有馬範顕卿御一代記
1・誕生と中川宮との出会いと安政の大獄
有馬範顕は文化12年(1815)2月10日、現在の京都府中京区の天神通のあたりにあった権大納言有馬重範の長男として
生まれた。なぜに邸宅が一般公家のように御所近くではなく中京区にあるかというと、有馬家初代有馬権大納言昌範が延宝初
年に叙爵されて、堂上となり京都居住を命ぜられたときに私財と以前まで庇護をうけていた津軽氏からの祝金だけでは一般公
家と同じような邸宅の建築費用がまかなえないので、あえて御所周辺ではなく中京区に建築したのである。その後、昌範の後継
の有馬権大納言範久は質素・倹約にいそしみ、財政を充実させることに成功し範久時代後期には一般公家と同じような邸宅を
建築したのである。なぜに御所周辺に引っ越さなかったのかは、範久は節約も旨としていたので、移築費用など無駄以外のな
にものでもないと考えていたからである。
範顕の父である重範は、剣術をもって朝廷に仕え、朝議での朝政の傍ら剣術指南役として活動、先述の範久が開設した伊勢
新刀流の道場で一般公家や公家の家人、寺侍などに教授したり、これもまた家芸のひとつである和漢学・和歌の学問所(正式
な塾名は不詳)という私塾でも教授していた。重範は50歳を過ぎても後継に恵まれず、一族公卿である久我氏や中院氏、梅渓
氏や津軽藩主の子弟を養子にしようと考えていた。無嗣を覚悟した重範52歳のとき、待望の長男範顕が誕生したのである。
重範は範顕出生を大いに喜び、内大臣久我通明に幼名をつけてもらったのである。範顕の幼名は源之進(麿)である。なぜに
公家なのに武士的な幼名をつけるのかというと、代々剣術を極める家だということと、武士的気風ももつ家だということだからで
ある。この時代の有馬家は生まれた嫡子を家臣の家に預けて養育させるという慣習があった。そこで重範は、範顕を有馬家で
預所司をつとめる芝山出羽(守)広昌に預けることにした。範顕が生まれてほっとしたのか、重範の病は重くなり、文政2年(18
19)11月10日、有馬家家令(執事)の城島和泉(守)則康と預所司の芝山に後事を託して死去してしまったのである。範顕4歳
の時である。葬儀には久我通明、中院通知などの公卿や幕府高家・津軽藩主の代理人などが弔問に訪れた。そのとき久我通
明はすぐに範顕の元服・叙爵を言ってくるが、未だ喪中ということと範顕若年ゆえに時期尚早という声があがったため延期となっ
たのである。文政8年(1825)、内大臣久我通明により範顕の元服・叙爵がおこなわれることとなった。元服式は久我内大臣邸
でおこなわれ、通明自ら冠親となったのである。実父重範はすでに死去しているので、有馬家家令の城島和泉(守)則康が実父
代行をつとめた。久我通明は養子である久我家後継の久我建通よりも範顕をかわいがっており、それが久我建通にとってはおも
しろくなく、範顕を目のかたきにするようになったのである。後々これが範顕にとって最大の不幸の要因のひとつになろうとはこの
時点ではだれも予測はしなかっただろう。この元服により、範顕(当時源之進(麿))は代々の「範」の字を片諱に範顕となったので
ある。そして久我通明や中院通知らの尽力により従五位下に叙爵された。
しかし、時勢はまだ朝廷は軽んじられている時であり、活躍の場は無く朝議の傍ら、道場で伊勢新刀流剣術を極めたりしていま
した。官位の累進は順調で、文政10年(1827)には正四位下侍従、そして右近衛少将などを歴任し、弘化元年には従三位権中
納言となった。嘉永5年3月、青蓮院宮尊超法親王の死去により青蓮院が空席となったときに範顕は伏見宮邦家親王の子で剣術
や精神・学問などを教えていた奈良一乗院の尊応法親王を推挙、すぐに尊応法親王の青蓮院移動が決定、尊応法親王は青蓮院
宮尊融法親王となったのである。のちの中川宮朝彦親王の誕生である。範顕は青蓮院宮尊融法親王の後見・相談役となり、これ
により範顕と尊融法親王(以後中川宮朝彦親王に統一)は親密となり、中川宮が孝明天皇の信頼を得ると範顕もまた朝政の中枢
に入っていくのである。範顕の献策は中川宮の口をつたわって出るようになり、そのころから先頭にたった行動はしなくなり、裏で
中川宮に献策し、それが中川宮の令旨としてでることとなり、範顕の裏での発言力は強化されたのである。中川宮が後世「魔王」と
