有馬範顕卿御一代記
7・王政復古と有馬家の消滅
慶応3年10月、岩倉・三条・中山ら倒幕派公卿は薩摩藩の大久保利通の要請により、外祖父の中山忠能がいる限り、
意のままになる天皇から倒幕の密勅を得て、13日・14日には薩摩・長州両藩に倒幕の密勅がだされた。徳川慶喜は武
力衝突を回避するため穏健的な大政奉還を倒幕の密勅がでるのと同日の10月14日に朝廷に大政奉還を奏上、倒幕
派の出鼻をくじく。しかし徳川家政治顧問西 周の諸大名会議の政治構想が不振に終わったことで薩摩藩が武力倒
幕を決定、長州・土佐・芸州ら倒幕諸藩に出兵をもとめてクーデターの準備をすることとなる。12月8日には朝議が行わ
れ、摂政二条斉敬らが西宮に長州軍がせまっていることで恐怖したのか長州藩主父子と長州藩の全面的復権と長州兵
の入京、そして旧尊攘派である倒幕派の岩倉具視・三条実美らの全面的赦免を許可しようというが、中川宮・範顕は徹底
的に長州藩の復権の危険性と岩倉らの陰謀説を説いて反対するが、徹夜の朝議の結果おしきられて復権と兵の入京、
そして赦免が許可されてしまう。翌9日朝には二条・中川宮・範顕ら幕府方公卿が退出、残った正親町三条・中山ら倒幕派
公卿は尾張の徳川慶勝・福井の松平慶永らと土佐の山内容堂・後藤象二郎や薩摩の島津忠義・大久保利通・西郷隆盛、
そして倒幕派の総大将である岩倉具視ゃ倒幕派皇族である有栖川宮熾仁親王・山階宮晃親王を次々に参内させ、西郷
は御所の全門を薩摩・芸州・土佐・福井の兵でかため、幕府方が参内できないように占拠したのである。そしてクーデター
が開始されることとなる。岩倉・大久保は国学者玉松 操に起草させた王政復古の大号令を明治天皇に宣言させ、幕府・
京都守護職・摂政・関白などの役職を廃止して天皇のもと総裁・議定・参与の三職を設置、新体制を発足させる。そしてそ
の日の深夜に小御所会議が開かれ、徳川慶喜の辞官・納地が岩倉・薩摩によって主張されるが、山内容堂・松平慶永が
これに反対、特に山内は徳川慶喜わこれに参加させるべしと主張、しかし休憩中に西郷に一喝された岩倉が山内らを抑
えて慶喜の辞官・納地が採択される。慶喜ら幕府方はこれに猛烈に怒り、鳥羽・伏見の戦いへとすすんでいくのである。
これと同時に幕府方の公卿である中川宮朝彦親王・有馬範顕・二条斉敬・鷹司輔煕・近衛忠煕・近衛忠房らに幕府に通
謀したという嫌疑がかけられ、参朝停止・謹慎が命ぜられた。大坂城の幕府方は新政府軍となった倒幕派と一戦まじえる
こととなり、新選組・見廻組・会津軍を先頭に鳥羽・伏見に布陣、慶応4年1月3日には薩摩軍と交戦するが、翌日には錦
の御旗の登場と仁和寺宮嘉彰親王の征東将軍就任で幕府軍は朝敵となり、洋式訓練をうけた新政府軍に大敗を喫し、
敗走することとなる。中川宮朝彦親王の主戦派家人と有馬家家令である城島和泉(守)則頼を中心とする有馬家主戦派
家人は他の幕府派公卿家人の家人もひきつれて城島を首領に親友である見廻組の佐々木只三郎の指揮下に入り、鳥
羽や伏見方面で参戦するが敗走し、有馬家預所司の芝山出羽(守)昌成が重傷を負った佐々木を紀州まで逃亡させるが、
12日には紀三井寺で佐々木は戦傷死している。それからの芝山は京都にもどって会津までいって戦死したともいうし、紀
州方面で佐々木とともに戦傷死したともいわれていてさだかではない。城島は敗走後、有馬邸にもどり有馬範顕とともに情
