宮本武蔵と杵築

 

 さきに「杵築と武藏」について書いたが、舟島の試合の時、宮本武蔵をバックアップした長岡(松井)佐渡興長は、知勇兼備の松井康之の子である。康之は杵築城の城代家老であり、後に八代城主となった松井家の祖で、松井家と武蔵の交誼は父祖以來のものである。

 杵築と宮本武蔵のかかわりあいを考える時、先ず松井康之がどうして豊後の杵築城代家老となったか、次に武蔵の養父である宮本無二之助(無二斎)と松井康之がどうしてかかわりをもつに至ったか。について考えたい。

 この点について最近諸誌にもとり上げられ、杵築城の写真まで見られるようになった。

 松井康之が杵築城代家老となったいきさつは、元々松井家は細川氏四天王の筆頭家老で、徳川家の本多平八郎忠勝に匹敵する重臣である。細川忠興大人はガラシャである。忠興は丹波十二万石の領地の外、九州豊前の一国の外、豊後の速見、國東の町二郡が与えられ、松井康之は忠興より飛地である杵築城の城代家老となったのである。          

 次に松井康之と宮本無二之助のかかわりあいを考えると、関ケ原の戦いにさかのぼり、大友相麟の子義統は西軍について、絶家再興の甘言に乗り九州入りした時、松井康之は杵築城を孤守する為中津城主黒田孝高(如水)に援軍を求め杵築城を戰勝に導いた。

 さきに關ケ原の戦いで播磨美作の西軍の残党が逃れた時、無二之助、武蔵父子は西軍と参戦した為、同時に九州に逃れ、豊後杵築の松井康之に庇護された形跡がある。

 無二之助は当理流の使い手で中津杵築と歩き康之のもとで指南した形跡がある。

 小倉城記録によると「武蔵十七歳豊後杵築に來たる」とあるのはこの時のことと考えられる。別の記録によると武蔵父子は石垣原の合戦にも参戦したことも記されている。

 杵築古老に言い伝えられる武蔵杵築に來たると言うことも、武蔵父子が関ケ原の戦いの後、九州豊後杵築に逃れ松井康之に庇護された時のことかと考えられる。

 当時の杵築は杵築城下形成以前のことで、竹ノ尾城下の鴨川一帯が、武家居住地であったことから「武蔵父子鴨川の地に來たる。」に結びつけて考えられる。これが武蔵杵築に來たるの一回目である。

 黒田氏が関ケ原の戦功により、筑前五十万石の太守として転出後、細川忠興が豊前入した時、求菩提、彦山の修験道の勢力に不穏の動きがあった。細川氏豊前入りをした時、藩が登用したのが佐々木岩流である。

城下で勢力を持っていた岩流の流儀は、聖地岩石城に因んだ流派である。

 佐々木一門は背後勢力をかさにきて増長の振舞が多くなって來た時、宮本武蔵二十九歳は豊前小倉城下に現れた。

 次に宮本武蔵と佐々木岩流が、舟島で試合をするようになったいきさつは、次の通りである。細川氏は豊前に入ると、登用したところの佐々木岩流一門の増長が、細川氏をおぴやかすようになった。ここで細川氏は佐々木一門をおさえることを考えた。この頃松井康之のもとに寄寓していた宮本無二之助は、康之より細川氏の試合にかこつけて、よき相手を見つけ、佐々木一門を始末する考えのあることを聞き、試合相手として小倉に現れた養子宮本武蔵をおしたことに始まる。

 試合は極秘の中で舟島で行われた。時に武蔵二十九歳、岩流四十歳前後と思われる。    

 武蔵の木刀一撃で岩流に勝ったは勝ったが、岩流派は細川藩の謀殺であることを知り、武蔵は岩流の弟子どもに追われ、細川氏家老の城代沼田延元の門司城に逃げ込み助けを求めた。その好意で警備ものものしく、豊後杵築の養父無二之助のもとに送り届けられ、城代松井興長の庇護をうけたことが二度目の宮本武蔵杵築に來たるの大要である。

 この追われて逃げたことは、武蔵一生の不覚である。

 武蔵が杵築城の松井興長のもとにのがれたいきさつは、武蔵死後四十年(元禄年間)に書かれた「沼田家記」がある。

 「沼田家記」の讀み下しは次の通りである。

『延元様 (沼田氏後の長岡勘解由左衛門) 門司に御座成られ候時、或年宮本武蔵玄信、豊前へ罷り越し、二刀兵法の師を仕り候。其の頃小次郎と申す者、岩流の兵法を仕り、是も師を仕り侯。双方の弟子ども兵法の勝劣を申し立て、武蔵、小次郎、兵法の試相仕り候に相究り、豊前と長門の間のひく島(彦島)に出會い、双方共に弟子一人も参らざる筈に相定め、試合を仕り候処、小次郎打殺され候。

小次郎兼ての如く、弟子一人も参らず候。武蔵弟子共参り隠れ居り申し候。

其の後に小次郎蘇生致し候えども、彼の弟子(武蔵の弟子)共参り合わせ、後にて打ち殺し申し候。

此の段小倉へ相聞こえ、小次郎弟子ども一味を致し、是非とも武蔵を打果すと大勢彼島へ参り申し候。これによって武蔵遁げ難く門司に遁げ來り、延元樣を偏に願い奉り候に付き、御請合なされ、則ち城中へ召され置き候に付き、武蔵恙なく運を開き申し候、其の後武蔵を豊後へ送り遣わされ候。

石井三之丞と申す馬乗りに、鉄砲の供ども御附けなされ、道を警固致し別条無く豊後へ送り届け、武蔵を無二斎と申す者に相渡し申し候由に御座候』

 「沼田家記」の正確さは、その最後の数行である。「別条無く豊後に送り届け、武二斎と申すものに相渡し、申し候」とある。

 豊後とは杵築城のことで、城代家宅は松井康之、興長父子のことである。

(後 藤 安 臣氏著)