国風文化の特徴、浄土の信仰 (653)

○国風文化の特徴…10世紀以後の摂関政治期が中心
   貴族中心の華やいだ文化、浄土教美術の隆盛
   中国・仏教文化を消化・吸収、日本の風土に合わせた文化

○浄土の信仰
  現世利益を願う信仰=天台・真言宗が大きな力持つ
            神仏習合の進展→本地垂迹説
            御霊会の盛行

  極楽浄土を願う信仰=浄土教
    末法思想の流行、世情不安の増大が流行の背景
    空也(市聖)、源信(『往生要集』)らが布教
    往生伝を作る

1

 摂関政治の全盛期だった10〜11世紀頃は、文化の趣が大きく変化し、国風化した時代である。そこで、この頃の文化を国風文化という。国風文化は、衰退している唐の文化も持ち込まれたが、遣唐使の廃止や海外情勢の変化で、大陸からの直接的な影響は減少した。そして、中国との関係が大きく変化すると、唐の文化を消化、吸収した上に日本独自の文化を生み出したのである。

 文化の特徴は、中国文化・仏教文化を消化・吸収し、日本の風土にあった高度な文化で、貴族中心の華やかな文化である。また、浄土教の流行と発展による浄土教美術の隆盛も挙げられる。

2

注1> 平忠常{たいらのただつね}の乱、前九年の役、後三年の役(それぞれ後述する)
注2> 正法は教(教説)、行(実践)、証(結果)のそろっている時代。像法は教・行のみ、末法は教のみの時代で、末法は1万年といわれる。
注3> 聖{ひじり}は学徳の優れた人

 宗教では、現世利益{げんせりやく}と極楽往生を願う信仰が発達した。摂関政治の頃、天台宗と真言宗は大きな力を持ち、祈祷{きとう}を通じて現世利益を願う貴族と結びついた。また、神仏習合がさらに進み、人々は日本古来の神々と仏を結びつけ、両方を信仰するようになった。本地垂迹説{ほんじすいじゃくせつ}である。この説は、神は仏が仮に姿を変えて、この世に現われたとする考え方で、天照大神{あまてらすおおみかみ}を大日如来{だいにちにょらい}の化身とするなど、それぞれの神について、特定の仏をその本地として定めることが盛んになった。

 また、御霊会{ごりょうえ}が盛んに行なわれた。御霊会は、恨みを飲んで死んだ者の霊を恐れる怨霊{おんりょう}信仰・御霊{ごりょう}信仰から起こったもので、怨霊や疫神{えきしん}を慰{なぐさ}めて祟{たた}りから逃れようとする鎮魂{ちんこん}の法会{ほうえ}・祭礼である。当初、早良{さわら}親王ら政治的敗者を慰める行事として始まった。後に、祇園社{ぎおんしゃ}と菅原道真を祀る北野神社が有名になった。

 11世紀、都では疫病や火災、地方では盗賊や争乱<注1>が続発するなど世情不安が広がっていた。また、末法{まっぽう}思想が流行したことが合わさり、死後悩みのない世界に生まれ変わりたいという人々の願いに応え、浄土教{じょうどきょう}が広まった。浄土教は、人は仏や菩薩{ぼさつ}を信じて思えば、死後仏や菩薩のいる浄土に生まれ変わることが出来るとする仏教の教えで、日本では阿弥陀仏信仰などがある。末法思想とは、釈迦が亡くなった紀元前949年から1000年を正法{しょうほう}、次の1000年を像法{ぞうほう}<注2>といい、その後に末法が来るという説で、日本では1052年が末法1年と信じられていた。

 浄土教は、空也{くうや}や源信{げんしん}らによって布教され、民間に普及した。空也は市聖{いちのひじり}<注3>とも呼ばれ、10世紀半ばに京で念仏を勧めた(史料1)。六波羅蜜寺{ろくはらみつじ}所蔵の空也像は、南無阿弥陀仏{なむあみだぶつ}を唱えると、その一音一音が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻にしたものである。源信(恵心僧都{えしんそうず})は天台宗の学僧で、『往生要集{おうじょうようしゅう}』(史料2)で念仏による極楽往生の方法を示し、浄土信仰を確立させた。また、念仏信仰の功徳{くどく}で浄土への往生を遂げた人々の伝記を集めた「往生集」も作られた。慶滋保胤{よししげのやすたね}の『日本往生極楽記』がその代表作である。