勢を傍観しながら中川宮邸との情報交換に従事している。4月には江戸無血開城、翌月には上野彰義隊による上野戦争
で新政府軍の圧勝と新政府軍は関東を統一した。会津藩はなおも抵抗し、奥羽越列藩同盟を形成して会津に新政府軍を
迎え撃つ体制をととのえた。範顕は上野寛永寺の覚王院義観に書簡をおくって、輪王寺門主の公現法親王に帝位を名乗
らせて奥羽越列藩同盟に参加するように要請、そして京都では中川宮朝彦親王の再度の皇位擁立を計画していた。
範顕は新政府の親玉となった岩倉の横暴に嫌悪する近衛忠房の内許を得て、葉室長順・広橋胤保ら下級公家と語らっ
て反乱をおこそうとした。中川宮も独自に反乱を計画、しかし密偵が江戸にいく途中で逮捕されて露見、範顕の方も葉室・
広橋の密告降伏によって大原重徳・大木喬任・徳大寺実則らに計画が露見する。8月には中川宮が逮捕され、親王の身分
位記は剥奪され、庶民に落とされ広島にあずけらけた。範顕は逮捕直前に京都を脱出、家族・家人とともに会津へむかった。
会津では手代木直右衛門の領地である喜多方方面にかくまわれ、覚王院義観に「東武皇帝」として擁立された公現法親王
をもって明治新政府ととってかわろうとしたが、仙台・米沢・会津が8〜9月中に次々降伏、降伏直前に手代木・山川大蔵ら
会津幹部と会い、京都における政変や池田屋などの騒動事件についてこれを内密にするように命じ、のちに山川は著書の
「会津守護職始末」から一件を削除したということである。手代木も沈黙を守ったまま死去した。その後範顕は降伏直前に
会津を脱出し、逃亡先を知られないように家紋を変更して範顕の領地である津軽浪岡に隠遁することとなった。このとき有
馬家家令の城島則頼は会津市中の戦闘で新政府軍の攻撃で戦死、その他家人も次々戦死して津軽浪岡についたときは
家人は数名もいなかったという。津軽藩主津軽承昭は新政府軍についていたものの有馬家に好意的に接し、新政府軍の
探索からかくまった。旧幕府の榎本武揚らがは箱館で蝦夷共和国を樹立したときに範顕も共和国に加わろうとするが、津
軽藩が箱館攻撃のための新政府軍拠点だったために渡道をあきらめた。箱館五稜郭が陥落して共和国が滅びると、旧会
津藩は下北で斗南藩として復活、浪岡で細々とくらしている範顕に斗南藩重臣となった山川大蔵は密かに援助物資をおくっ
ていたという。
明治2年、華族制度ができると政界復帰を試みて浪岡より範顕は旧公卿ということで華族に列するように中央政府に要請、
しかしこれがあだとなり、中央政府を牛耳っている岩倉・三条・長州・薩摩らは新政府高官の身分をたてに範顕の今までの
官位をすべて停止し、記録から抹消し「公卿補任」などの人事名簿やその他の公文書から有馬家のところをすべて抹消、適
当に人を補い矛盾を正して存在もろとも消してしまったのである。天皇を暗殺するほどの権力を持つ岩倉らに公文書偽造や
すげ替えなど簡単なことであったろう。ごたごたしていて朝令暮改のこの時代、さらに事はやりやすかったであろう。そしてダメ
押しに北畠家の末裔であることも消してしまった。江戸時代初期に北畠親顕が無嗣で死去したことに目をつけ、そこで北畠は
断絶したとして明治4年7月に内大臣久我建通の4男通城に北畠家を継がせて矛盾をただしたのである。この久我建通は範
顕の冠親である久我通明の養子である。範顕とは内面上相当仲が悪かったので岩倉のこの陰謀に賛同したのであろう。そし
