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塾統〜慶應義塾の伝統C
井筒俊彦
イスラム学の礎を築く
多数の著作と世界的名声
九・一一テロ以後、日本でもにわかにイスラム教に対する関心が高まってきたが、日本におけるイスラム学の礎を築いた人物として、まず井筒俊彦の名を挙げなければならないであろう。慶應義塾にイスラム学の確固とした伝統があるのも、井筒の学統に負うところ大である。しかし、井筒のおびただしい著作とその世界的名声に比べて、その足跡と思想的拡がりは意外に理解されていないとも思われるのである。
井筒は「東洋的無」とでも言うべき雰囲気の極めて濃厚な家に生まれ育ったという。そして、晩秋深夜の茶室にただ独り湛坐して黙々と止息内観の法を修しているような父から、独特の内観法を教わっている。当時、父子の共通の話題をなしていたのは、『碧厳録』『無門関』『臨済録』といった禅語録であり、そこで思惟の根源にある純粋無雑な実践道「観照的生」を学んだ井筒は、後に西欧神秘主義に出会い、特にギリシア哲学でも哲学的思惟の根源として「観照的生」たる脱自体験があることを知って、驚き、感激したという。彼は「私のギリシアを発見した」とまで言っている。後に世界的イスラム学者として知られることになる井筒であるが、その原点には「哲学的思惟の源泉としての観照的体験の発見」があり、こうした「哲学的思惟と神秘主義との関係」が根本的テーマとなって、ギリシア哲学からヨーロッパ中世哲学、イスラム神秘主義スーフィズム、カバラーからハシディズムに至るユダヤ神秘主義、中国老荘思想、易学、シャーマニズム、インドのヴェーダーンタ哲学、仏教の唯識思想・華厳哲学・禅思想へと広がっていき、その学際的研究が井筒イスラム学を限りなく豊饒なものにしていったのである。
さて、井筒は遠藤周作との対談で「自分は青山学院時代、牧師が目をつむって祈ると気持が悪くなって吐いたことがあるが、それが起因となって一神教や人格神に興味を持ち、神田の夜学でヘブライ語を学んだことや更に新約よりも旧約聖書に関心が動き、それからユダヤ教、更にユダヤ教と姉妹関係にあるイスラームに知的好奇心を抱くに至ったのだ」と語っている(ちなみにカトリック作家として知られる遠藤は、井筒を「日本最後の思想家」として評価しており、三田の塾生時代、ロシア文学を担当していた井筒の講義を一度も聴講しなかったことを後悔している)。司馬遼太郎との対談でも、この学生時代にアラビア語を習得するためにイブラーヒームという在日トルコ人の家に通ったことを語っているが、聖書学者として名高い関根正雄の証言によれば、小辻節三の聖書原典研究所が始まってから二、三年経った一九三七年頃、井筒がヘブライ語の勉強のために加わったという(関根は第一回生)。当時、井筒は慶應義塾大学文学部を卒業して(卒論のテーマはチョーサーの詩の文体論的研究)助手となり、言語学を中心に文体論・意味論をゲシュタルト心理学などを用いて手がけていたという。当時、井筒は「自分の専門の言語はギリシア語とロシア語だ」と言っていたようで、関根ともギリシア語の勉強会をしているが、ヘブライ語の勉強も相当進み、関根は「一時はヘブライ語専攻に変われるか、とも思ったものである」と回想している。井筒と関根は二人ともヘブライ語を学んでいるので、同系統の一番大事な言語としてアラビア語をやろうということになり、ドイツからハルダーの『アラビア語文法』を取り寄せて一緒に学んでいたが、それを終えて一カ月くらいすると井筒はもう『コーラン』を全部読んでしまって、関根をあぜんとさせたという(併せて『旧約聖書』のヘブライ語原典を通読していたというから、関根でなくても驚きである)。
