密教芸術 (647)

○密教美術
 (1)建築…室生寺

 (2)彫刻…一木造、翻波式
     密教彫刻…神護寺薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像など
     神像彫刻…薬師寺僧形八幡神像など

 (3)絵画 神護寺と教王護国寺の両界曼荼羅、不動明王像

 (4)書道 三筆(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)

 

注1> 頭部と胴体が一本の木で造られているもの。肉が厚いため深く彫れるという特徴がある。対語は寄木造{よせぎづくり}。
注2> 木像彫刻の衣のしわを表現した方法。角味の大波と丸味の小波と交互に繰り返し波の翻るように表現したもの。
注3> 唐に留学中、皇帝の命で王羲之{おうぎし}の書跡を修補したが、口と両手、両足に筆を取って、五か所同時に五種の筆法で書き上げたので五筆和尚の名を得たという。「弘法筆を選ばず」と「能書筆を選ばず」という諺の意味は「字の上手な人は筆の善し悪しを選ばない」である。しかし、空海は『性霊集』で良質の筆の必要性と書体別の筆の選択について述べている。少なくとも、あらゆる書体を自由自在に書き、特別に優れていたことから生まれたと考えられる。
注4> 818年、嵯峨天皇が大内裏の東面の三門、空海が南面の三門、橘逸勢が北面の三門の額を書いた。また、大内裏の中心部にある朝堂院の正門にある応天門には、空海が書いた「応天門」の額がかかっていたという。
注5> 戒牒は、僧が授戒した証明に授けられる公文書

 新仏教の成立は、芸術にも大きな影響を与えた。これまで、寺院の伽藍{がらん:寺院の建築物の称}は同一平面上(平地)にあった。しかし、この頃には、山中に建てられることが多くなり、地形に応じて自由に配置された。「女人高野{にょにんこうや}」で知られる室生寺{むろうじ}が有名である。

 彫刻は、一本の木で作られる一木造{いちぼくづくり}<注1>が主流で、衣紋{えもん:衣服}は力強い翻波式{ほんぱしき}<注2>で彫られた。密教の影響を受けた彫刻には、神護寺{じんごじ}薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像や弥勒堂{みろくどう}釈迦如来像、観心寺{かんしんじ}如意輪{にょいりん}観音像などがある。また、神仏習合が反映して作られた神像彫刻には、薬師寺僧形{そうぎょう}八幡神像などがある。

 絵画でも、密教世界を具体的に説明した曼荼羅{まんだら}(曼陀羅)が描かれた。この言葉は、サンスクリット語(梵語)のmandala(nとdの下に・がつく)に由来し、悟りの境地に達するという意味がある。神護寺と教王護国寺の両界{りょうかい}曼荼羅が知られる。両界曼荼羅は、金剛{こんごう}界と胎蔵{たいぞう}界を描いたものである。前者は、仏が煩悩{ぼんのう}を破ることが金剛のように強いことを、大日如来を中心に諸尊をめぐらして示したものである。後者は、胎児が母体の中で成長していくように、人間が悟りに進んでいく姿を、諸仏を配して示したものである。

 また、不動明王像も描かれ、園城寺{おんじょうじ}、高野山明王院{めいおういん}などに残る。前者を黄不動{きふどう}、後者を赤不動{あかふどう}という。また、平安末期に描かれて青蓮院{しょうれんいん}に残る不動明王を青不動{あおふどう}という。この頃の絵師に百済河成{くだらのかわなり}がいる。

 書の世界では、唐風の力強い書体がもてはやされた。当時第一の能書家{のうしょか:文字を上手に書く人}に、嵯峨天皇、空海<注3>、橘逸勢{たちばなのはやなり}がおり、三筆{さんぴつ}<注4>と呼ばれた。平安時代初期は、奈良時代から続く中国の所を尊重し、それを習うことを重視した。しかし、この頃から、日本独自の書風が加わる傾向が見られ始めた。