●市聖空也(日本往生極楽記)

 沙門{しゃもん:僧侶}弘也{こうや:空也}は、父母を言はず、亡命して世にあり。…口に常に弥陀仏を唱ふ。故に世に阿弥陀聖{あみだのひじり}と号{な}づく。或は市中に住して仏事を作{な}し、また市聖と号づく。嶮{さか}しき路を過れば即ちこれをけず{けず}り、橋なきに当りてはまたこれを造り、井なきを見るときはこれを掘る。号づけて阿弥陀の井と曰ふ。


●往生要集

 夫れ往生極楽の教行{きょうじょう}は、濁世{じょくせ}末代の目足{もくそく}なり。道俗・貴賎、誰か帰せざる者あらむ。但し顕密{けんみつ}の教法は、其の文{もん}、一に非ず。事理の業因{ごういん}は、其の行、惟{こ}れ多し。利智・精進の人は、未だ難{かたし}と為さざらむも、予が如き頑魯{がんろ}の者、豈{あ}に敢えてせむや。是の故に念仏の一門に依りて、聊{いささ}か経論{きょうろん}の要文{ようもん}を集む。之を披{ひら}きて之を修すれば、覚{さと}り易く、行ひ易からむ。…

 

かな文字とかな文学の誕生 (654)

○かな文字
  ひらがな、カタカナ→11世紀に字形が統一

  文字の使い分け…公式の場−漢字、和風漢文の使用
          日常生活−かな文字を広く利用

○かな文学
 ・和歌集…「古今和歌集」−醍醐天皇の命で紀貫之、紀友則らが編纂
              勅撰和歌集、三代集、八代集の始め

 ・かな物語…「竹取物語」「伊勢物語」(ともに作者未詳)
       「源氏物語」(紫式部)など

 ・随筆…「枕草子」(清少納言)
 ・日記…「土佐日記」(紀貫之)

 

注1> 『御堂関白記』は、具注暦{ぐちゅうれき:季節や日の吉兆などを書き込んだ暦}に書き込まれ、自筆日記としては現存する最古のものである。
注2> 晩年まで、宮廷の屏風に書く詩や詩などを作り続けたが、官人としては余り出世しなかった。『源氏物語』に「絵は巨勢相覧{こせのあうみ}、字は紀貫之が書けり」とあり、能書としても尊重されていたようである。ちなみに、貫之が書いたという確証のあるものは一つもない。また、紀貫之と紀友則はいとこである。
注3> 当初は『続万葉集』だったそうだが、醍醐天皇が再び編纂を命じ、『古今和歌集』となったという。
注4> 三代集は、『古今和歌集』『後撰{ごせん}和歌集』『拾遺{しゅうい}和歌集』である。八代集は三代集に、『後拾遺{ごしゅうい}和歌集』『金葉{きんよう}和歌集』『詞花{しか}和歌集』『千載{せんざい}和歌集』『新古今和歌集』である。
注5> 六歌仙{ろっかせん}の1人。六歌仙は、平安時代前期の和歌の上手な6人で、業平以外に小野小町{おののこまち}、僧正遍昭{そうじょうへんじょう}、僧喜撰{きせん}、文屋康秀{ふんやのやすひで}、大友黒主{おおとものくろぬし}がいる。

 国風文化の最大の特徴は、かな文字が作られたことである。かな文字が出来るまでは、漢字を使ってすべてを表現していた。しかし、9世紀頃には複雑な漢字の一部を使ったカタカナが、漢字の草書{そうしょ}をいっそう崩したひらがなが表音{ひょうおん}文字として使われ始めた。10世紀には、かな文字の字体もほぼ一定となった(コラム1)。かな文字が出来たことで、日本人特有の感覚や感情の表現が可能となり、物語や和歌などの文学も盛んになった。

 公式の場では、漢字や和風漢文が使われた。朝廷での儀式や行事の比重が増大し、その詳細を日記に記すようになった。藤原道長の『御堂{みどう}関白記』<注1>は、その代表である。一方、日常生活ではかな文字を広く使い、かな文学が隆盛となった。しかし、この時代の物語や日記は、宮廷に入った才能がある女性が作ったものが多い。そこで、平仮名を女手{おんなで:女文字とも}ともいう。