呼ばれた所以が範顕との関係で読み取れる。
安政時代になると日本に頻繁に外国使節がくるようになり、幕府も朝廷も動きがあわただしくなってきた。安政5年(1858)にな
ると日米修好通商条約の勅許問題や将軍継嗣問題がおこり、朝廷はあわただしさを増したのである。範顕は条約勅許の問題では
中山忠能ら堂上88人列参には加わらずに中立の立場でのぞんでいたが、将軍継嗣問題では一橋家の当主一橋慶喜を次期将軍
に強く推していた。しかし、有馬家家中では論が分裂していた。城島和泉(守)則康の死後に有馬家家令に就任した芝山出羽(守)
昌道(芝山広昌の長男)とその子芝山昌成父子は最初に梁川星巌の訪問を受け、ついで小浜藩士梅田雲浜、福井藩士橋本左内
や儒学者の池内大学そして久我家家令の春日潜庵らの説得を受け、一橋派として中川宮家家臣の伊丹蔵人、山田勘解由らととも
に公家工作をし、芝山昌成は鷹司家家臣の小林良典と橋本左内の間の取り次ぎなどで奔走した。だが城島則康の子の城島則頼
は紀州の徳川慶福を推す南紀派として九条家家令の島田左近や同じく九条家家臣の宇郷重国、そして彦根藩士長野主膳らと通じ、
京都の公家の動きを江戸の大老井伊直弼に報告した。しかし城島の南紀派への通じはスパイをするためだという説もある。芝山昌
道は南紀派の動きを知るために家中の城島をわざと島田左近に近づけたというものである。
安政6年(1859)、ついに一橋派を弾圧する井伊直弼の安政の大獄がはじまる。範顕は中川宮の慎・隠居・永蟄居に連座し、参
朝停止を言い渡されることになった。芝山昌道・昌成父子は小林良典・春日潜庵ら公家家臣が逮捕されたことにより身の危険を感
じ、幕吏のすきをみて京都を脱出、辛くも追及を逃れたのである。範顕は南紀派についた城島に怒り、謹慎を命じ家職も預所司から
侍所司に降格した。城島スパイ説が正しいなら範顕は城島に対して謹慎は命じなかったであろうが、運悪くこのとき真実を知る芝山
父子が京都にいなかったので、範顕も真実を知るよしもなかったであろう。この安政の大獄により、橋本左内・吉田松陰らは死罪と
なり、小林良典は遠島、伊丹蔵人・池内大学らは中追放に処せられた。範顕は参朝停止により累進が途切れ、従二位権中納言の
ままとなってしまったのである。
安政7年(1860 万延元年)、大老井伊直弼が関 鉄之介ら水戸脱藩藩士と薩摩脱藩藩士の有村次左衛門によって桜田門外の
変で討たれたあと、処分を受けた公家・諸侯・志士たちの赦免が相次いだ。参朝停止中の範顕も同年6月に復帰、未だ赦免が解け
ない中川宮の赦免に尽力することになる。文久2年(1862)4月に中川宮は赦免されたが、朝廷内は急進攘夷派である三条実美・
姉小路公知・東久世通禧らが占めていた。範顕は公武合体派の一条忠香の影響を受け、中川宮を国事御用掛に就任させて急進
攘夷派を牽制しようと計画、同年の12月に中川宮を国事御用掛とする。しかし中川宮は状勢の積極的打開が難しいとして翌年1月
には辞意を表明するが、範顕は一条忠香に孝明天皇に中川宮の辞意を受理させないように手をまわし、それにより中川宮の辞職
は許されなかった。範顕はこのころにはすでに開国の思想を持っており、中川宮に攘夷不可能を説いて開国の思想を持たせている。
そして二条斉敬・近衛忠煕・徳大寺公純ら公武合体派公卿にも開国を説いて、三条実美・姉小路公知・東久世通禧ら急進攘夷派と
反目させることに成功する。このため久留米の真木和泉は中川宮を朝廷から除けば公武合体派は空中分解し、発言力も消滅して
倒幕も可能になると考え、三条実美らと結託し、同年8月に中川宮を西国鎮撫使にして京都から追い出そうと計画、しかし範顕は築
きあげた開国公武合体派を守るため中川宮に固辞するように忠告、中川宮は固辞して真木和泉・三条実美の計画は実現しなかっ
た。このときに範顕は中川宮とともに朝議において幕府支持・不支持などについて三条実美らと激論を交わすが、中川宮はこれ以上
の激論は危険と察知して天皇の御前であるとの理由によりとめたのである。その帰り際、三条の家人か、三条の息のかかった志士
に襲撃されるが、自らの伊勢新刀流の剣で撃退している。このことなどから中川宮・範顕らの開国公武合体派と三条実美らの急進攘
夷派は対立を深くしている。