 空海の「風信帖{ふうしんじょう}」は、最澄に宛てた書簡3通を巻物にしたもので、それぞれに書風の違いが見られる。空海は、楷書、行書、草書、隷書{れいしょ}、篆書{てんしょ}の五書体の他に、飛白体{ひはくたい}も書くことが出来た。嵯峨天皇が書いたといわれる「光定戒牒{こうじょうかいじょう}」<注5>は、最澄の弟子光定が、延暦寺で大乗菩薩戒{だいじょうぼさつかい}を受けた時に下賜されたものである。大小の楷書、行書、草書を自由に使い、欧陽詢{おうようじゅん}と空海の書風の影響が見られる。

 橘逸勢が書いたという確証のあるものはない。「伊都内親王願文{いとないしんのうがんもん}」が彼のものと伝えられるが、江戸時代に藤木敦直{ふじきあつなお}という書家が、嵯峨天皇や空海のものでもない優れたものと鑑定し、現在に伝えられる。これは、伊都内親王が母の遺言で山科寺{やましなでら:興福寺の旧称}へ寄進したもので、縦長の右上がりの文字を大小混ぜ合わせて、自由奔放な行書で書かれ、用筆もところどころにゆらした揺れが見られる。


 

藤原氏の台頭 (648)

○藤原氏の台頭
 藤原冬嗣…嵯峨天皇の信任篤い、皇室と姻戚関係

 藤原良房…承和の変、応天門の変→橘、紀、伴氏の没落
      摂政就任(清和天皇の時)

 藤原基経…関白就任(光孝天皇の時)
      阿衡の紛議→関白の政治的地位の確立

 藤原時平…宇多天皇の親政(寛平の治)→菅原道真の登用
      醍醐天皇の親政(延喜の治)→道真、大宰府へ左遷(昌泰の変)

 藤原実頼…安和の変→源高明らを左遷。
           藤原北家の地位が不動に。摂関がほぼ常置。その地位
           に忠平の子孫が就く。

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注1> 元は大伴姓。大伴親王(淳和{じゅんな}天皇)と名が一致するため、伴姓を名乗った。
注2> 804年に唐に渡り、帰国後に従五位下{じゅごいのげ}に叙され、840年に但馬権守{たじまのごんのかみ}となる。承和の変で伊豆に流される途中、遠江で病死したという。娘が後を追い、父が亡くなると亡骸を葬り、塚の前に庵を作って冥福を祈り続けた。許しが出ると亡骸を掘り起こし、背負って都に戻ったという。逸勢の書とされる大内裏北面の額には怨霊が住むといわれ、恐れた人々は逸勢に位を追贈し、鎮魂しようとしたという。
注3> 死ぬ直前、弔いに国の費用を使ってはならないと言い残し、棺は山の不毛の地に穴を掘って埋められたといわれる。
注4> 道康{みちやす}親王、後の文徳{もんとく}天皇
注5> 現在の『皇室典範』には、天皇が幼少の場合や病気で公務が執れなくなった時、国会の承認を受けて置くことが出来ると規定されている。最近では、戦前の『皇室典範』の場合だが、大正天皇の病気療養のため、裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就いたことがある。
注6> この事件は「伴大納言絵巻{ばんだいなごんえまき}」に詳しい。
注7> 「阿衡」は位だけで、職掌は伴わないから、一切の政治を行なう必要はないという意見に従ったもの。
注8> 高明と満仲は同姓だが、高明は醍醐天皇の子、満仲は清和天皇の曾孫に当たる。

 藤原北家は、薬子の変で式家との対立を終わらせた。藤原冬嗣{ふゆつぐ}は、嵯峨天皇の厚い信任を得て蔵人頭となり、皇室と姻戚{いんせき}関係を結び、力を伸ばし始めた。

 冬嗣の子良房{よしふさ}は、842年に承和{じょうわ}の変を起こし、伴健岑{とものこわみね}<注1>を隠岐、橘逸勢を伊豆<注2>に流した。これは、健岑、逸勢らが皇太子恒貞{つねさだ}親王を擁立しようと計画し、阿保{あぼ}親王(在原業平{ありわらのなりひら}の父)の密告で失敗した事件である。また、皇室に大きな影響力を持っていた嵯峨上皇<注3>が亡くなって数日後に起こったことから、良房の陰謀という考え方も出来る。事件後、恒貞親王は廃され、良房の妹の子を皇太子<注4>とした。

