有馬範顕卿御一代記
5・二つの長州征伐と幕府観念の崩壊
長州嫌いである有馬範顕は蛤御門の変で京都市中を騒がせた長州藩を討伐するように中川宮に献策、7月
24日には一橋慶喜に長州討伐の勅命をくだした。8月6日に紀伊の徳川茂承が総督・福井の松平茂昭が副将
に任ぜられたが、翌日には総督が尾張の元藩主徳川慶勝に変更した。10月22日には大坂城で総督徳川慶勝
以下島津・浅野・蜂須賀・黒田・細川・岡山池田・鳥取池田・鍋島・福井松平ら約30数藩の藩主・藩士があつまり
征長の軍議がおこなわれた。その結果征長は11月18日と決定した。そして出兵となり、11月下旬には総督は
安芸広島に、副将は筑前小倉に到着し、総勢15万の大軍が投入された。そのころ討伐の張本人である長州藩
では蛤御門の変や下関戦争の敗北により佐幕派である俗論党の毛利能登・椋梨藤太らが台頭、急進派の井上
馨がが説得したが、佐幕派に重傷を負わされて完全に佐幕派が藩政を握り、いままでの藩高官である毛利登人・
高杉小弥太・晋作父子らを謹慎・罷免させ、岩国の一門吉川経幹を代表にして幕府に恭順の意を表した。長州藩
は蛤御門の変の指揮者である国司信濃・益田右衛門介・福原越後の三家老の首を差し出し、宍戸左馬之介・佐
久間佐兵衛・竹内政兵衛・中村九郎の四参謀も処刑して一戦もまじえずに降伏した。そして藩主毛利敬親・定広
父子の謹慎と自筆の伏罪状の提出、山口城の破却を命じた。長州にいる政変のとき落ちてきた五卿に関しては
三条実美は筑前・三条西季知は肥後・東久世通禧は久留米・壬生基修は薩摩・四条隆謌は肥前へとそれぞれお
あずけに決定していた。のこり2人の錦小路頼徳はすでに死去しており、沢 宣嘉は別行動している。しかし西郷
隆盛の計らいにより全員太宰府に移すことになった。
このころになると暗殺が半ば公然に行われることとなり、佐幕派・公武合体派はさらに生命の危機が濃厚となっ
ていた。有馬範顕は暗殺から逃れるために城島則頼ら家人だけでは足りないので、城島のすすめにより見廻組
与頭佐々木只三郎を臨時ボディーガードとして勤務させ、手代木直右衛門に新選組・見廻組などの治安維持部隊
に警護のための派遣を命じている。
慶応元年になると第一次長州征伐で敗れた長州藩も復活しはじめ、高杉晋作が佐幕派である俗論党に反発して
下関で決起、蛤御門の変で主動となった遊撃隊の残党もこれに参加、奇兵隊などの諸隊も復活して参加し、俗論党
政府軍を撃破して藩内を倒幕に統一、中川宮・有馬−一橋・会津ラインに不満を爆発させつつある公卿中山忠能ら
はこれに大いに期待して、倒幕派が形成されていった。幕府は長州倒幕派をつぶすために再度の長州征伐を公言、
有馬範顕は中川宮に幕府からの長州討伐の勅許をどうするか問われたが、勅許をだすことをやむなしとし、ついに
第二次長州征伐がはじまるのである。しかし頼みとしていた薩摩藩が薩長同盟により長州につき、諸各藩も消極的
態度となり、ほとんど幕府部隊というかたちで出兵、しかし近代兵器で武装した長州軍により大敗を喫し、将軍徳川
家茂の死去を口実に長州から撤兵し、この戦争での幕府軍の敗退により幕府権威は失墜し、薩摩・長州・倒幕派公
卿(旧尊攘派)が台頭し、発言力を強化していった。
慶応という時代はついに幕府という観念が崩壊し、「倒幕」のもと薩摩・長州などの倒幕派藩士が不満をいだいてい
る公卿と結託して権力を幕府から奪取するために「天皇」という観念を使って朝敵の名のもとに幕府方を次々に追い
落とし、幕府制度を倒壊させた時代である。有馬範顕も手代木直右衛門・原 市之進らと結託し、中川宮や公武合体
派公卿の二条斉敬らを動かしたり、15代将軍に就任した徳川慶喜や松平容保、老中板倉勝静ら幕閣とともに幕府
倒壊防止につとめたが、時はすでにおそかったのである。