留辺蘂営林署の沿革
 本道林業の大元締めともいうべき営林署が四ヶ所設置されたのは明治41年。網走・旭川・釧路・札幌の4署で、その下部に1署当り4、5ヶ所の分区署が設けられ、更に森林監守駐在所が設置された。大正6年には遠軽、大正8年には野付牛にそれぞれ分署が設置された。
 留辺蘂においては、大正3年に森林監守駐在所が設置されたのが始まりである。その後大正8年に野付牛営林分区署が設置され、留辺蘂はその管轄区域に属し、大正9年温根湯事業区16号沢で官行斫伐事業が開始された。
 昭和3年に野付牛営林分区署は網走営林区署から分離され、野付牛営林区署となり、更に昭和17年野付牛営林区署から分離して、留辺蘂営林区署となり、留辺蘂町及び佐呂間町所在の国有林を管轄することになった。
 昭和22年の林政統一により、内務省所管の北海道国有林は農林省へ移管となり、北見営林局が新設され、その所管の下で留辺蘂営林署と改称された。また佐呂間営林署の新設に伴い、当署は留辺蘂町所在の国有林について管轄することになった。
 昭和27年留辺蘂町のうち佐呂間別川流域の一部が佐呂間営林署に移管され、留辺蘂営林署は温根湯経営区を管轄することになり、昭和39年管轄区域を留辺蘂事業区と改称した。
 1998(平成10)年の改革関連2法によって政府林野庁は、道内の営林署を13流域に再編。管理署・支署とならない営林署は暫定的な「事務所」となり、2003年末までに次々と廃止していく方針をたてました。2001(平成13)年、遂に留辺蘂営林署は59年間の歴史に幕を閉じることになり網走中部森林管理署(旧置戸営林署)に統合される。留辺蘂は、昔でいう担当区4箇所が残るだけで現場部門も民間委託で全面廃止となった。
戦争の爪跡
 昭和12年支那事変が勃発、各地で出征兵士を見送る風景が次々と見うけられるようになった。翌13年国家総動員法が公布され、翌14年ノモハン事件が起き、日常住民の生活態度にも緊迫感がみなぎっていた。農村からは二、三男が召集されて暫時姿を消していった。昭和15年まで戦病死した本町出身者は30余柱におよんだ。
 昭和16年に太平洋戦争が勃発、国内が戦時体制下に入ると、この年から農業統制は食料生産第一となった。このため、従来現金収入の有力な農産物であった薄荷が減反され、食料作物に次いで軍需農産物が台頭してきた。馬鈴薯はアルコールを抽出して航空機燃料、亜麻は一般繊維のほかパラシュートや天幕用の原料、えん麦は主食代用と軍馬用資料として、それぞれ増産が著しくなった。
 昭和16年には国民学校令が布かれ教育方針も一貫した戦時教育に徹した。昭和18年の南太平洋の激戦、アッッ、ガダルカナルの戦闘では日本軍は全滅、次々と学徒が動員され重要産業に挺身した。
 当時、水銀は軍需物資として爆弾の起爆剤や軍艦の鑑底塗料として使用されていたが、この水銀鉱採掘の先端現場に狩り出されたのが「人間狩り」と称して強制連行されてきた中国人や朝鮮人である。イトムカ水銀鉱山における中国人のその数は1、090人、また野村鉱業が直接扱った置戸鉱業所では991人で、粗食と重労働で犠牲にされた命は155人とされている。この時代は「大和民族は優秀、朝鮮・中国民族は劣等」とする民族差別感が背景にあり、なかでも朝鮮人に対する非人間的な差別は、この世の地獄を作りだした。留辺蘂町の歴史を語る上で、中央道路(囚人)と常紋(タコ)イトムカ(中国人・朝鮮人)の「強制労働」の町の事実を避けて通るわけにはいかない。