 良房は、857年に太政大臣、翌年に清和{せいわ}天皇を即位させ、天皇の外祖父として臣下として初の摂政{せっしょう}となった(史料1)。摂政は、天皇の政務を代行する役職で、天皇が幼少時に置かれた<注5>。866年、大納言伴善男{よしお}が左大臣源信{みなもとのまこと}の失脚を狙って、応天門{おうてんもん}に放火した。応天門の変<注6>である。信の無罪は良房が証明し、犯人が善男の息子中庸{なかつね}とされたため、善男が伊豆、共犯者の紀豊城{きのとよき}が阿波、紀夏井{なつい}が土佐に流された。承和の変と応天門の変で、橘、伴、紀氏は没落した。良房は866年、正式に摂政となった。

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 良房の後を継いだのが、養子の基経{もとつね}である。基経は、884年に光孝{こうこう}天皇が即位すると関白{かんぱく}の実を受け、887年に宇多{うだ}天皇が即位すると、正式に関白となった(史料2)。関白は、天皇の後見を務める役職で、成人した天皇に置かれるが、律令の規定にない令外官である。

 基経は関白の詔{みことのり}が出ると、慣例に従って辞退した。その後に出された詔勅{しょうちょく}にあった「阿衡{あこう}」という言葉をめぐり、政務を放棄した<注7>。阿衡の紛議{ふんぎ}(阿衡事件)である。結局、天皇が詔勅の非を認め、詔勅を起草した橘広相{ひろみ}を処分した。これは、藤原氏と外戚関係のない宇多天皇を牽制をするために起こしたといわれ、関白の政治的地位が確立することになった。

 基経の死後、宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真{すがわらのみちざね}を登用して藤原氏を抑え、親政{しんせい}を行なった。寛平{かんぴょう}の治{ち}である。菅原氏は奈良時代以来の学者の家で、道真も文章{もんじょう}博士になっていた。899年に右大臣となるが、学者としては異例の出世だった。これをねたんだ左大臣の藤原時平{ときひら}らは901年、道真が醍醐{だいご}天皇を廃して、女婿{じょせい/むすめむこ}の斉世{ときよ}親王を立てようとしていると上奏{じょうそう}して、大宰権帥{だざいごんのそち}に左遷した(コラム)。昌泰{しょうたい}の変である。

 969年、源高明{たかあきら}が女婿の為平{ためひら}親王を擁立しようとしていると、源満仲{みつなか}が密告した<注8>。安和{あんな}の変である。高明は失脚して九州に流された。この結果、摂政・関白のいずれかが常に置かれ、基経の子孫が就くことになった。



●摂政のはじめ(日本三代実録)

(清和天皇貞観八年八月)十九日辛卯、太政大臣(藤原良房)に勅して天下の政{まつりごと}を摂行{せっこう}せしむ。


●関白のはじめ(日本三代実録)

…太政大臣藤原朝臣、…今日より官庁{つかさ}に坐して就きて万政を領行{とりおこな}ひ、入りては朕が躬{み}を輔{たす}け、出でては百官を総{す}ぶべし。奏すべきの事、下すべきの事、必ず先づ諮り稟{う}けよ。朕将に垂拱{すいきょう:一切を任せるの意}して成を仰がんとす…


注1> 文章の句は『大鏡』より。第5句は、『拾遺和歌集』では「花を忘{わす}るな」となっている。なお、口語訳は次の通り。「(春になって)東の風が吹いたなら、(その風に乗せて、遠く大宰府まで)香りをよこしてくれよ、(遠い京の私の家の庭の)梅の花。(おまえの)主人がいないからといって、春を忘れるな」
注2> 唯一、道真の所領だった桑原には落ちなかったという。そこから、落雷や嫌なことを避けていう時のまじない「くわばら、くわばら」ができたといわれる。天神を学問・芸道の神として、寺子屋などに祀るようになったのは江戸時代になってからである。

