中世文学 (681)

○中世文学
 ・和歌…『新古今和歌集』、西行の『山家集』、源実朝の『金槐和歌集』

 ・軍記物語…『平家物語』−琵琶法師の平曲
       『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』など

 ・説話集…『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』『沙石集』

 ・随筆…鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』

 ・歴史書…慈円の『愚管抄』−道理と末法思想から歴史を見た
      『水鏡』『吾妻鏡』、虎関師錬の『元亨釈書』

 ・学問…有職故実−順徳天皇の『禁秘抄』
     古典研究−仙覚の『万葉集註釈』、卜部兼方の『釈日本紀』
     金沢文庫(北条実時)
     宋学伝来…大義名分論が討幕運動の理論的なよりどころになる

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注1> 後鳥羽上皇は、承久の乱後に隠岐に流された時、『新古今和歌集』を持参して自ら校訂を加えた。同歌集の隠岐本として伝来している。
注2> 出世の可能性が無くなると出家するのが習慣だった。西行は23歳で出家したが、京都近辺に暮らし、身分の関係ない歌人として交流を持つことがその理由だったといわれる。
注3> 『詞花{しか}和歌集』に「読み人知らず」で1首、『新古今和歌集』に94首取り上げられる。『千載{せんざい}和歌集』や自身の歌集などに2100首余が残されている。
注4> 金は鎌倉の「鎌」の偏、槐は右大臣(右大臣の唐名を槐門{かいもん})のことで、実朝を意味している。

 和歌の分野では、後鳥羽{ごとば}上皇が藤原定家{ふじわらのていか/さだいえ}らに命じて8番目の勅撰{ちょくせん}和歌集『新古今和歌集{しんこきんわかしゅう}』(史料1)を編集した<注1>。西行{さいぎょう}、式子{しょくし}内親王、寂蓮法師{じゃくれんほうし}らの歌約1980首が収められている。洗練された表現による気分の象徴や体言止{たいげんど}め、三句切れ、情緒{じょうしょ}・技巧に富む本歌{ほんか}を取って作る本歌取りなどの特徴は新古今調{しんこきんちょう}と呼ばれる。

 西行は、出家<注2>する前は佐藤義清{のりきよ}(憲清)といい、北面の武士だったが、歌人としても非凡な才能を持ち、多くの歌を残し<注3>、歌集『山家{さんか}集』を作った。その歌は、自然を愛した彼の心の中を素直に歌ったものがほとんどで、彼の作った歌は作られたものでなく、生まれたものであるといわれる。また、源実朝は、『金槐{きんかい}和歌集』<注4>(史料2)を作り、700首を収めた。藤原定家の指導を受けて、力強く格調高い万葉調の歌を含むとともに、貴族文化へのあこがれも見せている。



●新古今和歌集

 見渡せば 山もと霞む みなせ川 夕べは秋と 何思ひけん  太上{だじょう}天皇(後鳥羽上皇)

 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫{しぎ}立つ澤{さわ}の 秋の夕暮   西行法師

 み渡せば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋{とまや}の 秋の夕ぐれ   藤原定家朝臣


●金槐和歌集

 大海の 磯もとゞろに よする波 われてくだけて 裂けて散るかも

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注5> 簡単な文体と和漢混淆文{わかんこんこうぶん:漢文訓読文体と和文体が入り交じった文語体}で書かれている。
注6> 徒然草第226段にその説話が残されている。
注7> 『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る音曲(琴・三味線に合わせて歌う音楽)のこと。
注8> 日野山の方丈庵で書いたので、この名がある。
注9> 俗名は卜部兼好{うらべかねよし}という。吉田兼好と呼ばれるのは、兼好の生家の卜部家が京都吉田神社の神官をしており、その子孫が吉田姓を名乗ったために後世の人がつけたものである。
注10> 慈円の父は藤原忠通{ただみち}、兄は藤原兼実{かねざね}で、後鳥羽上皇に仕え天台座主{ざす}の地位にあった。タイトルの愚管とは、「愚かな管(筆)のすさびに」という意味である。