 こうした鬼畜生化した日本は「敵が本土に上陸する」「最後の一兵まで戦う」「われわれは男女を問わず竹槍部隊を作って敵に当る」防空ごう掘り、バケツ送りの防空訓練、主婦は防空頭巾に「モンペ」で銃後の戦列に加わった。しかし、昭和20年3月には硫黄島の戦いで日本軍は玉砕。8月6日広島市に、つづいて9日長崎市に原爆が投下され昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を無条件に受諾し、翌15日天皇による終戦の詔勅が発せられた。
 昭和21年1月3日新憲法が公布され、翌22年5月3日にこの民主憲法は発効した。しかし、戦後の深刻な衣料食料の不足からくる日常生活の歯車の狂いは容易に旧に復そうとしなかった。昭和21年末の戦後海外引揚者状況は下記の通りです。
  • 海外引揚者 223戸 640人
  • 内訳 満州83戸・支那24戸・朝鮮17戸・樺太83戸・千島3戸・台湾5戸・南方3戸・外5戸
  • 戦災引揚者 87戸 300人
  • 合計 320戸 940人
シベリアの悪夢
 8月15日の日本の無条件降伏も知らず、ソ連軍は満州各地で日本軍の武装解除を行ない、婦女子を含む70万人に及ぶ日本人を「シベリア」全土に強制収容した。
 捕虜にされて初めての訓示の第一は、日本は無条件降伏をした。日本本土は米兵が上陸し支配している。第二は、ソ連は「働かざらるもの食うべからず」の国だ。第三は、ソ連は共産主義の国で、共産主義の理解を勉強した者から帰国させるという訓示がありました。その日から早速重労働の密林の原野を伐採開墾し、道路作りに配置された。伐採した木はトラックで河に運んだ。小さい丸太は一人で、大きい丸太は四人、八人で組んで担ぐ。もし一人でも足をすべらせれば全部がバランスが崩れる。昼間でも零下20度から30度、夜になれば50度、60度と寒い日が続きました。食事もパンだけだが、その大きさはタバコの箱よりも小さく、お湯を飲んで空腹をまぎらした。そんな中で警備兵は威嚇の銃声と「ダバイ、ダバイ」「ビストリ、ラボター」と叫びながらムチを振り回した。
 飢えと重労働で痩せ細った戦友達はバタバタと倒れて行きました。死亡した日本人はソ連兵が来て全裸にして外に運びました。死体は見る間にカチカチに凍ってしまいます。その死体を7,8`位離れた山に捨てに行くのです。死体はすぐシベリア狼の餌食になるのです。私達は裸にされ山に捨てられる戦友達を涙で見送りながら明日は我が身だと考えました。21年3月頃までの7ヶ月で80名余りの戦友が異国の土となりました。そらから4ヵ年の抑留生活から開放されて生きて祖国の土を踏めた事が軌跡だと思っています。毎年シベリアから何千羽という鶴がやってきますが亡くなった戦友達の顔とダブります。これから日本を背負って立つ戦争を知らない若い人達に戦争の悲惨さと、戦争が国を滅ぼし、人間社会すべてを狂わせるものである事を訴えると共に、戦争は絶対に起こしてはならないことを強調し、平和で住み良い国家であり、永遠に明るい社会作りに努力されんことを願い、戦争を身をもって体験した事実を記するものであります。
留辺蘂・大火の歴史
★大和大火
 大正3年5月19日、山市なる者が30号付近の造材事業所の某を訪ね、ワラジ銭の無心をしたがすげなく断られた。これに腹を立てて、付近の草原に火を放った。火は見る見るうちに燃え広がり、更に南西の強風にあおられて武華一帯は火の海と化した。当時の原野一帯はところどころしか開けておらず、その上倒木や切り株もあったから逃げ場もないほどで人々は火の中を右往左往と逃げ回った。火は原野25号付近で止まったが、南北両高台は遠くオンネユまで延焼し、幾日も燃え続き降雨によって鎮火した。27号付近で天内一家4名、隣家の須沢宅で1名焼死、外に1名重傷(これは翌日死亡)した。外に負傷者多数を出した。この大火により一帯の開拓は急速に進んだ。
