有馬範顕卿御一代記
2・有馬家家職と佐幕三巨頭の形成と攘夷派の追放
万延元年(1860)、桜田門外の変で井伊直弼が横死すると芝山昌道・昌成父子は京都にもどって家職に復帰し、城島は謹
慎だけは解かれた。文久2年(1862)の和宮降嫁には範顕はなぜか関与していない。岩倉具視の行動にこの当時は何ともお
もっていなかったのであろう。そして同年7月20日に九条家の島田左近が薩摩の田中新兵衛らに暗殺されると同時に城島は
預所司に復職、8月はじめには有馬家家令の芝山出羽(守)昌道が引退、芝山は次期家令に城島和泉(守)則頼を指名した。
このとき城島は年功序列でいっても芝山昌道の次席、家政実績においても申し分なく、特にこの時代に必要な要素である探索
能力がずばぬけて優秀であったから芝山は次期家令に推挙したのだろう。範顕も城島に対しすでに以前のように怒りもなく、信
頼する重臣のひとりとしてみていたようで、芝山の意見どおりに城島に家令の地位を与えたのである。そして預所司には芝山昌
成が任じられた。その後の元治年間に芝山昌道は死去するのである。
有馬家の家職である預所司とは政所のようなものである預所の長官で、家政の統轄執事官である家令を補佐する副執事的
役割をもったものである。預所司になると次期家令の地位は約束されたものになる。この家令と預所司は芝山・大宮・城島の3
家の順番世襲制であり、三家令職とよばれている。芝山氏と大宮氏はもともと北畠氏家臣で、戦国時代の天正4年(1576)に
織田信長によって陥落させられた多気御所・霧山城主で北畠一族の北畠政成の家老をつとめた芝山秀定の嫡男芝山秀時と北
畠家大老職であり、阿坂城城主である大宮入道含忍斎の次男大宮吉守が芝山秀定の命により北畠具親に急変を伝えにいった
帰りに、田丸城から鳥屋尾石見守・井上専正によってたすけられた有馬家の先祖であり北畠具房の遺児である北畠昌教をみご
もっている具房の妻・鶴女の非難場所である桃が原にたちよって鳥屋尾石見守と交替、家老となった井上専正の指揮のもと石山
本願寺そして奥州にのがれたものである。その後、津軽氏の客分武将となった北畠昌教は津軽軍として関が原の戦いに参戦、
昌教の子北畠昌清の代になると家財政を維持するために昌清は剣術師範として津軽藩士を教育、芝山・大宮氏ら家臣は一時的
に津軽藩に仕官するのである。それ以前に井上専正が引退すると芝山秀時が家老に就任、芝山が死去すると大宮吉守が家老
に就任、この井上・芝山・大宮の初期家老のことを三老職とよんでいる。有馬家初代の有馬権大納言昌範は北畠昌清の次男で
あり、有馬家が北畠一族として再興して叙爵され、京都にいくと芝山・大宮は津軽藩を離れ有馬家の家人となるのである。最後の
城島氏は元来津軽氏の家臣であった。北畠昌清が津軽の浪岡にはいることを斡旋し、芝山・大宮氏など北畠家臣の津軽藩出仕
にも尽力したといわれています。有馬家が再興によって京都にいくと津軽信政の許可を得て有馬家の津軽新参家人のひとりとし
て一緒に京都へいったものである。その後、城島氏の則統が預所司に任じられ、そして城島氏初の家令に就任して家令輩出家と
なったのである。この則統の嫡男が則康であり、孫が則頼であり親子三代家令職についていることとなる。
次にその他の有馬家の家職をあげると、まず道場師範というものがある。これは伊勢新刀流の道場にて現在でいえば教頭と同
じものである。道場主は有馬家当主が代々世襲しているが、この職は家人が任じられており当主にかわって道場と弟子(塾生)を
統轄するものである。これと同格のもので和漢学・和歌などを教授した私塾の塾生を統轄する学問所別当というのがある。塾名が
あきらかではないので、一応学問所としている。両私塾には教方という教官が数人いた模様だが、これは正規の家人とは言いが
たく、現在でいうアルバイトや臨時雇いみたいな感じだろう。そのほか家政関係では膳所司(膳番司とも)というものがある。これは
台所番と倉庫の管理および物品の購入などを統轄したと思われる。そして警備長官として警護番を統轄する侍所司というのもあっ
た。各所には所方という現在でいう所員が数人いた模様である。これも正規の家人とは言いがたく、現在でいうアルバイトや臨時
雇いみたいな感じだろう。最後にこれは正規の家職ではないと伝わっている当主側役というのがあるようである。これは家令か預
所司か兼任しているというのだが、これにかんしてはさだかではない。以上の家職はすべて雑掌である。有馬家には諸大夫がいた
のかいなかったのかわからないからである。地下官位に関しても、芝山・大宮・城島の3家ともども叙任されたのかは不明である。
一応芝山家は出羽、大宮家は主膳、城島家は和泉を世襲しているが、実際の官位かは定かではない。もしも諸大夫であれば「守」
「正」「介」がつくはずである。しかしながら近衛・九条家ら摂家でさえ諸大夫は2家であるので有馬家は諸大夫はいなかったといって
もおかしくはない。いない場合は上の3家は侍及び雑掌・近習ということになる。有馬家は正二位の家格であるので家臣は上の3家
だけとはいいきれなく、あと2〜3家はいてもおかしくはない。通常公家の家臣は一代抱えを含めても数家しかない。近習となると一