菅原道真の左遷とその後

 時の左大臣藤原時平は、菅原道真の才能をねたみ、罪に陥れてやろうと策略し、「道真は国家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言{ざんげん:事実を偽って悪くいうこと}した。そして、901年1月に道真を大宰権帥{だざいごんのそち}に左遷{させん}、筑紫国に流罪とすることとした。長年住み慣れた自宅の庭に植えられた梅が咲いているのを見て、「東風{こち}吹かば 匂{にほ}ひおこせよ 梅の花 主{あるじ}なしとて 春な忘{わす}れそ」<注1>と詠み、旅立った。その梅は菅原邸から大宰府の庭まで飛んでいって根付いたという「大宰府の飛梅{とびうめ}」の伝説がある。

 道真は、左遷されて2年後に亡くなった。時平は道真の怨霊におびえながら病死し、醍醐天皇の皇太子も急死した。930年、内裏{だいり}の清涼殿{せいりょうでん}に落雷し、大納言藤原清貫{きよつら}が即死、ショックで寝込んだ醍醐天皇も3ヶ月後に亡くなった。怨霊を恐れた人々は、北野神社(現在の北野天満宮)を造営して道真を祀った。雨乞いの関係で、民衆が信じていた雷神の信仰と落雷騒ぎが道真の霊と結びつき、道真を火雷天神と恐れるようになった<注2>。


 

延喜・天暦の治 (649)

○延喜・天暦の治
 延喜の治…醍醐天皇の親政
   延喜の荘園整理令、最後の班田(902)
   三善清行の意見封事十二か条
   『日本三代実録』、『古今和歌集』、『延喜格式』の完成

 天暦の治…村上天皇の親政
   『後撰和歌集』撰集、乾元大宝の鋳造

 

注1> 天皇の命令で皇室領として開墾・耕作された田地
注2> 文人官僚として菅原道真の後輩に当たる。官吏登用試験で一度不合格となったが、この時の試験官が道真だった。以後、事あるごとに対立したが、道真が左遷された後、出世を遂げた。
注3> 神人・僧の統制強化、ぜいたくの禁止、大帳登録数に見合う口分田の班給、大学学生の食料財源の設定、五節の舞姫の減員、判事の増員、季禄支給の平等化、下級官人・百姓による国司告訴の却下、課役免除者の定員設定、名目的な検非違使の補任の停止、諸国の悪僧・舎人の乱暴停止、播磨国魚住泊の修復の12箇条。

 藤原北家が他氏排斥を行なっていた10世紀前半、醍醐{だいご}天皇と村上{むらかみ}天皇が、摂政・関白を置かず、自ら政務を行なった。この時代を延喜{えんぎ}・天暦{てんりゃく}の治{ち}と呼ぶが、両天皇の間に即位した朱雀{すざく}天皇の時には、藤原忠平{ただひら}が摂政・関白を務めていた。

 醍醐天皇は、昌泰の変で菅原道真を左遷した後、自ら政務を行なった。延喜の治である。902年、最初の荘園整理令となる延喜の荘園整理令を出した(史料)。これは、勅旨田{ちょくしでん}<注1>の廃止、院宮王臣家{いんぐうおうしんけ}が山川藪沢{さんせんそうたく}を占有して荘園を新設することを禁止したものである。この結果、初期荘園は衰退したが、正式に認可を受けて国司の統治を妨げない荘園は認めたので不徹底だった。また、賃租農民の確保と班田制の維持を難しくし、902年を最後に班田は行なわれなくなった。

 914年、三善清行{みよしのきよゆき}<注2>が政治の現状を分析して12か条の対策をまとめた。意見封事{いけんふうじ}十二箇条である。内容<注3>は、中央・地方政治の改革、経費節減である。意見封事とは、律令官人が天皇の命で封を閉じて提出した政治上の意見書で、最初に天皇が見た後に公卿が議論し、採用するものは理由を記して、再び天皇の元に届けられた。

 また、901年に最後の六国史となる『日本三代実録』、905年に最初の勅撰和歌集となる『古今和歌集』が作られた。そして、最後の格式となる『延喜格』『延喜式』が907年、927年に完成した。

 朱雀天皇の後を受けて即位した村上天皇も、自ら政務を行なった。天暦の治である。951年に『後撰{ごせん}和歌集』が作られ、958年に最後の皇朝十二銭となる乾元大宝{けんげんたいほう}が鋳造された。