 文学も、貴族中心の物語文学から、戦乱が主題の軍記物語<注5>に変わりつつあった。『平家物語』は、信濃前司{しなののぜんじ}藤原行長{ゆきなが}と生仏{しょうぶつ}が協力して作ったとされる平氏の興亡を主題としたものである<注6>。そして、琵琶法師{びわほうし}によって平曲{へいきょく}<注7>として語り継がれ、文字の読めない人にも広く親しまれた。それ以外にも、『保元{ほうげん}物語』、『平治{へいじ}物語』、『源平盛衰記{げんぺいじょうすいき}』などもある。

 平安末期に生まれた説話{せつわ}集も、様々な仏教説話や世俗{せぞく}説話が作られた。『宇治拾遺{うじしゅうい}物語』は仏教や世事に関わる奇談が多く収録され、『十訓抄{じっきんしょう}』は年少者への教訓としたもので、儒教的色彩が強いものである。橘成季{たちばなのなりすえ}の『古今著聞集{ここんちょもんじゅう}』は、多方面の古今の説話を収録し、それぞれの末尾に教訓を加えた。無住{むじゅう}の『沙石集{しゃせきしゅう}』は、やさしい文体で仏の功徳を説き、世俗の説話を集めたものである。

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 時代の流れを冷静に分析した随筆{ずいひつ}も作られた。鴨長明{かものちょうめい}は『方丈記{ほうじょうき}』<注8>を著わし、1180年前後の五大災厄を回想し、人生の無常を嘆きつつ、自身の不遇に思いを馳せている。また、吉田兼好{よしだけんこう}<注9>は『徒然草{つれづれぐさ}』を著わし、動乱期の人間と社会を深い洞察力で簡潔・自由な筆で描いたものである。この2つは、隠者{いんじゃ:俗世間を離れて山野に閑居した人}の文学といわれている。

 歴史書では、慈円{じえん}が『愚管抄{ぐかんしょう}』(史料3)を著わした<注10>。歴史の展開としての道理{どうり}と末法思想とで歴史を見たもので、神武{じんむ}天皇から承久の乱直前までを7期に分けている。後鳥羽上皇の討幕計画を諫{いさ}めることを意図してまとめられたものである。

 さらに、『水鏡{みずかがみ}』は、『大鏡』記述以前の神武天皇から仁明{にんみょう}天皇までを扱っている。『吾妻鏡{あづまかがみ}』は、源頼政{よりまさ}の挙兵から宗尊{むねたか}親王が帰京するまでの諸事件(1180〜1266年)を日記体で記した鎌倉幕府の公的な記録書である。虎関師錬{こかんしれん}の『元亨釈書{げんこうしゃくしょ}』は、漢文体の日本仏教史で、日本の高僧の事績{じせき}を知らないことを指摘されて書いたといわれている。



●愚管抄

 年ニソへ日ニソへテハ、物ノ道理ヲノミ思ツゞケテ、老ノネザメヲモナグサメツゝ、イトゞ年モカタブキマカルマゝニ、世中モヒサシクミテ侍レバ、昔ヨリウツリマカル道理モアハレニオボエテ、…保元以後ノコトハミナ乱世ニテ侍レバ、ワロキ事ニテノミアランズルヲハバカリテ、人モ申ヲカヌニヤト、ヲロカニ覚エテ、ヒトスヂニ世ノウツリカワリオトロへクダルコトワリ、ヒトスヂヲ申サバヤトオモヒテ思ヒツゞクレバ、マコトニイハレテノミ覚ユルヲ、…世ノ道理ノウツリユク事ヲタテムニハ、一切ノ法ハタゞ道理ト云二文字ガモツナリ。其外ハナニモナキ也。

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 学問の分野では、有職故実{ゆうそくこじつ}や古典研究が盛んになった。有職故実は、朝廷や公家社会の儀式・礼儀・年中行事{ねんちゅうぎょうじ}や官職などを研究する学問である。順徳{じゅんとく}天皇の『禁秘抄{きんぴしょう}』は、朝廷の諸行事の次第や政務の進め方など全般にわたる作法が書かれている。古典研究では、仙覚{せんがく}の『万葉集註釈{ちゅうしゃく}』は『万葉集』、卜部兼方{うらべかねかた}は『釈日本紀{しゃくにほんぎ}』は『日本書紀』の注釈書である。

