有馬範顕卿御一代記

 

  3・天誅組の乱と池田屋事件

 

 急進攘夷派と長州藩を京都より放逐した中川宮と有馬範顕は、十津川にいる天誅組に対して追討令を発した。天誅組は8・18

の政変の直接原因である8月13日の大和行幸・攘夷親征の詔がでたことにより、盟主たる公卿中山忠光が攘夷親征の先陣部隊

となるために挙兵したものである。8月14日、中山忠光は中山邸を出て実質的リーダーである土佐藩士の吉村寅太郎と木屋町三

条で落ち合い、そして三河刈谷藩士の松本奎堂とも落ち合い、同志の待つ京都方広寺へ集合した。その夜、伏見から船で下り、16

日には堺に上陸、奈良・高野街道から河内に侵入し夜には富田林に到着し、水郡の陣屋に宿泊したのである。17日早朝から出発

し、正午には川上村観心寺に入った。これまでには多数の十津川郷士をはじめとする同志と備前出身の藤本鉄石が合流参加、総

勢は100人を超えたのである。中山忠光は自分の補佐役として土佐の吉村寅太郎・備前の藤本鉄石・刈谷の松本奎堂の3人を総

裁に任じた。それから天誅組は菊花紋章を表した旗とノボリをかかげて川上村から出陣、千早村から金剛山をまわって千早峠から

一気に五条代官所に攻め込んだのである。そのときの五条代官所の代官は鈴木源内という者で、前年まで十津川代官をしていた

大の尊王家であった。後世に鈴木源内は天誅組を美化する勢力によって悪逆非道の人物にされてしまった。天誅組としては倒幕が

名目であるため、襲撃目標は幕府の役所であれば何でもよく、偶然にも天誅組の行く手に五条代官所があったことで襲われたもので

ある。鈴木源内としてはこのときに代官に赴任していたのが不幸だったのである。

 天誅組は代官鈴木源内以下役人5人を殺害、桜井寺に本陣をかまえた。このとき8・18の政変や五条代官所襲撃がおこるとは知ら

ない三条実美、真木和泉は中山忠光に挙兵を思いとどまるように筑前福岡の国学者平野国臣を派遣したが、すでに代官所襲撃は終

了していた。19日には政変がおきたことが天誅組の耳にはいり、天誅組は吉村の進言により徹底抗戦を決定、南下して十津川に入

り1000名以上の十津川郷士を参加させ、26日には大和高取藩の高取城の襲撃を決定する。しかし襲撃したものの城が堅固なので

つぎつぎに敗走し、天ノ川へ退却した。このときに前述したように中川宮・範顕により天誅組追討の勅命がでるのである。京都守護職

松平容保はこれにより追討令をうけ、彦根藩2000・郡山藩2000・津藩4500・紀州藩1200・岸和田藩900・尼崎藩400・小泉藩

300・狭山藩100の合計11400人の各藩兵に出陣を命じて十津川にて包囲の体制をとった。9月10日には追討軍は天誅組を一斉

攻撃、天誅組は全滅に近い被害をうけることとなる。中山忠光は十津川郷士を結集して再起をはかろうと計画するが、天誅組に追討

の勅命がでたことをしった十津川郷士は中山に味方するものはいなくなり次々離散していき、9月15日には天誅組に十津川退去を要

求した。その後天誅組は各地で敗走、9月24日には吉野の鷲家で追討軍に完全包囲された。天誅組三総裁は中山忠光を脱出させ

て再起をはかる計画を立て、数名の斬り込み隊を編成して手薄とみた鷲家口の彦根藩兵に決死攻撃を敢行、中山は三輪方面に脱出

したものの、斬り込み隊は一斉射撃をうけて全員戦死する。総裁の吉村寅太郎は27日に津藩の攻撃で戦死、藤本鉄石も同日紀州藩

の攻撃で戦死、松本奎堂は戦闘中に自決した。残った幹部も戦死・自決・捕縛された。こうして天誅組は壊滅とたのである。中山は脱

出後、大坂の長州藩邸にはいって長州にのがれるが、元治元年(1864)12月8日に長州藩の佐幕派によって殺害された。

 日にちはもどり三条実美・真木和泉によって中山忠光に挙兵をおもいとどまるように説得させるため派遣された筑前福岡の国学者平

野国臣は政変を知った後天誅組とわかれて9月2日には但馬に潜入して農民兵の挙兵を計画、孤立化しつつある天誅組を助けようと

土地の豪農らに決起を促した。平野は長州にいる七卿落ちのひとり沢 宣嘉を盟主にいただこうと10月2日、奇兵隊総督河上弥一が

沢とともに但馬に海路急行、10月10日には挙兵することに決定した。しかし天誅組が壊滅したことを知った平野は挙兵の延期を勧め