 延喜・天暦の治は、後世から理想の時代とされた。しかし、政治の実質的な再建は容易でないことをさらけ出した。都や地方の治安も乱れ、律令に基づく政治も行なわれなくなった。


●延喜の荘園整理令(類聚三代格)

 応{まさ}に勅旨開田{かいでん}并{なら}びに諸院諸宮{しょいんしょぐう:皇族}及び五位以上、百姓{ひゃくせい}の田地舎宅{しゃたく}を買い取り閑地荒田{かんちこうでん}を占請{せんせい}するを停止{ちょうじ}すべき事

…宜しく当代以後、勅旨開田は皆悉く停止して民をして負作{ふさく:割りあてて耕作する}せしめ、其の寺社・百姓の田地は、各公験{くげん:土地の所有権を証明する文書}に任せて本主に還{かえ}し与ふべし。…但し、元来相伝して庄家と為し、券契{けんけい:荘園設置の認可文書}分明にして国務に妨げなきは、此の限りに在らず。

 

摂関政治の誕生 (650)

○摂関政治の誕生
 摂政・関白(氏長者を兼ねる)を出す家=摂関家
   摂関の地位をめぐって争う…兼通・兼家兄弟、道長・伊周の伯父と甥

 

注1> 実頼の甥、実頼の弟師輔{もろすけ}の子、兼通・兼家の兄
注2> 実頼の子、兼通・兼家の従兄
注3> 冷泉{れいぜい}天皇の子
注4> 兼家の娘詮子{せんし}の子
注5> 兼家の娘超子{ちょうし}の子、後の三条{さんじょう}天皇、天皇より年長の皇太子は初めて
注6> 伊周は道隆の子、道長は道隆の弟。伊周の妹は一条天皇の中宮定子{ていし}、道長の姉は一条天皇の母詮子。『大鏡』には、道長と伊周の弓を射る競争が記されている。道長は「この道長の家から、天皇・妃がおたちになるならば、この矢当たれ」と言って放ったところ、的の真ん中に当たったが、伊周はこれに気後れして手が震え、矢は見当違いの方角に行ってしまった。この話は弓の名手であり実行力のある豪胆な道長像を伝えてくれている。
注7> 中宮は皇后の別名。
注8> 血族結婚の結果、眼病を患っていた。目が悪く、時々見えなくなるくらいだったという。

 安和の変以降、摂政か関白が常に置かれ、太政官の上に立って政治を行なっていた。摂関政治である。そして、摂政・関白を出す家を摂関家といい、摂政・関白となった者が、氏長者{うじのちょうじゃ}を兼ねた。氏長者は、藤原氏の頂点に立つ者で、氏寺{うじでら}の興福寺、大学別曹{べっそう}の勧学院{かんがくいん}の管理や一族の官位推挙に当たった。しかし、この地位をめぐって、一族間で争いが繰り広げられた。特に、兼通{かねみち}・兼家{かねいえ}兄弟、道長{みちなが}・伊周{これちか}の伯父と甥の争いは有名である。伊周が罪を得て左遷されると、道長が左大臣となり、争いは終わった。

 970年に藤原実頼{さねより}が亡くなり、伊尹{これただ/これまさ}<注1>が関白となった。2年後に伊尹が亡くなると兼通が関白となった。いつも、弟の兼家の位が上だったので、兼通は妹の安子{あんし}に「摂政・関白は兄弟の順に選ぶように」と書かれた手紙を円融{えんゆう}天皇に見せ、天皇も母(安子)の言いつけで兼通を関白に任命した。974年に娘のこう子{こうし}を円融天皇の皇后とし、頼忠{よりただ}<注2>を相談相手とし、兼家を無視した。

 兼通の病気が重くなり、外で兼家の牛車{ぎっしゃ}の音がしたので、仲違{なかたが}いをしていても見舞いに来てくれたと喜び、弟に関白を譲ろうと考えたが、牛車は通り過ぎて御所に向かった。兼通は重態の床を飛び起きて参内し、最後の除目{じもく:官吏任命式}を行ない、頼忠を関白、兼家を右近衛大将{うこのえのだいしょう}(従三位)から治部卿{じぶのきょう}(正四位下)とし、それから1ヶ月も経たないうちにこの世を去った。

