パーシバル・ローエルの天竜舟下り---

1.はじめに

Percival Lowell (1855/3/13 - 1916/11/12)
Lowell Observatory より〕


パーシバル・ローエル(1855〜1916)はアメリカ合衆国ボストンに生まれた。

ローエル家は代々にわたって、すぐれた教育者や科学者、詩人などを輩出している名家であり、裕福な家系であった。

彼は小さいころより数学、天文学に秀でていたようである。1876年には、ハーバード大学を卒業し、この頃から東洋の文化に興味を持ちはじめ、1883年、ついに日本に渡って、東京で家を借りて日本語の勉強をはじめることとなった。このころ、ローエルと前後して日本を訪れた外国人には、考古学のエドワード・モース、美術界のアーネスト・フェノロサ、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンなどがいる。


その後ローエルは、一時期、朝鮮、アメリカに渡るが、再度来日し、1889年の5月、「能登=NOTO」の取材のために、能登半島を訪れ、帰路に天竜峡を通って浜松に至っている。この時の模様を「NOTO 能登・人に知られぬ日本の辺境」に著し、宮崎正明先生による名訳によって、私たちにその文学的な才能を披露することとなる。
(宮崎正明氏は、この本で第17回日本翻訳文化賞受賞を受賞している) 

帰国後は、アリゾナ州フラグスタッフにローエル天文台を創設し、火星の研究、観測などを行なって、火星表面の線状模様は高等生物が作り上げた「運河」であるという学説を唱えたことは有名である。

また、1916年には、数学的な手段で海王星の外側に未知

の惑星「X」が存在することを予報するが、悲しいかなこの年の11月12日に、フラグスタッフにて死去する。
61才であった。


 1930年、亡きローエルの意志を継いだローエル天文台の弟子「クライド・トンボー」により、ローエルの予報値にそった位置の近くに、謎の惑星「X」が発見される。ローエルの誕生日の3月13日に、このことが発表され、プルート(冥王星)(日本語訳は文学者 野尻抱影)と命名された。まさにその星の記号は『PとL』とで表わされ、パーシバル・ローエルの頭文字が使われている。


2.ローエルの天竜下り 


ローエルは、能登半島への旅行の帰路に、天竜下りをしていたことは、前述の通りである。


1889年5月9日、ローエルは能登の穴水町を訪れ、その帰路富山県立山を通り、針ノ木峠越えを敢行するのであるが、雪のため越える事ができず、滑川まで下り、汽車を使って長野県へと入ることになる。松本城等、日本の伝統建築物に目をとめながら、塩尻に一泊する。塩尻からは塩尻峠を越えて諏訪に出る。ここでローエルは自分宛の郵便を受け取る為、諏訪の郵便局に寄る。


ローエルが写した写真の中には、現在も下諏訪 諏訪大社秋宮の通りに面して営業されている「桔梗屋」さんの明治の頃の様子が残されている。

明治22年頃の下諏訪「桔梗屋」さん
〔Lowell Observatory Library Catalog and Archivesより〕


ここから飯島までは、馬車にゆられながらたどりついたようである。そして5月16日頃と思われるが、「草の葉の上には、朝露が日光を浴びてきらめき、あたりの空気は清潔に耕された畑の上の香りを、いっぱいに含んでいた。」と記されている朝に、飯島より時又までの舟旅に出発している。


出発地点は飯島の日曽利橋あたりであろうか。3〜4時間したちょうど昼頃、ローエルは、時又に着いている。


「たくましい船頭は、ここで速やかに櫓を操って舟底の平たい舟を一回転させ、間もなく時又という地名の、

小石の多い岸辺に舟を横づけする。時計を見ると、まだ正午を過ぎてからあまり経っていない。ここでは、親切な村人たちが総出で舟の陸上げを手伝ってくれ、その中の幾人かは、我々の前を小走りに歩いて、宿屋まで案内してくれた。」とある。