やがて、政治的に大東亜共栄圏構想が叫ばれ、イスラム教国と日本との関係が生じて、東亜研究所が設立された。日本におけるイスラム学の先駆者の一人である大川周明(一九四二年に『回教概論』を著わしているが、イスラム教の成立史と教義を分かりやすく説明した書籍はそれまでの日本には無かったという)が莫大な出費をして、東亜経済調査局図書室のイスラム関連文書を収集し、これを自由に渉猟することによって井筒は自らのイスラム研究の基礎を築いたという。ちなみに日本におけるイスラム研究史について見てみると、研究が組織化されたのは一九三〇年代半ばで、一九三七年頃(井筒の慶應義塾大学文学部卒業の年)までに諸々の研究所・研究グループが一斉に成立しているが、その全ては一九四五年の敗戦と共に消滅し、少数の例外的な学者を除いて、イスラム研究の専門家がイスラーム研究を放棄してしまうという事態が起こった。戦時中にアラビア語での海外放送などもしていた井筒はその少数派であり、その独創的な学問的業績は日本よりもむしろ世界で評価されていて、日本のイスラム学を一気に世界的水準に高めた功績は誰もが認めるところである。
さて、井筒は一九四〇年代終わりから一九七〇年代終わりにかけての三十年以上、慶應義塾大学文学部及び言語文化研究所教授として言語哲学・イスラム学・比較思想論などを講じ、多くの後進を育てた(一九四九年発刊の『神秘哲学』では第一回福澤賞義塾賞を受賞)。やがて、一九六〇年代初めの二年間にロックフェラー財団の招きによって中東・ヨーロッパ・アメリカなどを歴訪したことを契機に、各国の学会から高い評価を受け、まず一九六一年から一九七〇年代にかけてカナダ・マックギル大学イスラーム研究所の客員教授から正教授となり、次いで同研究所のテヘラン支所を経て、イラン革命勃発までの数年間、イラン王立研究所教授として精力的な研究活動を続けている。この他にパリ国際哲学研究院正会員であると共に、スイス・エラノス学会の主要メンバーとなっている。
おそらく「イスラム神秘主義の大家」としての井筒に対する評価を最も端的に物語ってくれるのは、エラノス学会の存在であろう。これは一九三三年に深層心理学者ユングと宗教学者ルドルフ・オットーから始まった、学際的な知的フィールドであり、近年ではこれに類するものとして複雑系研究を生んだサンタフェ研究所を挙げることができようが、そこに集ったそうそうたる顔ぶれはいずれもその分野の第一人者ばかりである。例えば、アンドレアス・シュパイザー(数学)、アンリ・コルバン(イスラム神秘主義)、ゲルシュム・ショーレム(ユダヤ神秘主義)、ルイ・マシニョン(オリエント学)、フーゴー・ラーナー(教会史)、ハインリヒ・ツィンマー(インド学)、ミルチャ・エリアーデ(宗教学)、エーリヒ・ノイマン(精神医学・神話学)、エルンスト・ベンツ(東方教会史・神秘主義)、カール・ケレーニィ(神話学・古典学)、ジル・クィスペル(グノーシス学)、アドルフ・ポルトマン(生物学)、パウル・ティリッヒ(組織神学)、ファン・デル・レーウ(宗教現象学)、マルティン・ブーバー(宗教哲学)、カール・レーヴィト(哲学)らがそれである。日本からの参加者はまず鈴木大拙(西田幾多郎の友人で禅の大家、禅を世界化したことで知られる)から始まり、それを継いだのが井筒で、井筒が十五年間にわたって毎年のようにレクチャーを続けた後は、上田閑照(ドイツ神秘主義の大家、マイスター・エックハルト研究の第一人者)・河合隼雄(ユング心理学の大家)の二人が交代で日本の立場を代表したという。エラノス会議自体は一九八八年に終わりを告げるのであるが、その知的インパクトは実に巨大で多くの知識人達の心をひきつけて止まなかった。そして、井筒はその中で主要な一角を占め続けたのである。
参考文献:『日本人にとってイスラームとは何か』(鈴木規夫、ちくま新書)、『マホメット』(井筒俊彦、講談社学術文庫)、『回教概論』(大川周明、中項文庫)、『井筒俊彦著作集1 神秘哲学』(井筒俊彦、中央公論社)、『遠藤周作文学全集第十三巻 評論・エッセイU』(遠藤周作、新潮社)、『エラノス叢書別巻 エラノスへの招待』(井筒俊彦他、平凡社)、『意識と本質 精神的東洋を求めて』(井筒俊彦、岩波文庫)、『ユングとキリスト教』(湯浅泰雄、講談社学術文庫)
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