 奈良時代、貴族の素養は漢詩文を作ることだった。しかし、かな文字が発達すると、和歌が盛んに作られるようになった。905年、醍醐{だいご}天皇の命で紀貫之{きのつらゆき}、紀友則{きのとものり}<注2>らが『古今和歌集』<注3>を編纂した。これは、最初の勅撰和歌集で、三代集、八代集<注4>の初めである。ここには、女性26人を含む124人の和歌1110首が収められている。繊細で技巧的な歌が多く、古今調と呼ばれる。また、藤原公任{きんとう}は、朗詠{ろうえい}に適した漢詩文や和歌を『和漢朗詠集{わかんろうえいしゅう}』にまとめた。

 かなを使って書いた物語も多く作られた。『竹取{たけとり}物語』、『伊勢{いせ}物語』、『源氏{げんじ}物語』は、その代表作品である。『竹取物語』は、9世紀前半に書かれた最初のかな表現と作り物の物語で、かぐや姫のむこ選び説話などで有名である。『伊勢物語』は、9世紀前半に書かれた最初の歌物語で、在原業平{ありわらのなりひら}<注5>(コラム2)の実録的物語と考えられている。『源氏物語』は、紫式部{むらさきしきぶ}が宮廷生活で見聞きした事柄を題材に、約10年間にわたり書き継がれた長編小説である(史料1)。

 随筆では『枕草子{まくらのそうし}』、日記では『土佐{とさ}日記』が代表作品である。『枕草子』は、清少納言{せいしょうなごん}の作品で、宮廷生活の体験を記したものである(史料2)。『土佐日記』は、紀貫之が土佐守{とさのかみ}の任期を終えて帰京するまでの旅を、女性に仮託{かたく}して書かれたもので、仮名書き日記の最初とされている(史料3)。



●源氏物語

 いづれの御時にか。女御・更衣あまたさぶらひ給{たま}ひけるなかに、いと、やむごとなき際{きわ}にはあらぬが、すぐれて時{とき}めき給ふありけり。

 はじめより「われは」と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者におとしめそねみたまふ。おなじ程、それより下臈{げろう:下級}の更衣たちは、まして、安からず。あさゆふの宮づかへにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いと、あつしくなりゆき、もの心ぼそげに里がちなるを、いよいよ「あかずあはれなるもの」に思{おぼ}ほして、人の謗{そし}りをも、えはゞからせ給はず、世の例{ためし}にもなりぬべき御もてなしなり。


●枕草子

 雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子{みこうし}まゐりて、炭櫃{すびつ}に火おこして、物語などして集りさぶらふに、「少納言よ、香炉峰{こうろほう}の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾{みす:すだれ}を高くあげたれば、わらはせ給ふ。

 人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、此の宮の人には、さべきなめり」といふ。


●土佐日記

 をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり。それのとしのしはすのはつかあまりひとびのひのいぬのときに、かどです。そのよし、いささかにものにかきつく。



注> 榎の枝の「榎」はア行、「枝」はヤ行の「え」である。音韻上の区別があったようである。

ひらがなとカタカナ、かな文字を並べたもの

 ひらがなの「い」「ろ」は、それぞれ「以」「呂」を崩したものである。カタカナの「イ」「ロ」「ハ」は、それぞれ「阿」のこざとへん、「伊」のにんべん、「宇」のうかんむりを使ったものである。明治以降は使われなくなった文字を変体仮名という。「あ」は、「安」を崩したものを使い、「阿」「愛」を崩したものは使わなくなった。このような例は、崩し字辞典や、古語辞典、書道の教科書にも掲載されている。

 かなを重複しないように使った「あめつちの詞{ことば}」、「たゐに(大為爾)の歌」、「いろは歌」が作られた。「あめつちの詞」は、平安時代初期の成立といわれ、「あめつちほしそらやまかはみねたにくもきりむろこけひといぬうへすゑゆわさるおふせよえのえをなれゐて(天地、星空、山川、峰谷、雲霧、室苔、人犬、上末、硫黄猿、生ふせよ、榎の枝<注>を、馴れ居て)」の48字である。

