有馬範顕卿御一代記
6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺
慶応2年12月25日、公武合体派の重心であり幕府支持の姿勢を見せていた孝明天皇が崩御した。当時岩倉村に隠遁してい
た岩倉具視は岩倉村にて薩摩・長州ら倒幕派藩士や倒幕派公卿をつかって「倒幕」を強く主張、公武合体・幕府支持を公言する
孝明天皇の存在は邪魔でしかたがなかったのである。そこで岩倉らは天皇の暗殺を計画するのである。岩倉は侍従として天皇の
側近くにいた経験があり、天皇が筆をなめる癖があることに目をつけて、妹の堀河紀子に命じて天皇が堀河紀子邸にきたときに
筆に毒を盛ったのである。ちなみに天皇は堀河邸で毒殺されたあと御所に移送されている。別説としては岩倉の子分化している
長州藩士伊藤博文がでてくる。伊藤は当時無名の存在であった。この伊藤が天皇を槍で刺殺したというものだ。伊藤の出自は長
州藩の忍者集団「はちや衆」という流れの下忍であるという。それから伊藤の父が足軽の養子となって武士身分が与えられ、吉田
松陰の松下村塾にはいった。忍者であるから暗殺は得意分野である。この忍者集団は歴代の長州藩主を何人か殺害しているとい
う。これにより暗殺をおそれた藩主は「そうせい」しか言わなくなり、「そうせい侯」とあだ名された無言藩主となったいきさつがある。
だから長州藩は家臣が藩政を左右してきた。幕末になってくると藩主には発言権・決定権はなく、家老連合が決定したことを無条件
認知する認知機関でしかなくなっている。この忍者集団はおもに支藩である長府藩や清末藩や、長州本藩の中堅階級が支配権を
握っていた。忍者であるから上官の命令は絶対である。幕末では下忍も足軽などの養子となって武士身分が与えられ、表にでてこ
れるようになり、尊王の志をもってさらに上の人物に忠誠を誓うようになった。伊藤は兄貴分である桂 小五郎から岩倉を紹介され、
岩倉の子分となり、岩倉の命令で天皇を暗殺したことになる。岩倉は伊藤が忍者出身とは知らないので、暗殺の交換条件として維
新成功後の政府首脳陣へ参加させることを約束している。これにより伊藤は維新後急速にトップ階段を上りつめ、初代内閣総理大
臣にまでなっている。しかし伊藤は下忍出身なために人を信じることができない人物なので、同志の山県有朋みたいに結束の強い
大派閥をつくれなかったが、唯一の親友である井上 馨が世話好きだったために派閥もどきみたいのはできた。
伊藤の暗殺の仕方についてだが、天皇が堀河紀子邸に来ていたときに邸宅の便所に潜み、便所番人を買収して天皇が便所から
出てきたときに槍(忍者がつかう短剣のような槍)で刺し殺した。殺害現場は堀河紀子邸が有力だが、御所という説もある。そして閑
院宮家の侍医の菅 修次郎も手記で当日夜半にたたきおこされて密閉したカゴにのせられて普通人の住居とはおもえない長い廊下
を通って座敷に通され、わき腹を刺されて危篤状態になっている40歳くらいの総髪の男性の手当てをしたといっている。この場所は
御所または堀河邸であるといわれている。ほかにはこれも同じ閑院宮家の侍医である土肥春耕も手記に当日夜半起こされ、目隠し
されて大邸宅にカゴでつれていかれ、そこの座敷の一段高いところにわき腹を刺されて出血多量状態でいる総髪の男性がいたと言
っている。それから中山忠能は日記に「疱瘡毒を盛られた」というような内容を記述しているし、会津藩公用方も石見銀山という毒薬
を盛ったとして毒殺説を主張している。
孝明天皇は慶応2年12月11日に風邪と思われた容態は実は疱瘡の潜伏期の末期で、13日の不眠・発熱・食欲不振・ウワ言等
の病状を経て、15日には手に、16日朝には顔に吹き出物が出始めた。だが17日から便通があり、食欲も起こり熱も下がり、典医