 円融天皇は984年、花山{かざん}天皇<注3>に位を譲った。関白の頼忠は、兼家を右大臣に推し、懐仁{やすひと}親王を皇太子とし、兼家は次期天皇の外祖父の地位を手に入れた。花山天皇が熱愛する女性が亡くなって出家の意志を持つと、一夜のうちに譲位させて、懐仁親王を即位させた。一条{いちじょう}天皇<注4>である。そして、兼家が摂政となり、居貞{いやさだ}親王<注5>を皇太子として、天皇、皇太子を外孫として、この後の摂関の地位を兼家の子孫で独占する基礎を築いた。

 995年4月に関白の道隆が糖尿病で、後を継いだ道兼も宣旨{せんじ}を受けた8日後、流行していた赤斑瘡{あかもがさ:はしか}で亡くなった(七日関白)。道兼の後継者は、伊周と道長<注6>の2人となった。結局、一条天皇は母の詮子の推薦で道長を後継に選び、道長は内覧{ないらん}となった。翌年、伊周は花山法皇が自分が通う女性の所に通い始めたと誤解し、弟の隆家{たかいえ}と相談して、隆家は夜帰宅途中の法皇を馬上から射て、袖を居通した。さらに、詮子を呪って病を重くしたと噂が立ち、伊周を大宰権帥{だざいごんのそち}、隆家を出雲権守{いずもごんのかみ}に左遷し、道長は左大臣となった。

 999年、道長は娘の彰子{しょうし}を一条天皇の女御{にょうご}とし、翌年に中宮{ちゅうぐう}の定子を無理に皇后と呼ばせ、彰子を中宮にあげた<注7>。また、娘が生んだ親王を即位させる執念は物凄く、三条天皇<注8>を在位5年で譲位に追い込み、後一条天皇を即位させ、自ら摂政となった。


 

摂関政治の全盛 (651)

○摂関政治の全盛…道長、頼通の時

 当時の貴族社会
  結婚後…母方の縁が非常に重い

  摂関家…天皇の最も身近な外戚、天皇の権威を利用、官吏任免権の掌握

 政治の運営…天皇が太政官を通じて、中央・地方の役人を指揮
       命令・伝達は太政官符や宣旨で伝達
       後に先例・儀礼を重んじるようになる=年中行事の発達
       政治運営の形式化

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注1> 藤原実資{さねすけ}の日記。『小野宮右大臣日記』を略したもの。
注2> 糖尿病、背中の腫{は}れ物、下痢、糖尿病からくる眼病(人が近づいても分からないほど)、胸痛(大声をあげて苦しむほど)など
注3> この頃の結婚は招婿婚{しょうせいこん}が普通である。

 摂関政治の全盛は、11世紀前半の道長、頼通{よりみち}父子の頃である。道長は、4人の娘を皇后、皇太子妃として入内{じゅだい}させ、30年間にわたって朝廷で大きな権力を振るった。後一条{ごいちじょう}、後朱雀{ごすざく}、後冷泉{ごれいぜい}の3天皇は道長の外孫で、頼通がこの3天皇を約50年にわたり摂政・関白を務めた。道長は、御堂{みどう:法成寺{ほうじょうじ}のこと}関白といわれるが、関白には就いていない。頼通は、宇治{うじ:宇治平等院のこと}関白といわれる。

 『小右記{しょうゆうき}』<注1>には、道長の栄華を批判的に伝えている(史料1)。「此世をば、我世とぞ思ふ、望月の、かけたることも、無しと思へば」と詠んだ道長も、晩年は病気<注2>で苦しんだ(史料2)。そこで、法成寺を建立して仏にすがったという。この寺の金堂に阿弥陀仏を9体安置したと『栄華{えいが}物語』には記されているが、1058年に全焼した。