 武士も学問への関心が高くなった。北条実時{さねとき}は、武蔵金沢{かねさわ}称名寺{しょうみょうじ}内に金沢文庫を開き、仏書など2万巻を収めた。また、この頃、宋の朱熹{しゅき}が打ち立てた宋学(朱子学{しゅしがく})が伝えられ、その中の大義名分論{たいぎめいぶんろん}が討幕運動の理論的なよりどころとなった。大義名分論は、君と臣の関係には守るべき分限があるとの考えに基づき、幕府と天皇の在り方を正そうとする考えである。


 

朝廷の分裂と鎌倉幕府の滅亡 (682)

○朝廷の分裂…皇位継承問題(後深草天皇の死後)
  後深草天皇−持明院統、長講堂領を基盤、後の北朝
    ↓
   対 立…両統迭立(文保の和談、交互に即位する)
    ↑
  亀 山天皇−大覚寺統、八条女院領を基盤、後の南朝

  後醍醐天皇(大覚寺統)…院政廃止、記録所再興、有能な人物の登用

○幕府の滅亡
  北条高時の専制、長崎高資の賄賂政治→御家人の信望失墜

  後醍醐天皇の討幕計画
   正長の変(1324)
   元弘の変(1331)…後醍醐天皇、隠岐へ。光厳天皇即位。

  幕府滅亡
   護良親王、楠木正成の挙兵
   後醍醐天皇、隠岐脱出
   足利尊氏が六波羅探題攻撃、新田義貞が鎌倉攻略→幕府滅亡

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注1> 鎌倉幕府6代将軍の宗尊親王も後嵯峨天皇の皇子である。後嵯峨天皇は久仁親王に財産、恒仁親王に皇位を譲ろうとしたが、失敗していた。なお、久仁親王と恒仁親王は同母兄弟である。
注2> 持明院統の名の由来は、伏見上皇以降、持明院殿を上皇の居所としたため。大覚寺統のそれは、後宇多天皇が嵯峨大覚寺に住んでいたため。長講堂領は後白河法皇が長講堂に寄進した荘園群。八条女院領は鳥羽法皇が皇女八条女院に伝えた荘園群。
注3> 吉田定房{よしださだふさ}、万里小路宣房{までのこうじのぶふさ}、北畠親房{きたばたけちかふさ}、日野資朝{ひのすけとも}、日野俊基{としもと}らを登用した。

 13世紀後半、朝廷では皇位継承をめぐる対立が起こっていた。後嵯峨{ごさが}天皇には、久仁{ひさひと}親王、恒仁{つねひと}親王兄弟<注1>がおり、ともに皇位を狙っていた。結局、後嵯峨天皇は、久仁親王(後深草{ごふかくさ}天皇)、恒仁親王(亀山{かめやま}天皇)の順で即位させた。その際、皇太子は亀山天皇の子世仁{よひと}親王としたが、後嵯峨上皇は肝心な候補者を選ばずに1272年に亡くなった。

 この時、幕府は母親に真意を聞き、亀山天皇を治天の君{ちてんのきみ:院政を執り行なう上皇}とし、皇太子が即位(後宇多{ごうだ}天皇)し、亀山上皇が院政を行なった。しかし、後深草上皇側が反発して幕府に働きかけ、後深草上皇の子熙仁{ひろひと}親王(後の伏見{ふしみ}天皇)を後宇多天皇の皇太子とした。この時、幕府は両統から交替で天皇を立てる方針を定めたと考えられる。両統迭立{てつりつ}である。

 後深草天皇の皇統を持明院{じみょういん}統といい、長講堂{ちょうこうどう}領を経済基盤とし、後に北朝{ほくちょう}となった。亀山天皇の皇統を大覚寺{だいかくじ}統といい、八条女院{はちじょうにょいん}領を経済基盤とし、後に南朝{なんちょう}となった<注2>。

 ところが、両統とも皇統が分かれて再び争いとなった。そこで、1317年、幕府の提案で皇位継承の順序を決めることにした。文保{ぶんぽう}の和談{わだん}である。この時、在位10年で交替することなどが定められたが、合意できなかった。ただ、翌年に幕府が花園{はなぞの}天皇(持明院統)に、尊治{たかはる}親王(後醍醐{ごだいご}天皇、大覚寺統)に譲位するよう要請があって、実施されることになった。