★留辺蘂市街大火
 大正5年12月8日、下部落(現東町)の青木賦力店(現在の竹村歯科医附近)から発火し、火勢は北西の強風にあおられて当時の繁華街114戸をなめつくし無残な焼野原とした。留辺蘂町の発展過程を見ると元部落(現在の元町)地帯から発展しており、大正5年当時は現在の元町、東町が市街の中心街だった。焼失区域は現在の中央橋から留辺蘂橋までの大通り両側の大半を焼いた。被災者の大半を現在の宮下町にあった留辺蘂小学校や、寺院に収容した。
★仲町大火
 昭和19年5月6日、仲町今泉馬具店裏の物置附近から発火し、25戸を全焼、この火災で伊藤商店の石造倉庫の中に閉じ込められた店主の伊藤清治、店員の樋口吾平、小川殊諦(西照寺住職)松村勇(営林職員)の4名は翌7日に救出された。
★仲町大火
 昭和26年5月16日、菓子製造業抜山勅男方から発火し、58戸を焼失した。発火当時はほとんんど無風状態に等しかったが、市街商店の密集した繁華街に加えて、好天続きで異常な乾燥状態にあったことと、帯状の1本道路であったことにより、消防ポンプの水源利用が半減されたことなどで、災害は想像以上に拡大されたものである。
★丸山大火
 昭和22年5月、大和四区南側国有林において出火、以東国井定彦の山林に至る数十町歩を焼失した。越えて27年5月、厚和一区方面より出火、折からの強風にあおられて厚和一区、滝の湯二区の農家十数戸を焼失、一時は煙を混えた強風に目も口も開けられず歩行も困難な程であった。全町挙げての消火に、2,3日後丸山中腹までで延焼は止まり小康状態だったが数日後再び強風にあおられて猛火となり一挙に丸山山頂へ燃え上がった。その凄まじさは言語に絶するものがあり、丸山裏側の台地から大和四区南高台民有林に至り数百町歩に及ぶ大火だった。(大和小学校65年の歩みから)
★温根湯大火
 昭和28年7月13日午後2時50分ごろ温根湯市街大通森田綿打工場から発火、西北3bの風にあおられて道路向かいに延焼、水利の便悪く温根湯農協本部、同倉庫、同鉄工場、同車庫、留辺蘂営林署、温根湯担当区事務所、留辺蘂町警巡査駐在所、留辺蘂消防団温根湯第一部車庫、同望楼、食糧事務所出張所など民家、商店街1町歩を焼き全焼51戸、半焼1戸計52戸、罹災者283名を出して同4時30分鎮火した。次の日の新聞記事に寺尾幸子宅(温根湯小学校教員)の便所だけが残った焼け跡の写真が一層悲壮感とあわれをとどめていた。
 この火災が瞬時にして大火となったのは家屋が二,三日の好天で乾燥していたため飛火し四,五ヶ所から発火、一度に火の手があがったこと、消防車が留辺蘂、北見、佐呂間、相ノ内、置戸、若佐、イトムカから計11車が出動したが、水利の便が悪く四,五町離れたかんがい溝と武華川からホースで注水したため消火作業が遅れたものである。原因については留辺蘂町警で調べているが、発火場所綿打業森田さん方の工場機械の加熱でベルトに引火、大事となったものらしい。
 業火で52戸を焼いた温根湯市街の罹災者53世帯270名は悪夢の一夜を明かし14日朝、くすぶる焼跡に唖然とたたずむ者、灰じんの中から鍋、釜などを掘り出すものなど、あわれをとどめていたが正午ごろには大半が縁故者を頼って立ち退き、七、八家族のみが報恩時、大泉寺に収容されたようでようやく落ち着きを見せてきた。