当時は天竜川の海運が発達していた頃であり、遠く静岡県福田港より石油などが運ばれて来たり、横須賀あたりからも、白砂糖が運びこまれ、時又港は通船貨物で相当の繁忙を極めたという。飯
島からも、舟便での運送が盛んであり、中継、乗り継ぎのため、時又に陸上げされたのである。ローエルは舟下リのもようを次のように書きとめている。

おそらく今の「ホツキ」と呼ばれる飯田市駄科・南原(みなばら)の「鵞流峡(がりゅうきょう)」あたりに差しかかった頃であると思われるが

「流れは一刻も休まず我々を下流へと押し流してゆく。見上げるような絶壁の真下を、今度は右岸、次は左岸と、舟は目にも止まらぬスピードで陣下してゆく,岩角がつぎつぎと眼前に現われ、時にはそれが大きさを増し、そうかと思うと急に小さくなる。」と書かれている。

飯田市時又「鵞流峡(がりゅうきょう)」
付近の激流


 時又に降りたのち、宿屋をさがすのだが、事情に明るい人はおらず、またこの時期春の養蚕のため、蚕の桑の葉をとりに野良へ出てしまったために、やむなく警察に行く。しかし、ローエルの旅券を見た警察官は、日付の切れていることに気がついたのであるが、上司に連終もせず、本来なら身柄を拘束し、東京へ送るところであるが、この警察官はローエルを見のがしている。


当時「日本通運時又発舟所」をしていた現在の丸文カメラ店に当時の船客名簿が保存されていたそうであるが、三十六年の大災害で流失してしまったという話を伺っていたが、1989年、天竜峡の郷土史家 今村真直先生の所に丸文カメラの前身「伊原運槽店」の「外国人姓名留」のコピーがある事が分かり、丹念に調べた結果、つ
いに「ローエル」の文字を発見する事ができた。


当時の外国人として、初の天竜下りをした人は、明治11年11月5日、デンマーク総領事のエドワルド・ハビエルであったそうで、その後、明治19年から22年の間に外国人船は計13回ほど時又港より出航している。

明治期の「太田橋」
〔Lowell Observatory Library Catalog and Archivesより〕


昼の休憩をとったあと、ローエルは一路、満島(今の天竜村平岡の満島)へと向かうべく、再度天竜のしぶきにぬれることになる。
「最後のモヤイ綱の下をくぐると、舟はひとつの峡谷の人口にさしかかった。急な流れが前面に現われ、我々はそれに導かれて、白い水泡の中に岩石があちこちに頭を出しているあたりを進み、舟はなかば空中に飛び上がりながら走る。前方の突き出した岩石が、突如として水路をとざしたかと思うと、二つの断崖が目前に追ってきた。頭上の高い箇所に、片持式橋梁が見事に架けられており、たまたま橋を渡っていた一人の男が、橋の中央あたりで足を止めて、舟の中の我々を眺め下ろした。」とある。


まさに天竜峡へ差し掛かった時の模様であり、この片持式の橋は今の姑射橋の前身、第一代目の橋「太田橋」である。天竜峡に本格的な橋ができたのは、明治9年にできた「太田橋」が最初である。橋名はこの橋を作った中心人物の家号「太田」より用いられたものといわれ、何回か改造修理され、明治38年まで存続した。なお、「姑射橋」の名は書道家の日下部鳴鶴によるものである。