 そして、即位した後醍醐天皇は、父の後宇多上皇の院政を廃して親政を始めた。後醍醐天皇は、記録所を再興して、一般政務を担当させ、有力人物を多く登用した<注3>。また、宋学の大義名分論を学び、天皇絶対の考えを持っていたといわれている。

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注4> 後伏見上皇が後醍醐天皇に皇太子(邦良{くによし}親王、後二条天皇の子)への譲位を迫り、幕府の力を借りて量仁{かずひと}親王(後の光厳天皇)を皇太子に据えさせた。これも一因といわれる。
注5> 『太平記』などには、稲村ヶ崎から鎌倉への進軍が阻まれていた新田義貞が剣を海に奉じたところ、潮が引いて通れるようになったと記されている。しかし、鎌倉時代は稲村ヶ崎を通る道は一般的に使われていたという。幕府は海側から弓矢を射掛けて進軍を抑えたが、大潮で義貞軍は海からの攻撃はほとんど受けなかった(鎌倉の海は遠浅で、船は100m以上沖に流されていた)。

 幕府は、1316年に執権となった北条高時{たかとき}が幼少だったため、内管領の長崎高資{ながさきたかすけ}に実権を握られた。得宗専制への矛盾が深まるとともに、高資への専制や賄賂政治に不満を持ち、御家人の信望も失っていた。一方の高時は、「亡気の体{うつけのてい}」(暗愚{あんぐ})と評され、田楽{でんがく}や闘犬{とうけん}、宴会を行なって、幕政を乱していた。

 このような幕府の様子を見た後醍醐天皇は、1324年<注4>に討幕の準備を進めた。しかし、六波羅探題に密告されたため、発覚した。天皇は、使いを出して自分の意志でないことを弁明した。幕府は、計画に加わった日野資朝を佐渡に流した。正中{しょうちゅう}の変である。再び討幕計画を立てたが、1331年4月に密告された。そこで、天皇は兵を集めたが、六波羅探題軍に包囲され、笠置山{かさぎやま}に立てこもったが陥落した。日野資朝と日野俊基は殺され、天皇も隠岐{おき}に流された。元弘{げんこう}の変である。そして、1332年3月、皇太子が即位(光厳{こうごん}天皇)し、後伏見{ごふしみ}上皇が院政を始めた。

 後醍醐天皇が流された後も、護良{もりよし}親王(後醍醐天皇の子)や楠木正成{くすのきまさしげ}らの行動は収まらず、これに呼応する勢力も多くなった。1333年閏2月、後醍醐天皇は伯耆{ほうき}の豪族名和長年{なわながとし}の手引きで隠岐を脱出、船上山{せんじょうさん}に立てこもって、隠岐の守護佐々木清高{きよたか}を撃破した。3月、播磨{はりま}の赤松{あかまつ}氏が挙兵し、六波羅探題軍を破って京に迫ると、幕府は足利高氏{あしかがたかうじ}(コラム)らを派遣したが、今度は高氏が反旗{はんき}を翻{ひるがえ}し、六波羅探題軍を破った。

 5月8日、上野{こうずけ}の新田義貞{にったよしさだ}(コラム)が挙兵して南下し、幕府軍を破って鎌倉に迫った。さらに、関東・東北の武士団も加わって勢いも強くなり、18日に執権北条守時{もりとき}が自害し、幕府軍は劣勢となった。幕府は、鎌倉の天然の要害としての特質を生かし、極楽寺坂{ごくらくじざか}、巨福呂坂{こぶくろざか}などの切通{きりどお}しを固めて防戦したが、21日に義貞軍が潮の引いた稲村ヶ崎{いなむらがさき}から鎌倉に入って<注5>勝敗を決した。翌日、得宗北条高時以下一族は東勝寺{とうしょうじ}で集団自害し、幕府は滅亡した。



新田義貞と足利尊氏

 義貞と尊氏の家系は、清和{せいわ}源氏の流れを組んでいた。源義国{よしくに}の長男義重{よししげ}が新田氏、次男義康{よしやす}が足利氏の祖である。足利氏は源氏本流滅亡後は源氏の嫡流{ちゃくりゅう}として、北条氏と婚姻関係をなし、三河{みかわ}・上総{かずさ}などの守護となって発展した。しかし、新田氏は頼朝の挙兵の時に服属が遅れ、守護になれないなど幕府では冷遇された。義貞は尊氏に強いライバル意識を持っていたと考えられる。