 また、災害救助法が13日適用されたので14日には全罹災者に主食3日分を配給した。一方、町議会では1戸千円の見舞金を贈るほか恒久対策として北見営林局に復興材の払い下げを陳情すること、住宅公庫から20戸の建築ワクを獲得、国民金融公庫から生業資金五百万円の融資をそれぞれ陳情することを協議した。
馬喰一代・中山正男
 馬の仲介人をバクロウ(馬喰)と言い、飼い主から頼まれて他の農家に馬を売ったり、別の馬と交換する仲介人を馬喰と言う。バクルとは北海道の方言で、交換する、取りかえることを意味するのだが、このバクロウ(馬喰)から出た言葉だ。
 昭和27年、地元出身の作家中山正男の原作による「馬喰一代」の映画(三船敏郎、京マチ子主演)に引き続き「続馬喰一代」のロケ隊が6月30日から3週間の日程で留辺蘂でロケを敢行した。ロケは主に、昭和27年5月14日、15号台風により発火し538fも焼いた丸山(三角山)の山火事跡地中心に行なわれた。この撮影のため、町、営林署、観光協会等による「ロケ協力会」が組織され、人夫60名、馬延べ千頭、木材伐採300石に及んだ。また、営林署の協力による山にガソリンを撒いて模擬の山火事を再現し、そのスケールの大きさは、留辺蘂町の名を全国に広めるには十分の効果があった。
 これに気をよくしたのか昭和29年、「無法者」のロケが留辺蘂国有林を背景に菅原謙二、若尾文子主演で繰り広げられた。
 1999年、留辺蘂町内の酒販売店5店でつくる「留辺蘂地酒倶楽部」(高野智子代表)は、映画「馬喰一代」の原作者中山正男の郷里留辺蘂を舞台に大森林の様相と、そこで働く馬追いの父子の絆が描かれた名作を永く称えようとの銘酒に託し銘柄「馬喰一代(ばくろういちだい)」の販売を始めた。 
私のまち・留辺蘂の思い出
 【作家・中山正男さん(52)】
 サロマ湖畔で生まれ、留辺蘂にいたのは大正九年、九つのときから4年間だったが、いま真っ先に浮かんでくるのは雪道をシャン,シャンと鈴を鳴らして通っていく木材運搬の馬そりだなぁ。留辺蘂附近は当時木材の産地で集荷場でもあったので、冬は切り出したばかりの材木を満載した馬そりが毎日サロマ峠を越えて町の駅にやってくる。それが何十台も延々と続いているんだ。冷たい空気をふるわせて響く鈴、馬をしったする親方−情緒と活気が入り乱れて、北国の冬にふさわしい情景だったね。とにかくこの季節になると町の人口がグッとふえ、駅前にはものすごく高い木材の山があっちこっちにできた。私の「馬喰一代」にも出てくる町−馬−木材は切り離せないものだったんだ。(昭和38年当時は、中山さん少年時代の木材運搬の馬そりはなく6d積みの大型トラックが主流で、駅に集まる木材も3分の1に減り、業者が札ビラを切って豪遊した大正から昭和初めにかけての全盛時代に比べるとスケールがひと回り小さい時代だった)
 少年のころはガキ大将で、近くの石北線の鉄橋から7bぐらい下の川に飛び込んで遊んだ。(現在の無華川の水量は、当時とは違いすっかり減り、飛び込もうものなら、まず命にかかわる大けがが間違いない)あまり高いのでうまく飛び込めず腹や額を強く打ってはアザを作ったが、友達の間で二人しかできないのがうれしくて…。
 ずいぶん悪いこともした。自宅近くの無華川に夜出かけ、他人の仕掛けた゛とう”からゴッソリ魚を盗み、おやじにガンガンどなられたことをよく知っている。一度はマチはずれの紅葉山にいき、真下の通称“馬喰部落”に大きな石を落としてやった。もちろん当たった馬小屋はつぶれてしまったが、部落の人が“山津波だ”と騒ぎ出しホウホウのていで逃げてきた。ほんとうに悪童だったんだ。それだけに町の記憶も強烈に残っている。(馬喰部落とは現在の宮下町で、中山さん少年時代は料理屋や馬宿などが軒を連ねていた。昭和38年当時は、それらの面影もなく町の中心は川向移っていた)