るが、河上が但馬挙兵に固い意志を示したので平野もこれに従い、挙兵がおこなわれることになった。10月12日、代官不在の生野

銀山代官所を襲撃し、そこを拠点とした平野らは参加農民を募集、これにより2000名を超える農民兵が集結した。しかし代官所役人

の通報により姫路藩・出石藩・豊岡藩など近隣諸藩の藩兵が生野へ進軍してきた。生野の農民兵は各藩兵の進撃に動揺し、主戦派

と解散派に分裂、10月13日には盟主沢 宣嘉を長州に脱出させ解散、河上弥一らの主戦派は妙見山に立てこもって抗戦したが、農

民兵・村人に襲われて美玉三平・中島太郎兵衛らは農民兵に殺され、河上と戸原卯橘は自決して主戦派は壊滅した。平野国臣は捕ま

って京都におくられ他の同志とともに六角の獄に収容された。

 急進攘夷派や長州藩を放逐し、天誅組らを壊滅させた事件は各地の尊攘派志士を刺激し、これらの志士たちは尊攘派公卿の手先

や各藩尊攘派・勤王倒幕派の刺客となったり独立した暗殺専門家になり公武合体派や佐幕派の暗殺を計画するようになった。尊攘派

志士は皇族である中川宮朝彦親王を殺すことはいくらなんでもはばかりがあるので、中川宮の信頼の厚い有馬範顕がトップターゲット

として狙われ、松平容保などの幕府方上層部から佐幕方諸藩藩士、町人学者のはてまでも狙われた。範顕は暗殺から逃れるために

文久3年(1863)8月末あたりから有馬家家令の城島和泉(守)則頼に京都において尊攘派志士の動向について隠密調査を命令して

いた。城島はそんな中、四条小橋にある道具商桝屋に肥後熊本の宮部鼎蔵ら尊攘派志士が出入りして公武合体派公卿暗殺計画など

不穏な動きをしていることをつきとめたのである。城島はそれをすぐさま範顕に報告、範顕は邸宅に会津藩士で公用人の手代木直右

衛門を呼んで家宅捜索などして計画を阻止するように命じたのである。手代木は自分が支配する新選組に出動を命じ、新選組は元治

元年(1864)6月5日早朝に桝屋を家宅捜索、桝屋喜右衛門こと近江の尊攘派古高俊太郎を逮捕して連行し拷問、厳しい拷問に耐え

かねた古高は御所や市中に放火後、駆けつけた中川宮を幽閉し、京都守護職松平容保を討って京都の会津藩を攻撃、御所及び公武

合体派公卿の邸宅に乱入して有馬範顕以下公武合体派公卿をことごとく殺害して長州藩を京都に入れて朝廷内を尊攘派とし、六角獄

にいる平野国臣らを救出するなどの計画を自白、尊攘クーデター計画の詳細が明らかとなった。そのころ新選組の山崎 烝が池田屋

と四国屋に尊攘派浪士結集中という情報をつかんでくるのである。新選組は上官である手代木に指示を仰ぐために、有馬邸において

一橋家臣の平岡円四郎、有馬家家令の城島らとともに尊攘派の一掃問題について会議していた手代木を訪ねた。手代木は有馬邸に

おいて会津藩兵の出陣を命じ、従者に守護職邸の松平容保の許可を得させるためにはしらせた。そして新選組に京都所司代松平定

敬にも報告させ、出兵をもとめた。手代木は会津・桑名らの藩兵と新選組が同時に襲撃させるようにかんがえるが、大人数の会津藩

兵は手惑いに遅れたため、新選組が独自に襲撃を敢行することとなった。

 新選組は池田屋より四国屋を重視、副長土方歳三に主力28名を率いさせて四国屋へ向かわせた。局長の近藤 勇と沖田総司・永

倉新八・藤堂平助・谷 三十郎・原田左之助・近藤周平(6人説もある)の7人で池田屋を襲撃、池田屋の中から山崎 烝も手引きして

参戦、尊攘派浪士と激しい戦闘となった。尊攘派浪士側の方が人数は多かったが、不意をつかれたことにより新選組が少し優位にた

っていました。しかし少数の新選組、会津はまだ来ず、四国屋襲撃部隊の土方も遅れたために尊攘派浪士が混乱しているすきをみて

奮戦したが、沖田が吐血して戦線離脱、藤堂も顔に負傷して離脱したので近藤らはあぶなくなった。のちに近藤は兄に自分は危なか

ったと手紙に書き記したという話がのこっているという。それから四国屋襲撃部隊の土方が到着加勢して新選組は勢いをもりかえし、

ついに会津藩らの藩兵が池田屋を包囲して池田屋の戦闘は終了する。尊攘派浪士側の被害はいろいろまちまちだが、肥後の宮部鼎

蔵・長州の吉田稔麿・土佐の望月亀弥太ら約14人が闘死・自決し、土佐の野老山吾吉郎・山田虎之助ら約19人が逮捕され、約5〜7

人が逃走した。これにより京都の尊攘クーデターを失敗させると同時に尊攘派を一掃することにも成功したのである。