代抱えとなるので、上の3家は世襲であるため侍・雑掌となるはずである。
話はもどり城島和泉(守)則頼が家令に就任するころ幕府は京都に京都守護職を設置し、会津藩主松平容保を守護職に任じた。
京都守護職は京都所司代・京都東西町奉行・奈良奉行・伏見奉行の上位にたつ治安維持の巨大権限行使機関である。城島は範
顕の意向を読み取り、親友である佐々木只三郎の兄で会津藩士で京都で公用人をしている手代木直右衛門と接触、範顕と思想が
同じとみるや範顕と会見させ、公武合体推進を約束させている。手代木とのパイプにより範顕は松平容保とも接触し、急進攘夷派
の浪士らの逮捕を中川宮の令旨としてつたえている。これにより範顕は中川宮との朝廷工作による急進攘夷派公卿の追放、そして
京都守護職による急進攘夷派につながる浪士の逮捕によって公武合体派で朝廷を占めようと計画していた。こんなときに公武合体
派の最強の存在である一橋慶喜が京都にきたのである。城島は相当以前に江戸に遊学していたことがあるらしくそのときに佐々木
只三郎や一橋家臣の平岡円四郎らと知り合っており、慶喜上洛に随行してきた平岡円四郎とすぐに接触した。そのころ城島は自己
思想というものがなく、主人である範顕と同じ思想をもつものだけをさがしていた。それを感じた平岡は城島に開国・幕府維持を説き、
城島に開明的思想をもたせたのである。平岡はそれから範顕の邸宅に招かれ、そこにいた手代木とも会見し、有馬・平岡・手代木
の公武合体裏の三巨頭がここに誕生したのである。
文久3年(1863)3月13日、浪士組の京都残留部隊が新選組を結成し会津藩の支配下にはいると手代木がそれを統轄、城島も
新選組の屯所に出入りして情報の受け渡しなどをしたのである。手代木は同僚である山川大蔵・小森一貫斎・小野権之丞などと頻
繁に有馬邸を訪れ、一橋家の平岡円四郎・黒川嘉兵衛らとともに急進攘夷派放逐の計画を練り、中川宮や松平容保・一橋慶喜ら
に賛同を求めた。そうしてついに急進攘夷派放逐の機会がやってきたのである。
文久3年8月13日、長州藩をバックにもつ急進攘夷派公卿の三条実美らが、孝明天皇を大和に行幸させてそれを契機に攘夷親
征のための挙兵をおこなうという大和行幸・攘夷親征の詔を出したのである。しかし実のところ孝明天皇御本人は攘夷は考えてい
るものの親征までは考えておらず、14代将軍徳川家茂に妹和宮を降嫁して以来、幕府と将軍を信頼し、幕府支持のもと公武合体
による朝幕関係維持での攘夷を考えていた。そしてさらに天皇は大和行幸・攘夷親征の名のもとにうごく得体の知れない浪士を嫌
がっていたともいわれている。大和行幸・攘夷親征の詔が出たことにより驚いたのは会津藩と中川宮・範顕を中心とする公武合体
派である。松平容保は同年の5月におきた姉小路公知暗殺事件により九門内の出入りを禁止された薩摩藩に共闘を求めるため
に藩士の秋月悌次郎を薩摩藩士高崎正風のもとに行かせて会薩同盟が成立、それを中川宮に報告しそれを見た範顕は中川宮
に孝明天皇に政変を起こすことを奏上させ、16日には中川宮が天皇に密奏、中川宮・有馬範顕・近衛忠煕・徳大寺公純・松平容
保・手代木直右衛門・秋月悌次郎・高崎正風らは内密に打ち合わせて手はずをととのえた。8・18の政変の幕が開いたのである。
8月18日未明、中川宮がまず参内してそれから有馬範顕・近衛忠煕・徳大寺公純・二条斉敬・近衛忠房ら非長州系及び公武合
体派公卿が参内、その後に京都守護職松平容保・京都所司代稲葉正邦(稲葉は突然のお召しで参内の意味がわからなかった)
らが参内、そして会津・薩摩・淀の各藩兵が当直の葉室長順が勅命によって閉鎖した御所の九門をかため、だれであろうと召命
なきものが門内にはいることを禁じた。中川宮・範顕ら公卿側は三条実美以下急進攘夷派公卿の参内禁止と長州藩の堺町御門
警固を免ずる勅命を下し、九門守備の各藩兵は配備終了の合図である大砲を撃った。それにより三条実美・東久世通禧・広幡忠
礼・徳大寺実則・飛鳥井雅典・野宮定功・三条西季知・橋本実梁・豊岡随資・万里小路博房・烏丸光徳・東園基敬・滋野井実在・壬
生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢 宣嘉らは参内・他行・他人面会を禁止された。(飛鳥井雅典・野宮定功はまもなく許された)そ
して急進攘夷派のために辞任させられていた正親町三条実愛・中山忠能・阿野公誠・柳原公愛・三室戸雅光を議奏加勢に復活さ
せた。中川宮・範顕らはさらに攘夷親征の延期も勅命として出した。処分を受けた三条らは鷹司邸に集合して自分たちの論も聞く
ように言うが範顕は中川宮に拒否するよう献策、そして薩摩藩兵に鷹司邸接収を命じた。薩摩藩兵は鷹司邸と三条らを守護する
長州藩兵と持久戦になるが薩摩藩兵側に会津・阿波・米沢・淀・丸亀・備前・大垣・膳所・大洲・大溝・平戸・因幡・土佐の各藩兵が
集合、これにより長州藩兵は退却を決定し、三条実美・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢 宣嘉の七卿とともに
長州におちていった。