 「たゐに(大為爾)の歌」は、源為憲{ためのり}が970年に著わした『口遊{くちずさみ}』の中にある。「たゐにいてなつむわれをそきみめすとあさりおひゆくやましろのうちゑへるこらもはほせよえふねかけぬ(田居に出で、菜摘むわれをぞ、君召すと、あさり追ひゆく山城の、打ち酔へる子ら、藻葉乾せよ、得舟繋けぬ)」の47字である。

 「いろは歌」は、七五調四句の今様{いまよう}風の歌で、「いろはにほへとちりぬるおわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす(色はにほへど、散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山けふ越えて、あさき夢見じ酔ひもせず)」の「ん」を除く47文字である。長く漢字の字母表{じぼひょう}、手習い歌、辞書の語順を決める基準として使われた。

 また、「五十音図」は、10世紀以後「いろは歌」とともに作成されたという仮名の表で、国語の基本的な音節(清音・直音)を組織的に配列したものである。縦(行)に子音、横(段)に母音をそろえ、5段10行合計50の枠に収めた。これには、真言密教の僧侶が関係したと考えられ、1079年の写本が現存するものが最古とされている。




在原業平

 在原業平は、平城天皇の子の阿保{あぼ}親王の第5子で、在原姓を賜わって臣籍に下った。『古今和歌集』の序に列挙されている六歌仙、あるいは三十六歌仙の1人で、容姿端麗で情熱的な和歌の名手だったため、『伊勢物語』の主人公とされている。枕をともにした女性は若い娘から上は99歳まで、その数は3733人と伝えられ、小野小町も名を連ねている。しかし、実際の彼はただの色白の二枚目ではなく、たくましい武人だったという説がある。

 

国風美術 (655)

○美術工芸の国風化
 ・建築 寝殿造(貴族の住宅)…白木造、檜皮葺、板敷床

 ・絵画 大和絵…襖や屏風に描かれる。日本的風物を主題にした絵画

 ・工芸 蒔絵、螺鈿で漆器の技法が使われる

 ・書道 和様(優美な線を表現)…三蹟(小野道風、藤原佐理、藤原行成)

○浄土教美術
 ・建築 阿弥陀堂建築…法成寺、平等院鳳凰堂

 ・彫刻 阿弥陀如来像…寄木造(定朝が完成)
            平等院鳳凰堂のものが有名

 ・絵画 来迎図

1

注1> 白木造は、塗料を塗らない、木地のままの材で作ること。檜皮葺は、檜{ひのき}の皮で屋根を葺いたもの。板敷床は、畳のかわりに板を張った床の間。
注2> 几帳{きちょう}、衝立{ついたて}もある。
注3> 中国の事物を主題として日本で描かれた絵。

 美術工芸の分野でも国風化が進んだ。建築では、貴族の住居が寝殿造{しんでんづくり}で作られた(コラム1)。寝殿造は、白木造{しらきづくり}、檜皮葺{ひわだぶき}、板敷床{いたじきどこ}<注1>などの特徴があり、畳や円座を敷いて座り、襖{ふすま}や屏風など<注2>で間仕切りをした。

 襖や屏風には、唐絵{からえ}<注3>や大和絵{やまとえ}が描かれた。大和絵は、日本的風物を主題にした絵画で、ほとんどが季節の推移を主題としたものである。なだらかな線と上品な彩色を特徴とし、巨勢金岡{こせのかなおか}が初期の大和絵の画家として知られる。

 また、工芸では蒔絵{まきえ}や螺鈿{らでん}で漆器の技法が使われ、屋内調度品{ちょうどひん}に用いられた。蒔絵は、漆で模様を描き、金・銀・スズなどの粉末を散らして、絵や模様を表わしたもので、日本独自の発展を遂げた。螺鈿は、夜光貝{やこうがい}やアワビなどを薄くすり減らし、様々な模様にして器物{きぶつ}にはめ込んだものである。

 書の世界でも、力強い筆蹟の唐様{からよう}から、優美な線を表現する和様{わよう}が主流となり、美麗{びれい}な草紙{そうし}や大和絵の屏風などに書かれた。和様は、日本独自の書風のことで、小野道風{とうふう/みちかぜ}、藤原佐理{さり/すけまさ}、藤原行成{こうぜい/ゆきなり}が代表的能書で、後に三蹟{さんせき}(三跡)と呼ばれた(コラム2)。




