今回は下京の文化を尋ねて歩きました。
東本願寺 真宗大谷派の本山である。現在の建物は明治28年に再建されたものである。御影堂が桁行11間、梁間8間、向拝3間、重層入母屋造り本瓦葺の建築面積約3900uの世界最大ともいえる木像建築である。阿弥陀堂は桁行5間、梁間6間、向拝3間炭層入母屋造り本瓦葺である。御影堂門、阿弥陀堂門はいずれも明治44年に完成している。大きい、圧倒される建物である。たくさんいる鳩は人になれていて、平気で頭や肩に乗ってくる。豆をもらえると思っているのであろう。
渉成園(枳殻邸) 真宗大谷派の本山の飛地境内地で、周囲に枳殻が植えてあったことから枳穀邸ともよばれています。
この地は、もともと平安時代初期(9世紀末)嵯峨天皇の皇子左大臣源融が、奥州塩釜の影を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟と伝えられています。その後、1641(寛永18)年、徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在の地が寄進され1653(承応2)年、第13代・宣如上人の願いによって石川丈山が作庭したものです。池泉回遊式庭園で寺院庭園と趣を異にし、大名庭園の雰囲気を持っている。園内東南部に位置する広大な池を院月池といい、東山を借景とする池泉舟遊式庭園で池中に2つ大きな島と小さな島を作っています。池畔や樹木の繁みに建物が点在し市中とは思えぬ風景を作っています。
今、池にはいろんな鳥が住んでいます。桜の木もたくさんあり、春はさぞきれいなことでしょう。ほんとに街中とは思えない静かな所です。駅からも近いのでぜひ一度たずねられたらいいと思います。
文子天満宮 祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮25社のひとつに数えられている。
社伝によれば、大宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903)59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条ニ坊の自宅に小祠を建て道真を祀ったといわれている。これが、当社の起こりで、北野天満宮の前身ともいわれている。以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正7(1918)年に再建されたものである
俊成社 藤原俊成を祀る小さな祠がたっている。
烏丸通に面して立っているのであるが、ビルの合間にある小さな小さな祠で、教えてもらわなければ気がつかない。こんな所に、とびっくりしてしまう。京都はところどころに、このようなものがある。
平等寺 福聚山と号する真言宗智山派の寺である。俗に因幡薬師の名で呼ばれている。因幡堂縁起によれば、長保5年(1003)因幡守橘行平が任国より得た薬師如来を私邸に安置し、後光朝が寺に改めたという。創建以来朝野の信仰を集め、歴代天皇の厄除けの祈祷のため勅使が代参した。室町時代には七仏薬師の一つに数えられた。現在の建物は明治19年(1886)の再建である。
本尊の薬師如来立像は藤原時代の造像で高さ153cm、一木彫で、嵯峨清涼寺の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来といわれた。重要文化財に指定されている。
特別に、収蔵庫に納められている薬師如来、釈迦如来立像、鎌倉期の如意輪観音像を拝ませていただきました。京都は火災が多かったため、古い仏像が余り残っていないとのこと、特に大きな物は残ってないそうです。薬師如来をお守りするための工夫を聞かせていただきました。
仏光寺 渋谷山と号する真宗仏光寺派の大本山である。
現在の建物は天明の大火や元治の兵火で焼失して以後の再建である。真宗伽藍特有の大師堂(御影堂)と本堂(阿弥陀堂)が併置されている。本堂に安置されている聖徳太子像は元応2年(1320)願主了源が尾張法印湛幸に作らせたもので像高94,5cm、木造の彩色像で重要文化財に指定されている。
本堂のお内陣にまで案内していただき、直接聖徳太子像も拝見できた。その他七高僧方も木像で立派なものであった。
管大臣神社 祭神 菅原道真公、尼神、大己貴命
菅原道真公の紅・白梅殿という邸宅や、管家廊下と称する学問所の跡で、また公誕生の地と伝えられ、境内には産湯の井戸が保存されている。仏光寺通を中心に南北二町、東西一町が当時の邸宅で、公大宰府へ左遷に当り「東風吹かばにほいおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた飛梅の地である。