 尊氏は、足利氏の嫡男{ちゃくなん}で、1331年に父の死で家督を継いだ。服喪{ふくも}中に、北条高時の命で畿内出陣を要求され、笠置・赤坂攻略に参加した。1333年、後醍醐天皇が隠岐に脱出すると、高時から伯耆行在所{あんざいしょ:天皇行幸時の仮住まい}攻略を命じられたが、向かう途中で後醍醐天皇の綸旨{りんじ}を受け、自分の所領丹波{たんば}笹村荘{ささむらのしょう}に入って八幡社の神前で反北条の挙兵を誓った。そして、豪族の協力を得て六波羅探題を倒した。

 建武政府では、恩賞第一の彼は参議{さんぎ}、従三位{じゅさんみ}に叙{じょ}せられ、武蔵守{むさしのかみ}となった。尊氏はもとは高氏といい、北条高時の一字を与えられたものである。尊氏の妻登子{とうこ}は執権北条守時{もりとき}の妹で、後醍醐天皇は何とか懐柔しようと、自分の名尊治{たかはる}の一字を与えた。高氏は尊氏と改名し、北条高時からもらった高の字を捨てた。

 

建武の新政 (683)

○建武の新政…後醍醐天皇の親政
 ・理想…延喜・天暦の治の時代の政治

 ・政治機構…記録所(一般政務)−楠木正成らが職員
       雑訴決断所(訴訟)、恩賞方(論功行賞)
       武者所(治安維持)−新田義貞が長官
       国司・守護の併置
       鎌倉将軍府(関東10か国統治)−成良親王と足利直義
       陸奥将軍府(奥羽統治)−義良親王と北畠顕家

 ・崩壊…武士の不満と抵抗→個別安堵法、大内裏造営費用の負担
     貴族の不満→知行国の没収、職務世襲の解体
     にわかづくりの政治機構、内部の複雑な人間的対立
     『二条河原落書』

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注1> この贈り名は遺言で定めたもので、延喜の治で古代国家の立て直しを実現した醍醐天皇の後を継ぐという考えによるものである。贈り名は死後に定めたものだが、奈良時代以前のものは淡海三船{おうみのみふね}が撰したといわれる。なお、贈り名は儒教思想に基づいて徳風を示すもの(孝明、聖武など)と、関係ある地名から取られたもの(醍醐・朱雀など)がある。
注2> この元号は、劉秀{りゅうしゅう}が王莽{おうもう}の新{しん}を倒して漢{かん}を再興して、光武{こうぶ}帝となった時に用いている。
注3> 『太平記』には千種忠顕{ちくさただあき}や僧文観{もんかん}の名が挙がっている。

 隠岐を脱出した後醍醐{ごだいご}天皇<注1>は京に戻り、光厳{こうごん}天皇を廃して親政を始めた。1334年に元号を建武{けんむ}<注2>と改めたので、天皇のこの政治を建武の新政{しんせい}という。親政の目標は、摂政・関白・院政・幕府を否定し、天皇中心の政治を復活させることだった。その方針は、「今の例は昔の新儀{しんぎ}なり、朕{ちん}が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論{ばいしょうろん}』)としたが、前途多難{ぜんとたなん}だった(史料1)。

 新政府は、記録所{きろくしょ}、雑訴決断所{ざっそけつだんしょ}、武者所{むしゃどころ}、恩賞方{おんしょうがた}を太政官機構とは別に置いた。記録所は一般政務を扱い、楠木正成や名和長年{なわながとし}らが職員にいた。雑訴決断所は訴訟問題などの訴訟を扱ったが、個別安堵法{こべつあんどほう}廃止(後述)の頃に置かれた。鎌倉幕府の引付{ひきつけ}に当たるもので、公家や武家、新政に批判的な勢力まで任命されたが、実務者不足で新政を大きく後退させた。

 武者所は皇居と京都の治安維持に当たり、頭人{とうにん:長官}に新田義貞が就き、反足利勢力で固められた。恩賞方は一般武士の論功行賞の処理に当たったが、天皇に決定権があっても側近<注3>が口をはさみ、公正さを欠いた。功績があっても恩賞がないという武将も多く、諸国の武士の不満を招いていた。