注> 築地塀は土塀の上に屋根を葺いたもの。寝殿は主人が居住し、儀式・行事を行なうところ。対屋は寝殿の左右や後方に造る別棟の建物。釣殿は東西の廊の南端、池を望む建物。透渡殿は左右に壁のない廊下で、寝殿と対屋を結ぶ。

寝殿造の配置

 四足門{しそくもん}のつく築地塀{ついじべい}に囲まれた敷地(1町、約120m四方、4500坪)を基準に、中央に寝殿(正殿)、東西に対屋{たいのや}(対{たい})、南に釣殿{つりどの}があり、透渡殿{すきわたどの}や廊{ろう}でつないだ<注>。庭園には池や築島{つきしま}を設けた。




三跡の説明

 小野道風は篁{たかむら}の孫で、醍醐{だいご}、朱雀{すざく}、村上の3天皇に書で仕えた。和風書道を始め、「秋萩帖{あきはぎじょう}」は彼の書といわれる。若い頃、書が上達せず悩んでいた。ある時、蛙が垂れ下がる柳の葉に飛びつこうとしてなかなか届かないのを見たが、その蛙が何度も繰り返し飛んでいるうちに届いたのを見て、書の練習に励んだという。また、大江朝綱{おおえのあさつな}と書の腕を競い、醍醐天皇が「書は道風が勝り、詩は朝綱が勝る」と判定し、御所の屏風の詩を朝綱に作らせ、それを道風に書かせた。その屏風は現存しないが、「屏風土代{びょうぶどだい}」という下書きが残されている。

 藤原佐理は、実頼{さねより}の孫である。性格は、如泥人{じょでいじん:だらしない人}(『大鏡』)と記され、それが災いしてしばしば失態もあったという。25歳で上表文{じょうひょうぶん:辞表}の清書を命じられ、その後も円融{えんゆう}、花山{かざん}、一条の3天皇の大嘗祭{だいじょうさい}の色紙形を揮毫{きごう}する名誉を得た。書の腕前は天才的で、その書は佐跡{させき}と呼ばれた。書の特徴は、一行を一文字のように一気呵成に早書きするところから「一墨之様」(『新猿楽記{しんさるがくき}』)と言われた。代表作の「離洛帖{りらくじょう}」はまさにその通りの書きぶりである。

 藤原行成は伊尹{これただ}の孫だが、祖父・父が早く他界したため、昇進が思わしくなく出家を考えたが、源俊賢{としたか}がそれを引き留め、蔵人頭{くろうどのとう}に推薦した。行成は、その恩と義理を忘れず、俊賢より身分が高くなっても、彼を立てることに努めた。結局、権大納言{ごんだいなごん}まで昇進した。一方、どんな時でも取り乱さず、冷静沈着に振る舞う極めて温厚な人物で、大変まじめだったため、ユーモアがなく、面白味に欠けると避けられることもあったという。しかし、清少納言{せいしょうなごん}は彼のあまり表に出ない内面を見抜き、心を開いて話が出来たようで、お互いによき理解者だった。

 行成の書は権跡{ごんせき}と呼ばれ、「本能寺切{ほんのうじぎれ}」が彼の書として伝えられている。世の中では道風の書を尊重、愛好する傾向にあった頃、行成は唐風の書の根源にある王羲之{おうぎし}も学ぶという熱の入れようから、夢の中で道風から書風を伝授されたという逸話も残されている。そして、道風が始めた和様は、彼の時に大成し、後世にわたって長く尊重、流行した。また、彼が建立した世尊寺{せそんじ}の名を子孫が家名とし、室町中期の17代行季{ゆきすえ}まで続く世尊寺流として、朝廷の書き役を務めることとなった。

2

 浄土教の流行に伴って、貴族は競って阿弥陀堂{あみだどう}を建てた。阿弥陀堂は、なだらかな檜皮葺{ひわだぶき}の屋根を持ち、阿弥陀堂建築と呼ばれた。藤原道長が法成寺{ほうじょうじ}に九体阿弥陀堂を、藤原頼通が宇治平等院に鳳凰堂{ほうおうどう}を建てた。このような阿弥陀堂に金色{こんじき}に輝く阿弥陀如来像{あみだにょらいぞう}が安置された。