 当時の貴族社会では、結婚後<注3>は妻方の両親と同居するか、新居を構えた。また、母方の縁が非常に重く、夫は妻の父の庇護{ひご}を受け、子どもは母方の手で養育された。邸宅などの財産は娘に譲られることが多かった。そこで、天皇を後見する資格として、天皇の外戚(母方の親戚)であることが重視されたのである。

 そして、最も身近な外戚である摂政・関白は、天皇の権威を利用して、役人の任免にも深く関わるようになった。そのため、中下級の貴族が摂関家に従属し、上流貴族の権勢を強大なものとなった。さらに、昇進の順序や限度は、家柄や外戚でほぼ決まった。その中で、中級官人などは、律令体制下で経済的に有利とされた国司になることを求め、私領の獲得に努めた。

 政治は、天皇が太政官を通じて、中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配していた。主政務は太政官で公卿の会議で審議されたが、重要政務は内裏{だいり}の近衛{このえ}の陣で開かれる会議(陣定{じんのさだめ})で、公卿各自の意見が求められた。そして、決定事項は天皇(または摂政)が決裁し、太政官符{だじょうかんぷ}や宣旨で命令が伝達された。

 しかし、次第に先例や儀礼を重んじる形式的なものとなり、宮廷では年中行事{ねんじゅうぎょうじ}が発達した。そのため、政治の運営は形式化し、積極的な施策はほとんど見られなくなり、地方支配は国司に委ねて、国政に励む責任感に欠けていた。



●藤原道長の栄華(小右記、寛仁2年10月16日条)

…今日女御藤原威子{いし}を以て、皇后に立つるの日なり。…太閤{たいこう:道長}、下官を招き呼びて云く、「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」者{てえり}。答へて云く、「何{いづくん}ぞ和し奉らざらんや」。又云く、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構{しゅっこう:前から作っていたもの}に非ず」者。「此世をば、我世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば」。余申して云く、「御歌優美なり、酬答{しゅうとう:かえしの歌をよむ}に方{すべ}無し。満座ただ此の歌を誦{じゅ}すべし…」と。



●道長の栄華(栄花物語)

 この御悩(道長の病気)は、寛仁三年三月十七日より悩ませ給{たまい}て、同廿一日に出家せさせ給へれば、日長におぼさるるままに、さるべき僧達・殿ばらなどゝ御物語せさせ給て、御心地こよなくおはします。今はただ「いつしかこの東に御堂建てて、ささしう住むわざせん。…かくて世を背かせ給へれども、御急ぎは「浦吹く風」にや、御心地今は例ざまになり果てさせ給ぬれば、御堂の事おぼし急がせ給。摂政殿国国までさるべき公事{おおやけごと}をばさるものにて、先づこの御堂の事を先に仕{つか}ふまつるべき仰言{おおせごと}給ひ、…日々に多くの人々参りまかで立ち込む。

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注4> 武家は室町時代初期、民間は江戸時代にほぼ固められた。

 年中行事は、季節に従って特定の日に行なうことが慣習となった行事で、公家、武家、民間それぞれにあり<注4>、現在にも受け継がれているものもある。稲作儀礼も年中行事だが、暦が伝わり、中央での権力が安定すると、次第に宮廷での年中行事が整えられた。

 宮廷の年中行事は、嵯峨天皇の時に整備された。嵯峨天皇は、『内裏式{だいりしき}』『内裏儀式』を制定して、これまでの宮中行事を正式なものとして整備するとともに、新たな行事を制定した。そして、宇多天皇は、文化が国風化していることを背景に、行事の日本化が考えられ、日本の民間で行なわれていた行事が取り入れられた。

 神事では、1月の四方拝{しほうはい}、4月の賀茂祭{かものまつり}、6月と12月の晦日{みそか}の大祓{おおはらえ}、11月の新嘗祭{にいなめさい}などがある。四方拝は、年の初めに天地四方を拝して年災を祓い豊作を祈る儀式である。賀茂の祭りは、京都の賀茂{かも}神社の例祭で、現在は毎年5月15日に行なわれ、葵{あおい}の葉を装飾用に使うことから葵祭{あおいまつり}ともいう。大祓は、罪や汚れをはらう儀式である。新嘗祭は、稲の収穫を祈り、神に感謝し、来るべき年の豊穣{ほうじょう}を祈願する儀式である。

