有馬範顕卿御一代記
4・平岡円四郎の死と蛤御門の変
8・18の政変から幾度となく会見している有馬範顕と手代木直右衛門、平岡円四郎も池田屋事件前後から会見が頻繁に
なってきた。このことは京都市中に尊攘派志士が多数出現したことをあらわしていると考えられる。手代木は同僚である山川
大蔵・小森一貫斎・小野権之丞らを連れ、平岡は黒川嘉兵衛と新しく一橋家家臣となった原 市之進・梅沢孫太郎らをつれて
有馬邸を訪れ、対尊攘派工作を考えている。この幕末裏の三巨頭のひとりである手代木直右衛門という人は会津藩士で名は
勝任、文久3年(1863)に藩主松平容保が京都守護職となったとき京都へ赴き公用人となり尊攘派浪士対策の総責任者とな
り藩士・新選組・所司代・見廻組・町奉行所などの治安維持部隊を支配・統轄した。そして範顕との提携により会津藩の裏の実
力者となる。見廻組の場合は幕府の編成部隊であったが、実弟である佐々木只三郎が与頭であったので実質的支配は手代木
がしていた。もうひとりの巨頭である平岡円四郎は一橋家臣で名は方中、旗本の生まれで幕臣川路聖謨が水戸の藤田東湖に
推薦、藤田は一橋慶喜から直諌できる直臣の派遣をもとめられてた徳川斉昭に平岡を推挙して、嘉永6年(1853)に一橋家臣
となったのである。一橋家では用人の中根長十郎とともに慶喜を補佐、福井の橋本左内に開国を説かれ、将軍継嗣問題では井
伊直弼と対立し左遷される。文久3年(1863)には一橋家に復活して慶喜の第一の側近として活躍、中根とともに慶喜に開国・
公武合体を説くが、京都上洛直前に中根長十郎が尊攘派に斬られる。上洛後平岡は範顕や手代木と出会い、親友の有馬家家
令城島則頼に開国を説く。そして慶喜を動かして公武合体を推進、元治元年(1864)に一橋家臣となった元水戸藩士原 市之
進・梅沢孫太郎ら尊攘派を公武合体派に転身させ転向させ一橋家分裂を回避、後継者の育成に成功する。ほかには平岡の家
臣待遇で一橋家に入った渋沢栄一に政治・経済の現実を教え、渋沢の経済能力を発掘し、公武合体派へ転向させている。そし
て同年5月に一橋家家老並に昇進、6月には諸大夫となり近江守となった。
池田屋の襲撃成功により尊攘派を排除し、公武合体をさらに推進しようとした矢先に裏の三巨頭のひとりである平岡円四郎が
暗殺されるという衝撃的事件が発生するのである。池田屋事件から11日後の6月16日、有馬邸での池田屋成功の祝賀を兼ね
た長州藩兵入京問題についての対策会議の帰りに京都奉行所与力長屋付近で尊攘派である水戸藩一橋家警衛世話役の江幡
定彦・林 忠五郎ら数名に闇討ちされた。殺害の理由は慶喜に攘夷をしないようにさしむけたということと池田屋の報復である。
平岡は即死したが、従者の川村恵十郎が江幡・林のふたりを斬った。平岡の従者からの通報を受けた城島が現場に到着、即座
に遺体は一橋慶喜のところへ運ばれ、範顕・手代木にも急報された。慶喜は平岡の死に大泣きし、落胆したという。このとき某藩
邸からの帰りだとか諸説があるが、城島が現場にきて遺体を運んでいることから有馬邸の帰り説が有力とおもわれる。池田屋事
件が明治維新を数年遅らせたというが、幕府側にとって平岡の死は幕府倒壊を数年縮めたといえよう。翌日、手代木と平岡の後
継者となった原が有馬邸を訪れ、平岡の暗殺により公武合体派の生命がすでに危険であることを認識、早急な対策を考えること
に終始、範顕は手代木・原に各分掌において尊攘派浪士の追討・捕縛を朝命として下令した。
8・18の政変での京都追放、池田屋における尊攘派の殺害に憤慨した長州藩は、政変で処罰された藩主毛利敬親・定広父子
の赦免と勢力の回復のための出兵を計画する。長州尊攘派の急先鋒の来島又兵衛・久留米尊攘派の真木和泉が「進発論」を
主張して即時出兵を求めて反対派だった久坂玄瑞を参加させるが、周布政之助・桂 小五郎・高杉晋作は反対を主張した。しか
し池田屋事件により進発論が反対派を押し切って出兵を決定、これにより長州藩は福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家
老を将として軍を編成する。先発の来島又兵衛隊300が6月15日には出発、翌日には福原越後を大将に佐久間佐兵衛・佐々