 阿弥陀如来像は、寄木造{よせぎづくり}という技法で作られた。これは、2つ以上の材木を寄せ合わせ、多くの工人で部分を作り、全体をまとめるものである。これまでの一木造{いちぼくづくり}に代わるもので、大量生産が可能となり、仏像の大量需要に対応したものである。この技法は、定朝{じょうちょう}が完成させた。定朝が作った阿弥陀如来像で現存するのは平等院鳳凰堂だけだが、法界寺{ほっかいじ}のものも作ったとされる。

 また、来迎図{らいごうず}が盛んに描かれた。これは、往生を願う人の臨終に際し、阿弥陀仏が極楽浄土から雲に乗って迎えに来る様子を描いたものである。特に、聖衆{しょうじゅ}来迎図は、大和絵の手法を取り入れて描かれたものである。


 

貴族の生活 (656)

○貴族の生活
 ・服装 男 正装…束帯・衣冠 常服…直衣・狩衣
     女 正装…女房装束  常服…小袿・袴

 ・住宅 左京に寝殿造の邸宅。畳・円座を置く。

 ・食事 1日2回。獣肉は用いない。米は主食でない

 ・社会生活 成人式…男は元服、女は裳着
       寺社参詣は行なうが、京を離れる旅行はまれ

 ・精神生活…迷信に囲まれる=具注暦
       陰陽道の影響、物忌、方違

 ・その他 娯楽…双六、碁、貝、管弦など
      移動に牛車を使う

1

注1> 衣服令で定められた朝廷の官人の通常服
注2> 服装の装身具も含めた名称。革製の帯で上部から腰を束ねて威儀を整えた。長い裾{きょ}を引くのが特徴。天皇も即位以外の恒例・臨時の儀式に正装として着用。
注3> 五位以上の平常の参内服、位ごとに色が違う。冠をかぶり、束帯の上衣に袍{ほう}を付け、ひもで裾をくくりすぼめた指貫{さしぬき}をはく。
注4> 俗に十二単{じゅうにひとえ}というが、12枚着ていたわけではない。
注5> 庶民・下級武士は水干{すいかん}や直垂{ひたたれ}を用いた。水干は、狩衣が変化したもので、脇の下があく、袖をくくるなど実用的になっている。
注6> 藁{わら}、蒲{かま}、菅{すげ}、藺{い}などの茎{くき}や葉などで、渦巻き状に丸く平たく編んだ敷物。
注7> 野菜は生、焼く、煮る、茹でて食べた。肉は焼く、煮る、干し魚や乾し肉などの乾物にして食べた。
注8> ある男がいたずらで具注暦に「はこ(筥)すべからず」と書き付けたのを真に受けた女性が、死ぬ思いで手洗いを我慢したという笑い話も残されている。

 貴族の服装は、主に絹を使い、日本人の趣向と色彩感覚を加えたものとなった。しかし、ともに正装は優美だが、極めて非活動的だった。また、湿度の高い日本の気候に適するように袖口が広く、脇も開いていたが、底冷えする京都の寒さはとても凌ぎきれるものでなかったようである。男性の正装は、唐風のいかめしい朝服{ちょうふく}<注1>から、平安中期には束帯{そくたい}<注2>となり、それを略した衣冠{いかん}<注3>が平安末期頃から用いられるようになった。また、日常服も直衣{のうし}、狩衣{かりぎぬ}となった。女性の正装も女房装束{にょうぼうしょうぞく}<注4>となり、日常服も小袿{こうちぎ}に袴{はかま}を着けた<注5>。

 貴族の多くは左京に寝殿造の邸宅を建てて住んだ。そして、板床の上に畳や円座{わろうだ}<注6>を置いて座った。また、部屋にはトイレがなかったため、筥{はこ}と呼ばれる携帯用便器を用いた。

 食事は、巳{み}の刻(午前10時頃)、申{さる}の刻(午後4時頃)に、穀物、野菜、鶏肉{とりにく}、獣肉{じゅうにく}、魚肉<注7>などを食べた。しかし、肉食を汚れとする思想が広がると、乳製品なども次第に食膳から追放されていった。米は強飯{こわいい:もち米を蒸したもの}や姫飯{ひめいい:固めの粥}として食べたが、主食でなかったようである。荘園からの徴収品などで貴族の食事は多種多様となったが、乾燥した保存食品が高く、調理技術も未熟なため、消化吸収や栄養のバランスも悪く、病気も多かった。それでも、圧倒的多数の民衆の生活とは、雲泥の差があった。