 地方には、国司と守護を併置した。国司に公家、守護に武士を任命し、畿内とその近国の国司は天皇の側近で固めた。守護が軍事・警察力を行使して、国司がその利益を得ることになったが、守護や武士の不満を買った。そして、関東10か国を統治する鎌倉将軍府を置き、成良{なりよし}親王と足利直義{ただよし}を派遣した。また、奥羽{おうう}2州を統治する陸奥{むつ}将軍府には義良{のりよし}親王と北畠顕家{あきいえ}(北畠親房{ちかふさ}の子)を派遣したが、武士が力を持っていた。





●建武政権(梅松論)

…元弘三年の今は天下一統{いっとう}に成しこそめづらしけれ。君の御聖断は延喜・天暦のむかしに立帰{たちかえ}りて、武家安寧{あんねい}に比屋謳哥{ひおくおうか:すべての者がほめたたえる}し、…古{いにしえ}の興廃を改めて、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべしとて、…爰{ここ}に京都の聖断を聞奉{ききたてまつ}るに、記録所・決断所をゝかるといへども、近臣臨時に内奏{ないそう}を経て非義{ひぎ}を申し断ずる間、綸言{りんげん:朝命を奉じた言辞}朝に変じ暮に改まりしほどに、…

…又、天下一統の掟をもつて安堵の綸旨を下さるといへども、所帯をめさるる輩、恨{うらみ}をふくむ時分、公家に口ずさみあり。尊氏なしといふ詞を好みつかひける。…武家して又公家に恨をふくみ奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむことをいそがしく思へり。故に公家と武家、水火の争にて元弘三年も暮にけり。

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注4> 筆者は京童{きょうわらんべ}と自称するが、建武政府に好意を持たない公家か僧侶らしい。

 新政は間もなく崩壊していった。その背景に、武士の不満と抵抗があった。所領の安堵{あんど}は綸旨{りんじ}で確認されるという個別安堵法を出した。そのため、20年知行法{ちぎょうほう}という武家社会の慣習を根底から覆され、武士社会は混乱したため、結果的に撤回された。さらに、1334年に大内裏{だいだいり}の造営費用を地頭に負担させる命令を出した。これは地頭の収益の20分の1の上納{じょうのう}を命じたものだが、新たな負担は農民に転嫁{てんか}され、農民の反発を招いた(史料2)。

 また、上流貴族は世襲化{せしゅうか}した知行国{ちぎょうこく}を没収され、下級貴族は職務世襲の解体を始めたため、貴族も大きな不満を持った。さらに、にわかづくりの政治機構や内部の複雑な人間的対立もあり、政務は停滞し、社会は混乱した。それをよく現わしたのが『二条河原落書{にじょうがわらのらくしょ}』<注4>である(史料3)。これは、新政が開始された直後の1334年8月、京都二条の鴨川の河原に掲げられたものである。

 建武の新政は、復古的な考えに基づく政治を行なったことである。それは、延喜・天暦の治のような政治である。しかし、理想を実現するために、現実から大きくかけ離れたものとなってしまい、結局、公武両勢力の期待に応えることができなかったのである。そして、武士の間には新たな武家政権の誕生を望む声が高まった。



●農民の失望/若狭国太良{たら}荘農民の訴状(東寺百合文書)

…関東御滅亡、今は、当寺御領と罷{まか}り成{な}り、百姓等喜悦{きえつ:喜び}の思{おもい}を成すの処{ところ}、御所務{ごしょむ:負担}曽{かつ}て以て御内御領の例に違{たが}はず、剰{あまつさ}へ新増せしめ、巨多{こた}の御使{ぎょし}を付{ふ}せられ、当時農業の最中呵責{かしゃく}せらるるの間、愁吟{しゅうぎん}にたえざるに依り、子細を勒{ろく}して言上す。…


●二条河原落書(建武年間記)