突出する岩棚には

誰かの手になる足場が見られ

微風さえ除けて通る薄暗い岩の凹みは

現在の天竜峡風景

真下に立つ彫像に似た山塊を見下ろす

層をなして重なり合う木々よお前たちは

永遠に沈黙の呪文を唱える修験者なのか

断崖の奥底 渓流の飛沫が飛び交う所

潅木は葉を震わせて怖れおののき

激流は煮えくりかえり

覗くだけでも身の毛がよだつ

此処は底も知れぬ深い地の割れ目

自然の手になる奥津城

荘厳なる自然が見せる妙技の片鱗

優しい藤の花房は葡萄のように垂れ下り

渓流に愛の手を差しのべており

薄紫の花の色は

人の心を夢の国へと誘う

崖の一角にはケモノを狙う

罠が仕掛けてあり

猟師は急いで身を隠したか姿が見えぬ

しかし何時までも心に残るのは

永遠にその処女の純情を

誰からも奪われることなく

谷間に咲きほこる薄紫の藤の花房

「NOTO 人に知られざる日本の辺境 宮崎正明訳 より」


3.穴水町とローエル祭

 石川県鳳至郡(ふげしぐん)穴水町は、能登半島の中ほどにある人口1万4千余人の歴史ある、景観に恵まれた町である。このあたりは能登半島国定公園の中にあり、二百メートルくらいの丘陵地にかこまれ、南東に開けた静かな町である。
今からちょうど百年の昔、パーシバル・ローエルはこの町を訪れ、その豊かな自然と、あたたかな人情にふれ、日本の自然の姿を「NOTO」に描き出している。ローエルがこの地を訪れ、その足を帰路信州に向け、天竜川を下り、天竜峡を経て浜松に向かったのは、1889年の5月のことであった。

穴水町では、「NOTO」の訳本が発行されたのを機に、ローエルが立ち寄ったことを記念する「ローエル祭」が、昭和58年の第1回を皮切りに、現在までずっと続けられている。

昭和58年8月13日、第1回目のローエル祭が行なわれた。同町山村開発センターにて、約250名の参加による式典が行なわれて、ローエルの功績をたたえた。この際、ローエル賛歌なども披露され、各地のローエル研究家や、佐伯恒夫氏の講演も行なわれた。

穴水町随一の眺望ひらけた由比ケ丘には、ローエル顕彰碑がある。
高さ約2メートル、ステンレス製で、銘板には英文と和文でローエルの功績が書かれ、穴水町とアメリカ フラグスタッフの位置を示す地図が描かれている。実はこの碑とまったく同じものがフラグスタッフにも立てられており、こういった文化交流をなかだちとした日米親善が続けられている。

当時からローエル研究家とし、また、町の収入役としてこういった文化行事の推進役を努めてきた元穴水町収入役 坂下たまき(王へんに幾)さんは、
1989年(平成元年)の、ローエル訪町百年目にあたる、第七回ローエル祭に私を招待してくれ、お言葉に甘えて、長野県からローエルの天竜舟下りの確証を持って、参加させていただいた。

■第7回 ローエル祭りにて
左より 元穴水町助役 坂下 たまきさん
元国立科学博物館 村山定男さん 座っているのが私
1人おいて 元金沢工大講師 宮崎正明さん


この記念行事には、多彩なゲストが参加され、私も長野県からの参加ということで、末席を与えられた。

1989年5月9日、来町100年にちなんで、記念植樹や観測会が行なわれた。奇しくもこの年の9日は、冥王星が近地点を通過した日であり、望遠鏡やカメラなどによる確認作業が予定されたが、観測の方は曇りのためできなかったという。

夏の銀河が雄大に流れる穴水の夜空の下で、多くの友人を得る事ができ、また「NOTO」の翻訳をされた宮崎正明先生にもお会いする事ができたのである。

村山定男先生からも、飯田高校に天文ドーム(宮沢芳重氏 寄贈)の竣工した当時の貴重なお話をうかがうことが出来、さらには、この記念イベントにと、東北白河から「チロ望遠鏡」という、当時国内最大の移動式望遠鏡で参加された藤井 旭さんとも親しくお話をすることが出来て、大きな収穫のある体験であった。

4.「外国人姓名留」からの発見

先述のローエルの名前を発見した資料、「外国人姓名留」からのローエル名発見経緯について少しお話をしたい。

時又港跡にある碑文



天竜川を下った外国人で、最も有名な人は、地元飯田ではウォルター・ウェストン(1861-1940)である。
ウェストンは明治21年(1888)に初来日し、日本アルプスや富士山の登頂などで有名な聖職者である。このほかは、明治天皇の崩御の際来日されたイギリス皇太子のコンノートくらいなもので、後はまったくノーマークであった。