も「まず順当」と診断している。有馬範顕も天皇が疱瘡という病にかかっているということは知っていたが、二条斉敬から12月16日
以降回復にむかっていると聞かされていた。18日には典医は「益々御機嫌よくなられた」と報告し、「吹き出物もご順症」とのべてい
る。21日になって膿を噴出す潅膿があり、典医は「何の申し分あらせられず」と報告している。最後に23日から膿の噴出しがおさま
ってかさぶたとなり乾燥し、次第に熱も下がり、大体において全快にむかった。ところが病状は25日に至って急変し、激しい下痢と
嘔吐のあげく、夜半に至り「御九穴より御脱血」というすさまじい最期をとげた。これを現在の医者どもは再発して死ぬこともあると強
く主張してやめず、現代歴史学者は現代医者の意見を採用、暗殺説は事実無根とているし、論争すら耳をかさない。
天皇の急死におかしいとかんじた範顕ら公武合体派公卿は中川宮に天皇が暗殺されたと通告し、即座に進退をきめなければなら
なくなった。しかし公表は避けたのである。証拠もなしに暗殺を主張すれば墓穴を掘る結果になりかねなかったからである。範顕は倒
幕派公卿の暗殺を計画し、慶応3年3月に復帰して京都にはいった岩倉具視の帰路を有馬家家人の大宮主膳グループに襲わせ、岩
倉家護衛の何人かは斬り捨てた模様だが肝心の岩倉本人にはにげられてしまった。これにより岩倉を中心とする倒幕派公卿と中川
宮・範顕を中心とする佐幕・公武合体派公卿との対立の溝はかなり深くなっていったのである。岩倉は一泊だけの条件で京都に戻っ
たとはいえ、倒幕派に与えた影響は大きく、なりをひそめていた倒幕派はいっせいに京内で暗躍をはじめ、台頭しはじめていった。岩
倉らの強い影響力をもつ人物のバックアップをうけた倒幕派志士は会津藩の後ろ盾により最後の抵抗をみせはじめてきた範顕らを各
所で襲撃、範顕は新選組・見廻組ら身辺警護役や自らの伊勢新刀流剣術で撃退し、一応自らの生命は守りきったが、邸宅は何度も
放火され、累代の宝物や文献も倒幕派の悪の炎によって焼かれ、出入りする商人や雑役のものまで殺害されたのである。範顕の妻や
長男の有馬丑之助(麿)、次男の有馬酉松(麿)(兄弟ともまだ元服していないので諱はまだない)などの家族は有馬家家令の城島則頼
により京都はずれの隠れ家にかくまわれ、難を逃れた。
範顕も襲われてばかりではなく、手代木直右衛門と共謀して岩倉具視をはじめ桂 小五郎・坂本竜馬などの殺害を命じたのである。大
政奉還後といえどもまだ会津藩の力は強かったが、その結果は坂本竜馬・中岡慎太郎の殺害だけでした。(殺害方法については諸説が
ある)そして最後まで会津の味方であったということである。しかしすでに佐幕・公武合体派は風前の灯火で、重要な同志のひとりだった
原 市之進が慶応3年8月14日に幕臣に殺され、旧一橋家家臣も梅沢孫太郎がひとりできりもりするかたちとなり裏部隊も壊滅しかけて
きたのである。
範顕もすでに実権を倒幕派公卿に奪われ、慶応3年1月27日の孝明天皇の大喪には出席を拒否され、自邸で軟禁されていたのであ
る。範顕は孝明天皇の崩御後の後継に睦仁親王(のちの明治天皇)ではなく、中川宮朝彦親王を即位させようと試みている。しかし時す
でに遅く、明治天皇即位を前提とした孝明天皇暗殺だということで野望ははかなくもやぶれた。これにより公武合体派公卿は勢いを完全
に失って衰退し、下級の公武合体派公卿は倒幕派に寝返ったり、野に下って存在消滅させられたり離散を余儀なくされた。範顕はまだ
残って中川宮擁立の機会をうかがって絶望的な抵抗をつづけていくのである。
このときに明治天皇すり替え事件というものがおこったといわれている。概要は長州藩・倒幕派公卿による長州に住む大室庄吉の兄の
大室寅之祐なる人物を皇位を継ぐにふさわしい南朝の皇統であるとして擁立され、明治天皇とすり替えて即位したというものである。この