 此比{このごろ}都ニハヤル物、夜討{ようち}強盗謀綸旨{にせりんじ}、召人{めしうど}早馬虚騒動{そらさわぎ}、生頸{なまくび}還俗自由出家、俄{にわか}大名迷者{まよいもの}、安堵恩賞虚軍{そらいくさ}、本領{ほんりょう}ハナルゝ訴訟人、文書入タル細葛{ほそつづら}、…下克上{げこくじょう}スル成出者{なりでもの}、器用ノ堪否{かんぷ}沙汰モナク、モルゝ人ナキ決断所、…京鎌倉ヲコキマセテ、一座ソロハヌエセ連歌{れんが}、在々所々ノ歌連歌、点者{てんじゃ}ニナラヌ人ソナキ…

 

南北朝の動乱 (684)

○南北朝の動乱
  尊氏、鎌倉へ…中先代の乱鎮圧のため
     京都へ…反旗を翻す
     西国へ…北畠顕家の上洛、多くの武士が尊氏方につく
     再上洛…多々良浜の戦い、湊川の戦い
         後醍醐天皇、三種の神器を持って吉野へ

  南朝…劣勢、多くの武将が戦死
  北朝…優勢、建武式目制定、尊氏が征夷大将軍に→室町幕府成立

○観応の擾乱
  幕府内の分裂…尊氏と直義
  南朝が勢力を吹き返す

  長期化・全国化した理由…惣領制の解体、嫡子単独相続、地縁的結合

○南北朝の統合(1392)…足利義満の時
  南朝の抵抗の弱体化
  後亀山天皇が、後小松天皇に三種の神器を授けて譲位

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注1> 現在の兵庫県揖保{いぼ}郡御津町{みつちょう}にある港
注2> 後醍醐天皇が吉野に逃れ、光明{こうみょう}天皇が即位してから院政を始めた。
注3> 八咫鏡{やたのかがみ}・草薙剣{くさなぎのつるぎ}・八坂瓊曲玉{やさかにのまがたま}のこと。南朝が正統といわれるのはこれを持っていたためである。

 1335年、北条高時の子時行{ときゆき}が、鎌倉幕府の再興を目指して挙兵し、鎌倉に攻め入った。これに対し、足利尊氏は弟直義{ただよし}を助けるため鎌倉に向かい、反乱を鎮圧した。中先代{なかせんだい}の乱である。この時、直義は護良{もりよし/もりなが}親王を暗殺した。尊氏は鎌倉にとどまった後、新政府に反旗を翻{ひるがえ}した。こうして、建武の新政はわずか2年で崩れたのである。そして、尊氏は、新田義貞{にったよしさだ}の追討を名目に1336年に上洛{じょうらく}した。しかし、陸奥将軍府の北畠顕家{あきいえ}が追いかけるように上洛したため、尊氏は西国に逃れた。

 建武政府は、北条一族の支配地を没収したため、それにともなう職務を武士から奪っていた。これを回復することで、去就に迷う多くの武士を尊氏側に走らせた。さらに、室泊{むろどまり}<注1>の軍議を開いて、足利一門や有力武士を中国・四国に配置して、建武政府への反撃の用意をした。そして、光厳{こうごん}上皇<注2>の院宣{いんぜん}を受け、朝敵{ちょうてき}の汚名{おめい}を除いて武士の動揺を抑えた。

 九州に下って態勢を整えた尊氏は、1336年に多々良浜{たたらはま}の戦いで菊池武敏{きくちたけとし}を破り、九州を支配下に置き、楠木正成を湊川{みなとがわ}の戦いで破り、京へ入り、光明天皇が即位した。後醍醐天皇は三種の神器{じんぎ}<注3>を持って吉野へ逃れた。朝廷が、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝に分かれた。南北朝時代である。

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注4> 義詮は幕府2代将軍。直冬は尊氏の実子で、直義の養子になっていた。また、直義は1352年に鎌倉で毒殺された。

 南朝は、各地に皇子や武将を派遣したが、新田義貞は越前藤島{えちぜんふじしま}、北畠顕家は和泉石津{いずみいしづ}、楠木正行{まさつら}は河内四条畷{かわちしじょうなわて}で戦死した。また、懐良{かねよし/かねなが}親王が征西将軍{せいせいしょうぐん}として九州に赴き、南朝の拠点を築こうとした。北畠親房{ちかふさ}は常陸{ひたち}を拠点に、関東武士の結集を目指したが失敗した。1339年に後醍醐天皇が亡くなったが、その衝撃は大きかった。その後、南朝の本拠地吉野が陥落したため、賀名生{あのう}に本拠を移した。