平成元年(1989)年、ローエルが能登紀行に出かけた時からちょうど100年目の年、そしてローエルの夢でもあった謎の惑星「X」冥王星が248年に一度の、近日点を通過するというなんとも数奇な年に、「なんとしてもその痕跡を探し出したい」という思いが、日に日に強くなってきた。
そして、何とか手がかりを探したく、飯田市立中央図書館に赴いてみた。
 
天竜川の歴史を知る人は多いが、その中でも群を抜いて博学で精緻な論文を書かれてい

外国人姓名留の表紙

るのが、天竜峡在住の郷土史家「今村 真直」(いまむら まなお)先生である。高校の教師を勇退され、晴耕雨読の生活を送られている。先生の父上であられた、故今村良夫も天竜峡、天竜川の権威で、「天竜峡」という本を著されている。図書館の中でこの本を探し、文章の中でローエルの文字を検索したが、見つからなかった。

又、今村親子の調査資料を基にして書かれた「竜丘村史」(たつおかそんし)には明治14年当時の船客名簿が載っていたが、主な外国人船客名の中にもローエルの名前は見当たらなかったのである。

そんな中、「天竜峡」の中で、面白い記述が見つかった。

天竜川の河川名について、古書・「信濃地名考」に「あめのながれ川とも見ゆ。天の中川、天龍川いずれか是なる。いま天龍川に作る。」とあり、鎌倉時代から江戸期にかけて「天の中川」が詩文の中にも見られたとの記述があった。つまり、その河川名の源は、鎌倉時代からあったものだという。そして、天の中川、天流川、つまり「天の川」(
Galaxy; Milky Way)が転じて天竜川になったものとする一説が載っていたことに、いたく感激を覚えた。

話はそれてしまったが、ローエルの名は発見できなかったが、「天竜峡」の中に「外国人姓名留」という当時の船客名簿が残されているとの記述を見付け、著者の今村真直先生を尋ねることにした。

5月30日、今村先生宅を訪ねた。御自宅は天竜峡の駅の近くで、主要道路から南に奥まったところにある。ニコニコして初対面の若造を迎え入れてくれた。
居間の正面に、中村不折(なかむらふせつ)の扁額が掲げてある。(文面は忘れてしまった。)不折は日本画家菱田春草の飯田中学当時の数学の恩師だった人で、書家、画家など文芸に秀でた人である。ひとしきり、春草の話を続けながら、ローレルの話題を切り出した。

私は、「NOTO」(宮崎正明訳)を持って行き、その中での天流舟下りの部分を指し示しながら、ローエルという人物について、簡単に説明を続けた。
最初は、ただの外国人の調査のようなものだと思われていた今村先生も、私が、ローエルの生い立ち、天竜川を下った明治22年5月、そしてローエルの天文学での功績、日本・東洋文化のアメリカでの紹介(後で、ローエルとハーン(小泉八雲)との係わりもわかり、さらに興味を示してくれた)など話を続けてゆくうちに、「これはすごい人が天竜川を下っている。しかも、ウエストン以前のことだから、なおさら素晴らしい。」といたって本気になってくれた。

そして、明治期の通舟記録として残されている、当時舟で天竜川を下った際の外国人旅

第3391号 にあるベルシヴハル、ローヱルの文字

券の写しを記録してある、伊原運漕店(現 丸文カメラ)保存「外国人姓名留」のコピーを、今村先生から見せてもらい、その中から、二人でローエルの文字を探すことになった。

そして、その中から、ついに「ベルシヴハル、ローヱル氏」の名を検出することが出来た。そしてその次の旅券写しに「シーアール、アガッシーズ氏」の名を見つけることも出来たのである。

ただ残念なのは、記録された日時が明治22年5月「NOTO」にあった日付ではなく、その後の御岳登山の帰りと見られる、明治24年7月22日であった。

実はこの「外国人姓名留」の記録開始は、明治22年8月ヨリとなっており、それ以前のものは見当たらないという。

(続く)