木男也を参謀とする軍勢が出発、24日には福原隊は伏見に、真木・久坂らの混合浪士部隊である忠勇隊は天竜寺・宝寺に陣
取った。26日には国司信濃隊が海路京都へ向かった。国司隊は嵯峨に、益田隊は天王山に陣取って京都を威圧し、それに京
都潜伏中の脱藩浪士なども加わり、総勢2600人となった。長州勢は軍事力を背景に七卿の勅諌を解き、朝廷への長州の復
権を要求します。久坂玄瑞も穏便にすますため嘆願書を製作したが、担当の勧修寺経理が手続きしなかったため空振りに終わ
った。7月7日には一橋慶喜が永井尚志をつうじて長州勢に11日までの撤退を命じ、12日には薩摩藩の北郷久信を総帥に西
郷隆盛らを軍監に約1000が急遽入京、会津藩の松平容保の指揮下に入り会津軍2000と合体、その他彦根・津・淀・尾張の
各藩兵の合計1万での迎撃が決定した。長州勢は益田隊本営で軍議を開き、急進の来島が穏健の久坂と問答するが福原と真
木の説得により戦闘が決定、7月18日夕刻から先手をとっての京都侵入をおこなうことになった。朝廷では7月18日に長州追討
を決定、中川宮・有馬範顕は一橋慶喜を追討総督に任じ、会津藩ら各藩兵に御所の九門を固めさせた。
7月19日未明には両軍の戦闘が開始され、国司信濃隊500の軍は下立売御門・中立売御門・蛤御門の三方向から攻撃、その
中の来島又兵衛は会津の守る蛤御門に殺到して一時占拠するまでにいたった。これにより御所は大混乱に陥り、正親町三条実愛
や中山忠能らは即時に長州との和睦を中川宮・範顕に主張、範顕らはそれを強く拒否した。正親町三条らは強硬手段として追討
総督一橋慶喜に長州との和睦を命令したが、慶喜も御所襲撃の朝敵に和睦とは何事かと拒否した。範顕は天皇の避難を奏上した
が、病をおしてきた松平容保や一橋慶喜が天皇の安全の保証をして避難はしなくてすむこととなり、長州勢の攻撃にうろたえる公卿
を持ち前の武風の気迫でとりまとめ、御所の混乱を収拾し、会津らに即座に長州勢を撃退するように命じている。蛤御門で苦戦して
いる会津軍を乾門にいた薩摩の西郷隆盛はこれにかけつけて会津を援護し、部下の川路利良に来島を狙撃させ、川路の銃弾によ
り来島は戦死した。山崎の真木・久坂の忠勇隊300は堺町御門の越前軍をやぶって鷹司邸にて最終決戦、邸主鷹司輔煕は連座
することを恐れて脱出参内し、久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎はそこで戦死した。真木和泉軍は堺町御門で久坂とわかれた戦う
も敗れて山崎へ撤退、天王山で同志とともに自決した。先の国司軍は来島の戦死後に新選組などの斬りこみをうけて総崩れとなり、
寺町御門方面に退却、しかしそこで越中軍の攻撃にあい壊滅、敗残兵は京都に潜入するが会津らの各藩兵はかまわず市中を砲撃
し長州勢もろとも焼き払う構えをみせたので天王山に退却する。しかし各藩兵と新選組がどこまでもこれを追撃、国司軍はそのまま
長州へ退却していった。福原隊は伏見街道を北上中に大垣藩兵の待ち伏せにあい、竹田街道に進路変更するが会津・彦根藩兵に
攻撃されて福原が負傷、市中に入らずに嵯峨・山崎方面に退き、長州へ退却した。天王山の益田隊も長州に引き揚げ、長州軍が全
滅に近いかたちで終了した。この戦いの最中に脱走して長州勢にはいると思われた六角の獄にいた平野国臣・古高俊太郎ら約100
人を処刑している。そして長州勢の流れ弾が御所に飛び込み、皇太子時代の明治天皇が気絶されている。この戦いの功績により官
位がストップしていた有馬範顕はやっと極官である正二位権大納言に昇進している。しかし正親町三条実愛や中山忠能らが長州と手
をむすびかけていることを感じるのである。このころには中川宮・有馬−一橋・会津ラインが確立されており、宮中を中川宮・有馬勢力
が握っていることに正親町三条らが不満に思いはじめたのであろう。中川宮・有馬は政変のおりに正親町三条らを復権させてやった
恩があるのに、これでは恩をあだで返すようなものであると思う。しかし性格が冷血であるといわれている公家社会、裏切りも日常茶
飯事ではないかと考える次第である。この不満がのちのちに多大な影響をおよぼすのである。