 仏事では、2月の彼岸会{ひがんえ}、4月の灌仏会{かんぶつえ}などがある。彼岸会は、悲願の7日間に行なう仏教の法会{ほうえ}で、日本独特の行事である。灌仏会は、4月8日に釈迦の降誕{こうたん}を祝して行なう法会である。政務では、1月の叙位{じょい}・除目{じもく}などがある。叙位は五位以上の位階を授ける儀式、除目は諸臣任官の儀式である。

 遊興では7月の七夕{たなばた}が、武芸では5月の競馬{くらべうま}、7月の相撲{すまい}、それ以外に1月の七草粥{ななくさがゆ}、6月の祇園祭{ぎおんまつり}などがある。競馬は、2頭の馬を直線コースの馬場で走らせて勝負を争ったものである。相撲は、天皇が宮中で相撲を観覧する行事である。七草粥(七種粥)は、正月15日に粟{あわ}・稗{ひえ}・黍{きび}・胡麻・小豆などを入れて炊いた粥を食べるもので、小豆粥のことである。


 

国際情勢の変化 (652)

○国際情勢の変化
 遣唐使の停止(894)…菅原道真の建議
    唐の衰退、航海の危険、唐や新羅商人の来航が理由

 日宋関係…唐滅亡(907)→五代十国→宋の統一(960)
      国交は開かず、宋の商人の来航、巡礼目的で渡る僧も

 中国東北部…渤海の滅亡(926)→遼(契丹、916)
 朝鮮半島…新羅の滅亡(936)→高麗(918)の半島統一(935)

                ※遼、高麗とも国交を開かず

 

注1> 東シナ海を横断していたこと、新羅の海賊の動きが活発になっていたことである。
注2> 9世紀になると、新羅商人の活動が顕著となり、814年以降取り締まりの対象となった。高価な舶来品を日本にもたらした。

 894年、菅原道真{すがわらのみちざね}の建議により、遣唐使{けんとうし}が停止された。廃止の理由は、安史の乱以降の唐の衰退や航海の危険<注1>、唐や新羅の商人が博多に来航しており、わざわざ莫大な費用を使って、危険を冒してまで公的な交渉を続ける必要はないと考えていた(史料)。さらに、宇多{うだ}天皇が信任している道真を手放したくなかったことや律令体制の崩壊が平安貴族の国際意識に変化をもたらし、財政的にも派遣を難しくしていたことも挙げられる。

 その唐は907年に滅亡し、唐を中心とした東アジア文化圏は崩壊した。その後、五代十国を経て、960年に宋{そう}が大陸を統一した。宋とは国交を開かなかったが、宋の商人が博多に来航し、日本は工芸品や薬品を輸入し、金や水銀を輸出した。日本人の海外渡航は禁止されたが、僧の渡航は許されなかった。ちょう然{ちょうねん}、寂照{じゃくしょう}、成尋{じょうじん}らが入宋{にっそう}した。

 また、中国東北部では渤海{ぼっかい}が926年に遼{りょう}(契丹{きったん})に、朝鮮半島では新羅{しらぎ}<注2>が925年に高麗{こうらい}に滅ぼされた。ともに国交は開かれなかったが、高麗からは書籍や薬品などが日本に輸入され、11世紀後半には貿易が活発になった。


●遣唐使の廃止(菅家文草{かんけぶんそう})

 諸公卿をして遣唐使の進止{しんし:派遣するか、やめるか}を議定せしめんことを請ふの状

 右、臣某{それがし}、謹んで在唐僧中かん{ちゅうかん}、去年三月商客王訥{おうとつ}等に附して到す所の録記を案ずるに、大唐の凋弊{ちょうへい:衰え}、之を載せること具{つぶさ}なり。…臣等伏して旧記を検するに、度々の使等、或は海を渡りて、命{めい}に堪ざる者有り。或は賊に遭いて遂に身を亡ぼす者有り。唯、末だ唐に至りては、難阻飢寒{なんそきかん:困難な行路・飢えや寒さ}之悲有りしことを見ず。…