 一方、京に入った足利尊氏は、1336年に建武式目{けんむしきもく}(史料1)を制定した。これは、尊氏が武家政治を再開することを目的に、中原是円{なかはらぜえん}らに諮問して、17条にまとめられた施政方針である。まず、幕府の所在地については、尊氏は鎌倉に開きたかったが、現状を判断して京都に開くこととなった。そして、当面の基本政策を簡単に挙げた。鎌倉幕府の政治制度や政策の継承、わいろの禁止、裁判の公平などである。この結果、実質的に室町幕府が開かれたといえる。

 そして、1338年、尊氏は光明天皇から念願の征夷大将軍に任ぜられ、京都に幕府を開いた。室町幕府の内部は、尊氏が軍事指揮権、直義が裁判・行政権を握っていた。しかし、どのような幕府体制にするかで、鎌倉幕府的体制を主張する直義と、全く新しい政治体制を主張する尊氏の執事{しつじ}高師直{こうのもろなお}が対立し、幕府内部も分裂した。観応{かんのう}の擾乱{じょうらん}である。その後、直義が南朝に走り、師直が暗殺され、尊氏・義詮{よしあきら}父子と直義・直冬{ただふゆ}父子の対立<注4>になった。

 観応の擾乱で、南朝が再び勢いを吹き返した。そこで、幕府、旧直義派、南朝の三者が離合集散し、南北朝は長期化し、全国化した。その背景には、惣領制が解体し、分家が独立し、相続も嫡子単独相続となり、地縁的結合が重視されるようになった。また、武士団内部の分裂と対立が拍車を掛け、一方が北朝に付けば、もう一方は南朝につくことになった。



●建武式目

 鎌倉元の如く柳営{りゅうえい:幕府の所在地}たる可{べ}きか、他所たる可きや否やの事。…鎌倉郡は文治に右幕下、始めて武館を構へ、承久に義時朝臣天下を併呑{へいどん}し、武家に於ては尤{もっと}も吉土{きちど:縁起のよい土地}と謂ふべき哉。…然らば居処{きょしょ}の興廃は、政道の善悪に依るべし。是れ人凶は宅凶に非{あら}ざるの謂{いい}なり。但し諸人若し遷移{せんい:場所の移動}を欲せば、衆人の情に随{したが}ふべきか。

政道の事
 一、倹約を行はる可き事
 一、私宅の点定{てんじょう}を止めらる可き事
 一、諸国の守護人は殊に政務の器用を択{えら}ばる可き事

 以前十七箇条、…遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪{とぶら}ひ、近くは義時・泰時父子の行状を以て近代の師となす。殊に万人帰仰の政道を施{ほどこ}さるれば、四海安全の基{もとい}たるべきか。

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 その後、九州の南朝勢力を今川了俊{いまがわりょうしゅん}が制圧するなど、南朝の抵抗が弱体化していた。そこで、足利義満{よしみつ}は南朝に合一{ごういつ}を申し入れた。その結果、南朝の後亀山{ごかめやま}天皇が京都に戻り、北朝の後小松{ごこまつ}天皇に三種の神器を授けて譲位し、約60年続いた南北朝の合一を実現させた(史料2)。その際の条件は、皇位は両統迭立{てつりつ}、国衙{こくが}領は大覚寺統(南朝)、諸国の長講堂領{ちょうこうどうりょう}は持明院統(北朝)が管轄することだった。しかし、何一つ守られず、大覚寺統は没落し、後亀山上皇は1410年に吉野へ脱出し、後南朝{ごなんちょう}として抵抗を続けた。



●南北朝の合体(吉田文書)

 御合体の事、連々{つらつら}兼煕卿を以て申し合はせ候の処、入眼{じゅがん}の条珍重に候。三種神器帰座有るべきの上は、御譲国の儀式を為すべきの旨、其の意を得候。自今{じこん}以後、両朝の御流相代はりて御譲位治定{じじょう}せしめ候ひ畢{おわ}んぬ。就中{なかんずく}、諸国の国衙は悉{ことごと}く皆御計{はからい}たるべく候。長講堂に於ては、諸国分は一円持明院殿{じみょういんどの:後小松天皇}の御進上たるべく候。