て浪岡の領地についても津軽藩に圧力をかけてこれを消去させ、完全に有馬家を存在もろとも消してしまった。これこそ勝者
が歴史をつくる典型であり、有馬家は歴史の敗者として一切の歴史文献その他からその姿を消されてしまった。
その後、有馬範顕は再三にわたって中央政府に政治への参加・復権・赦免を打診するが、ことごとく拒否された。明治4年3
月の愛宕通旭事件では明治天皇の京都還幸の政変を画策した愛宕通旭の同志外山光輔の家令高田 修から政変成功後に
復権を約束されて明治3年に久邇宮として復活した中川宮と連絡とろうとしたところ、計画が発覚して愛宕通旭や外山光輔らが
逮捕・自刃して復活の機会を失った。ところがこの時は範顕はまだ動いていなかったために捕吏はこず、罪にはとわれなかった。
というより政府も範顕が外山と連絡していたとは知ってはいなかった。明治3年に久邇宮として復活した中川宮朝彦親王はその
後伊勢神宮祭主に任ぜられ、現皇太后陛下の父上である久邇宮邦彦王元帥陸軍大将や梨本宮守正王元帥陸軍大将、朝香宮
鳩彦王陸軍大将、戦後内閣総理大臣をつとめた東久邇宮稔彦王陸軍大将などの有名皇族軍人の父上となった。そして幕末期
に色々な計略を考えた手代木直右衛門は会津戦争のあと鳥取・高須・名古屋に幽閉されたが、明治5年に赦免され、左院少議
生として復帰した。手代木は範顕復帰のために中央政府に赦免を働きかけ、範顕の新政府復帰工作に尽力する。しかし、かなう
ことはなかった。その有馬範顕も明治6年3月21日、津軽浪岡の隠遁先で死去したのである。享年58歳であった。その死去の
らせは手代木・中川宮・徳川慶喜・松平容保などに報告された。手代木は当時香川県権参事で範顕の死去を聞いたときに、
「幕末・維新期の一傑を亡くす」と悲涙したといわれている。中川宮らも哀悼の意を表したという。有馬範顕は一生を佐幕・公武合
体に力を注いだのである。範顕の死去後、長男の有馬丑之助(麿)・次男の有馬酉松(麿)は新政府からの暗殺をおそれ、諱を
つけず、丑之助・酉松として苗字を許された庶民風に幼名のまま一生をすごすことにした。そして苗字の許可が出たときには周
辺の庶民たちに「有馬」という苗字を普及させ、特定されないようにもした。だから浪岡周辺は旧北畠氏ゆかりの者以外にも「有
馬」という家が多い。さらに有馬家浪岡代官職で旧浪岡北畠一族である有馬金次郎の養子にはいり金次郎の一族の津軽藩士
と謀って津軽藩士籍や戸籍工作もした。そして父・範顕の業績をかくすために慶応年間に死去したというニセ過去帳まで作成し
て隠匿に力をいれた。このようにして完全に有馬家は庶民となった。兄にかわって7代目有馬家当主となった有馬酉松は新政
府復帰をやめて豪農としての生活をはじめたのである。範顕の生きていた廃藩置県ごろまでは斗南藩の山川らからの密援助
でなんとか食いつないでいたが、その後は自作農にはいった。酉松の代になると完全に帰農した。このようにして公卿としての
有馬家はおわりをつげた。これら有馬家の事績を酉松は兄と協議して家の秘匿とし、子供には口伝制をとって伝承させ、他言
では津軽藩士とすることとした。このようにして有馬家はいままで事実は口伝制をとってきた。有馬家8代有馬範治先生は口伝
制の脱却のために有馬範顕卿御一代記の製作を開始、ここに有馬範顕卿御一代記ができたのである。