昭和38年2月道東通信社ニュース年報から
滝の湯地区の国民福祉センターの夢破れる
 塩別温泉の語源は、明治34年温根湯の国沢喜右エ門が出願に当って湯質検査の際塩分が検出されたので、この塩の字を冠にしたとされている。後にアルカリ泉であることが判ったのだが、この温泉の湯質の良いことに将来この附近が発展するだろうと考えた国沢は大正元年、望月銀作を管理人にして温泉の管理と土地の開墾、造材を任せた。従って、この温泉を望月温泉とも呼んだ。大正9年望月が去ってから岩瀬禎助が1万円で買って定住したが後に野村鉱業に売却する。その後は荒れるにまかせ、僅か木の浴槽が残っていただけであった。この頃のkenは高校生で、混浴という不純な目的で、自宅から友人と歩いて良く利用したものである。
 昭和35年、野村鉱業は宿泊施設を持った保養所を建設した。更にボーリングによって大量の湯が噴出したことによって地元の町会議員の末久順一と岩瀬豊は、この温泉を広く町民の湯として開発しようと町を動かし、昭和42年塩別温泉の湯の1部を譲り受けて加熱し、町民温泉を建設した。昭和49年のボーリングによって出口で43度、毎分30gの湯の自噴に成功し、町営温泉滝の湯荘は増改築により名実共に町民の保養センターとなった。この湯は「老人ホーム・静和荘」「静林荘」に割譲し、在来の塩別温泉と共に温泉街を形成していった。この当時の住民達は、滝の湯温泉の開発は将来の国民福祉センターを想定し公営住宅、ガソリンスタンド、食堂と次々と建設、病院誘致も夢に将来は一大市街地を描いていた。
 現在、温泉もないところに移転しようとしている老人ホームや「全町福祉村計画」を見て、あの世から眺めている末久、岩瀬両人の心中はどんなものであろうか。
温根湯分町問題
 昭和26年、温根湯有志の集いである「喜交会」の町政検討に端を発し温根湯分町問題が起こった。温根湯照恵寺において町民大会が開かれ、分町期成会が結成され、会長に関量一氏を擁し運動が展開された。分町問題が議員提案として議会に提出されるも否決されるに及んで温根湯地区議員の総辞職するところとなり、町政に不参加をもって留辺蘂地区に対抗した。しかし、時代の推移は分町どころではなく、町村合併が着々と実を挙げている中では時代に逆行するものとして自然解消的に鎮まった。
★昭和28年12月・道東通信社ニュース年報から
 いよいよ温根湯の留辺蘂分町問題も山場が来たようで明春が「天王山」である。温根湯住民の30年来の闘いが功を奏するかどうかは8号線以西の温根湯地区住民八千二百名の動きにかかっている。今春3月、同地区9町議の辞職から本格的な分町問題に入った。ところが、留辺蘂のドル箱「湯の町・温根湯」がなくなっては大変だと佐野町長が手を変え品を変え説得に翻弄したが温根湯地区側も強硬である。
 温根湯地区の分町問題は古くは大正8年、昭和3年とこれで3度目の分町問題で、一時は佐野町長も温根湯地区住民(滝ノ湯)として分町に闘ったとことがある。今では母町側の長とあっては、昨日の友は今日の敵?である。一時は高校が母町側に立つことを温根湯地区が納得すれば分町は許す?というような線が出た。高校は留辺蘂市街に誕生したが分町は不問に附せられたため分町側を大いに刺激、運動が大々的に始められる原因となった。