大室家というのは後醍醐天皇の皇子尊良親王から5代正良親王の皇子光良親王が吉野から長門国の麻郷というところに落ち延びて大
室家を名乗ったというものである。そしてそれと似たようなことがほかにもあり、南朝の長慶天皇の後胤を名乗る「神風串呂講究会」主催
の三浦芳聖は自分の承認のため宮内庁顧問官の山口鋭之助に「自分は真の天皇資格者で、北朝の天皇は偽者」と訴えたとき、田中光
顕を紹介された。そのとき田中は三浦に「明治天皇も実は南朝の正統である。後醍醐天皇の第11皇子満良親王の子孫で長州毛利家が
かくまってきた」と言ったのである。これにより三浦は皇位を要求せず、天皇家の擁護にまわったのである。この三浦事件の田中証言は
田中が三浦の皇位要求を破棄させるために使った狂言ともかんがえられる。
明治天皇は生まれつき身体が丈夫ではなく、神経は過敏で前述したように蛤御門の変での砲撃で気絶したという。だが即位後は全く逆
に頑健となり、相撲好き、酒も強く、どんな臣下より体力があったという。入れ替わったと思われる大室寅之祐も立派な体格で相撲好き、
長州の奇兵隊と一緒に軍事教練に励み、大酒飲みでもあった。即位後の天皇と似ている箇所が多い。これらのことからすり替え説も無視
はできないだろう。政治的視点からみてみると、岩倉・中山・三条ら倒幕派公卿と長州藩らは有馬範顕が明治天皇幼少を理由に公武合体
派総帥である中川宮朝彦親王を即位させようとしていることに危機を感じ、いつ崩御するかわからない幼少の明治天皇(睦仁親王)を即位
させる必要があったのである。しかしそのまま即位し、幼少で皇嗣なしに崩御ということになったら有馬・中川宮一派の天下、中川宮を擁立
させられるおそれがあったからである。中川宮が即位して天皇となれば倒幕派はすべて朝敵となり、岩倉らは失脚どころか孝明天皇暗殺の
犯人として処刑されることは明らかであるし、幕府権威は徳川慶喜によって再興され、やっと倒幕派にくみこんだ薩摩藩や日和見の公家や
諸藩も幕府に肩入れするかもしれなく、長州藩も朝敵のもと廃藩改易されて倒幕派崩壊してしまうことは明白である。こうなることを恐れ、体
力のある頑健な人間が必要だったのである。そこに登場したのが先述した大室寅之祐である。寅之祐は倒幕派とは尊攘派時代から親密で、
七卿落ちのとき三条実美らが大室家に寄宿して寅之祐を養育していたというし、奇兵隊に所属していた伊藤博文も屯所からほぼ毎日大室家
に来訪していたというものである。岩倉らは幕府・公武合体派を倒すため天皇を暗殺し、偽者の天皇まで擁立して権力を握ろうとしたのである。
これは悪奸きわまりないものである。しかし証拠がない以上弾劾はできず、岩倉一派が勝利してしまっている以上どうにもならない。本当に明
治天皇が偽者だとしたら、大正・昭和天皇も直系ではなくなることとなる。これは大変な事態である。しかし薄いながらも南朝の系統をもってい
るので全くの皇統外というわけではない。そして即位するはずだった本物の明治天皇は岩倉らによって殺害されたという。
一応偽者だとは断定もしかねる。環境が人を変えるということがあるからである。京都における天皇・皇太子の日常生活は女官によっておこ
なわれていたが、江戸(東京)遷都おりにすべて交替し、各藩の豪壮な藩士を側近においた。東久世通禧を侍従長に、高島鞆之助・有地品之
允・山岡鉄舟・米田虎雄らを侍従とした。これにより明治天皇は軍人天皇としての教育が施され、体力や精神力が強化されたのではないだろう
か。側近を女性から男性に変更することで、旧来の文学的教育から兵学・戦争・武術的教育へと転換して豪壮な男性的天皇として成長していっ
たのであろう。当時内豎掌典として宮中につかえていた慈光寺仲敏は回顧のなかで天皇が御学問所の庭で山岡鉄舟と相撲をしたり、毎日午後
には乗馬の練習をしているといっている。このように環境と教育によって天皇は変わっていったともかんがえられる。