 また、10〜15歳くらいで、男子は元服{げんぷく}、女子は裳着{もぎ}の式を挙げて成人として扱われた。元服は、有力者が烏帽子{えぼし}をかぶせて、新たに名を付ける儀式である。その後、官職を得て、朝廷に出仕した。裳着は初めて裳を着ける儀式である。貴族は、長谷寺{はせでら}などに寺社参詣は行なうが、京を離れる旅行は極めてまれだった。

2

 日常生活は優雅に見えるが、陰陽道{おんみょうどう}の影響もあり、迷信に囲まれる生活を送り、宿命的な世界観を持っていた。陰陽道は、吉凶・禍福を判定し、災いを払う方術として極度に迷信化し、天体現象や暦法にもすべての吉凶があるものと解釈した。それに基づいて作られたのが、陰陽寮{おんみょうりょう}が作る具注暦{ぐちゅうれき}<注8>である。

 貴族は、人々の恨みやねたみが渦巻き、怨霊や物{もの}の怪{け}が跳梁{ちょうりょう}していると信じていた。そこで、その災厄から逃れるため、物忌{ものいみ}、方違{かたたがえ}、呪いを返すことが行なわれた。このようなことが出来る人を陰陽師{おんみょうじ}といい、藤原道長に重用された安倍晴明{あべのせいめい}は抜群の力量を持っていたという。そして、除災招福{じょさいしょうふく}を期待して加持祈祷{かじきとう}を行ない、魔力の排除を期待し、死期を迎えると浄土教の力を利用して極楽浄土に行けることを期待した。

 物忌は、占いの結果や夢見が悪かったり、怪事にあったり、物の怪につかれた時など、陰陽師の判断で一定期間外出せず、特定の建物で謹慎{きんしん}した。方違は、旅行や外出の際、行く方向に悪神がいるとき、前夜に恵方{えほう}で一泊して方角を変えて行くことである。日によって、吉兆が決まっており、方向を無視して旅行などをすれば、一家が不幸に見舞われるとまで言われた。

3

注9> 夏は4時30分、春秋は5時42分、冬は6時48分
注10> 夏は5時30分、春秋は6時45分、冬は7時51分
注11> 夏は9時24分、春秋は10時24分、冬は11時18分

 貴族は、双六{すぐろく/すごろく}や碁{ご}をしたり、教養を兼ねて貝合{かいあわせ}や管弦{かんげん:雅楽}、武芸の修練を兼ねて放鷹{ほうよう}を行なった。革製の鞠{まり}を蹴り上げ、落とさないようにしてその回数を競う蹴鞠{けまり/しゅうきく}も行なわれた。貝合は、左右二手に分かれ、同種の貝を出し合って優越を競う遊びである。後に、蛤{はまぐり}に絵や歌を描いて合わせる貝覆{かいおおい}と混同されるようになった。

 また、移動には牛車{ぎっしゃ}を使った。牛車は、後から乗る屋形車で、位階、家格{かかく}で屋形内の形式が異なった。

 男性貴族の日常生活は、午前3時に起き、属星{ぞくしょう:その年に当たる星}の名号{めいごう:名称}を7回唱え、鏡で顔を見、暦を見て日の吉兆を知った。その後、口をすすぎ、手を洗い、仏名{ぶつみょう:仏の名号}を誦唱{しょうしょう}し、尊崇する神社を念じた。そして、日記を書き、粥を服した。三日に一度は頭髪を整え、丑{うし}の日に手、寅{とら}の日に足の爪を切り、沐浴{もくよく}してから出勤した。

 出勤時間は、第一開門鼓{こ}<注9>が鳴ると門が開き、第二開門鼓<注10>が鳴ると出仕して勤務が始まり、政務や儀式を行なった。最低でも、退庁鼓<注11>が鳴るまでは勤務しなければならなかった。休日は原則6日に一回で、宿直も身分差はあるが月10回くらいはあった。そして、退庁後に朝食を取り、内輪{うちわ}の仕事や宴会を行なったり、寺社に参詣したりした。