 温根湯地区は戸数数二千戸、人口八千二百名でいま全国で問題となっている町村合併促進法に何ら関係ないほか、分町すれば北見地方で13番目の温根湯"町"となる。面積は三万九千町という大森林資源、五百七十戸の農家、東洋一の水銀鉱イトムカ、そして北見地方最高の温泉と財源は豊富だから町税は現在の半分という好条件だ。「今まで町税が高いのは温根湯で取り上げた金を留辺蘂市街ばかりで消火するからだ」と温根湯住民と佐野町政を非難。母町側は「町の玄関をきれいにするのは当然だ」と反論している。
 今夏7月13日には温根湯市街で52戸を焼き、「これで分町はもうダメだ」という風評が飛んだが事実は反対で、これを証拠ずけるように前よりも立派な温根湯がすでに完成している。師走の六日、温根湯地区住民総決起大会を開き道知事、網走支庁長らに決議文を電請し、ムシロ旗を立てた住民三百名が留辺蘂地区に乗込み町役場、町議会議長、佐野町長宅にデモして威勢のいいところをみせた。いよいよ大詰めにきた感がある。反逆の落とし子"温根湯"はいつ誕生するだろうか。
国道39号線切り替え27年度末に開通
 国道39号線留辺蘂町内の2号線から北見市との境界までの切り替え路線用地の買収は34年から網走開発建設部と地主の間でもめていたが、ようやく落着、工事費一億五千万円で36年度から着工、37年末までに開通の見込みである。
 現在の新路線は市街地の中心を通っているが新路線は街を大きくはずれた鉄道南側を通ることになり、道路幅も9bから20bに広がる。この区間の路線延長は4・6kmで無加川に長さ80bの永久橋がかかり、北見温泉三光荘のそばで鉄道と立体交差となり、長さ15bの弧線橋がかかる。今この区間には踏切が3ヶ所あるが新路線は1ヶ所もなくなり、交通の安全に大いに役立つことになる。(昭和36年2月・道東通信社ニュース年報から)
大和部落、集団加入電話つく
 「もしもし、きこえますか、便利になってよかったですね」11日留辺蘂町大和部落に68戸加入の集団加入電話が開通、部落あげての祝賀会が行われた。
 北見電気通信部管内では昨年秋開通した津別町活汲につぎ2番目。午前11時半から大和公民館で開かれた開通祝賀会には町内の名士や北見市からの来賓、集団加入電話組合員など120人が出席、まず本田組合長が「農村地帯がこんなに早く電話の恩恵に浴することができるとは思わなかった。この電話を生活や営農の改善に役立ててゆきたい」とあいさつ、藤倉町長が伊谷北見市長と喜びの記念通話を交わし、このあと小林北見電気通信部長、藤倉町長、斎藤道議、阿部町議会議長らがこもごも祝辞を述べた。
 この集団加入電話は部落の有志の間で昨年秋に企画をたて、その後津別町の活汲を視察し電気通信部と話し合いを進め、今年7月から着工、11月待望の開通にこぎつけた。集団加入電話は会社などのPBXを部落に設けたようなもので、大和郵便局の森局長代理宅に交換台を設け、農家を主に大和小中学校、公民館、各商店など68軒が加入、ことし中にさらに25戸ていどが加入することになっているので道内でも最も加入者をもつ集団加入電話組合になる見込み。
 交換手一人を雇い、夏季(5〜10月)は午前6時から午後9時まで冬季(11〜4月)は午前7時から午後8時まで交換の取り扱いをやる。1戸あたりの負担は電電公社支払い設備費が約1万円。今後の維持費が月々公社支払い分をふくめて業態によって月550円から700円、これまで同部落に自動便201ヶ所しか電話がなかったので、この日の電話開通は部落民にとってはお祭り以上の興奮でとくに受送話器を手にする年寄りなどは「生きているうちに家に電話がつくとは思っていなかったのに、まったく夢のようだ」と喜んでいた。(昭和36年9月・道東通信社ニュース年報から)