を継ぐ。1822年、8歳で従五位下侍従に叙せられる。1826年8月には従三位に叙せられ、1834年1
 月には正二位に進み、1848年4月には権大納言となる。1854年7月には議奏となり、1861年12月まで在職した。その間、孝明天皇の
 寵遇をうけて枢機に参画、権関白と呼ばれた。1858年3月には右大将を兼任する。このころ幕府の堀田正睦が上京して条約勅許運動を
 開始、久我建通はつねに条約勅許反対を唱え、勅答の処理や幕府使節の応接にあたった。そして幕府に協力した九条尚忠を三条実万ら
 が排斥弾劾をはじめるとそれに同調、さらに水戸賜勅問題にも関与して安政の大獄の対象となり、1859年2月に5日間の「慎」を命じられ
 た。1860年の和宮降嫁問題になると岩倉具視とともに朝幕間の主張の調整につとめ、和宮不承諾の代案としての万寿宮の降嫁なども献
 策している。これにより幕府より賄賂をとって幕府に味方していると流説が横行し、1862年に内大臣となるが尊攘過激派から四奸の一人
 として脅迫をうけ、8月には外交問題で九条尚忠して幕府に同調したとして弾劾されて辞官・落飾を余儀なくされた。9月には洛中居住も禁
 止され、素堂と号して平野村に蟄居した。1867年3月には入京を許され、12月には官位が復帰したが、表にまだでれずに裏で岩倉具視
 一派に組して中川宮・有馬範顕らの放逐に尽力、岩倉具視の命により自分の4男の通城に北畠家をつがせて北畠有馬家を消滅させる。
  1868年12月には蟄居が解かれ、還俗が命ぜられた。そして下鴨神社や上賀茂神社、松尾大社の宮司を歴任したり、宸翰御用掛や英
 照皇太后葬祭斎主などを務めて、1887年に従一位となる。1903年9月28日に東京牛込で89歳で死去する。