火星大接近!
――――真夏の夜の正夢――――
天文屋 奥村茂実
今年は年初来からSARS(サーズ)新型肺炎が、中国、東南アジア、カナダをはじめ、多くの国で猛威を振るっているが、日本とて他人事ではなく、政府や多くの医療機関で、その対策に追われている。本当に、早く収束してほしいものだ。
さて、ここではSARSならぬMARS(マーズ)「火星」についてお話をしたい。
今年の夏は、火星が地球に大接近する。それも、並大抵の接近ではなく、有史以来の「超大接近」に値するものだ。
夏の蒸し暑い夜、南の空でひときわ明るく輝く「赤い惑星」に、しばし浮世を忘れ、宇宙へのロマンで、ひとときの涼風を感じていただければと思う。
火星は、私たち地球と同じ太陽を中心とした星のグループ「太陽系」9人衆の一員である。
太陽から数えて4番目、第三惑星地球のすぐ外側の軌道(天体の通り道)を回っていて、その直径は、地球の半分ほどの惑星である。火星には、1965年の「マリナー4号」をはじめ、アメリカの「バイキング」着陸船を含む、いくつかの探査機が着陸し、その表面の土壌を分析した結果、かつて言われたような、タコのような火星人はおろか、微生物などを含めた生物の痕跡は全く無いことが観測された。しかし最近になって、1996年11月8日、アメリカが打ち上げ、1999年3月から現在まで、火星を周回しながら表面の写真観測を行っている「マーズ・グローバル・サーベイヤー」から送られてきた写真には、まるで水の流れた様な地形、あるいは、水によって浸食された侵食谷のような表面地形が数多く観測されている。もし、侵食の原因が水によるものであるならば、過去の火星において、大きな川や大湖の存在が考えられ、その時点に於いて、わずかな生物が存在していた可能性も考えられるが、これは今から約30億年前と想像され、現在においては、微生物のようなものでさえも、生き長らえているという推測は甚だ難しいとされている。
火星の表面は赤茶けた土でおおわれ、無数のクレーターや、高さ24、000mもの山があり、その地形は起伏に富んでいる。その表面の色のため、地球から見ると赤い星に見え、ギリシャの時代には、その色が「血」を連想するところから、戦いの神様、軍神「アーレス」の名が付されたのである。毎回、火星が地球に大接近するときの天空上の位置は、夏の代表的な星座「さそり座」付近になる。その主星の赤い恒星「アンタレス」の語源は、アンチ・アーレス、つまり、「火星に対抗する」を意味するギリシャ語からきたもので、今回の大接近でも、火星の近くに「アンタレス」が見られるはずで、互いに赤さを競うその輝きから、語源を想像してみるのも、楽しいことであろう。
火星には、地球のような濃い大気はなく、二酸化炭素を主成分とする希薄な大気が存在し、地球でいえば、高度30kmの成層圏のような大気圧である。そんな薄い大気でも、火星が春の時期になると、火星半分を覆い尽くすような大規模な砂嵐が起こることがある。この大黄雲は、地球上から、私たちの望遠鏡でも観測することができた。
火星の特徴的な模様に、南極、北極に出現する「極冠」と呼ばれる、白い雪のような模様がある。これは、季節によって、大きくなったり消失したりするので、古くから注目され、その後、探査機からの観測により、極冠はドライアイスか氷ではないかと言われている。もし、この氷が溶けて流れ出せば、水分によって生物が発生するのではとの想像もつくが、真空に近い火星の世界では、水分は一瞬にしてガス化してしまうと考えられ、これははかない想像に過ぎないことが分かる。
この他に、19世紀初頭「火星に運河があり、それを作ることのできる高等な生物がいる」という物議をかもす原因となった特徴的な表面模様がある。表面に不規則に見られる濃緑色の模様で、当時の観測者は、その模様の微細な構造が、絶えず変化していることに着目した。これは今では、単なる地形上のいたずらだということが判明しているが、当時としては、観測した科学者も、マスコミも、本気でこれを信じ、一時、「火星人来襲」などと世の中が騒然となったことがあった。
実は、この説を最初に唱えた「パーシバル・ローエル」という天文学者が天竜川を下り、時又で休息をとり、本邦随一の佳境、「天竜峡」に感動して、一篇の叙事詩を残したことを知る人は少ないだろう。頃は明治22年、1889年の春。当時の彼は、日本研究家として「能登半島」までの旅を敢行、帰路は天竜川を下り、東海道線に至るという旅路を巡った。この後1893年、彼は日本を離れ、アリゾナのフラグスタッフという小さな町の自前の天文台で火星の観測と研究を進め、一躍、当時の天文界のトップに昇りつめた有名な天文学者である。しかし、かの「パーシバル・ローエル」さえも、今回のような大接近にはついに巡りあうことはできなかった。
今回の「超大接近」は79年ぶりのもので、地球との距離5576万km、1924年以来(5578万km)の近距離となる。今後は2208年8月24日(5577万km)、あるいは2287年8月29日(5569万km)まで「超大接近」はなく、まさに世紀の大接近と言えよう。
ご存知のように、火星の太陽からの距離は、地球のそれの約1.5倍。平均距離はおおよそ2億2800万kmである。地球の太陽からの平均距離は、おおよそ1億5000万kmであるので、タイミング良く接近すれば、その差7800万kmになる。
ところが、地球も火星も、その軌道が太陽を中心として同心円でなく、わずかな楕円であるため、もっと接近したり、場合によっては、もう少し離れたりする場面が出てくるのである。そして今回は、前述のような最も良い条件のもとに、このような大接近になったといえる。
地球の中心と火星の中心がもっとも近づく最接近の瞬間は、日本時間の8月27日、18時51分。夕刻のもっとも見やすい時刻で、多くの方の視線が注がれることであろう。
8月中旬になると、火星は、夕刻の東の低空に見られるようになり、最接近をはさんだ前後一ヶ月くらいは、観望の好機といえる。
是非この機会に、真夏の天文現象をごらんいただき、生きた星の輝きに触れていただきたい。望遠鏡があればなお一層の楽しみが得られよう。100倍ほどの倍率であればその表面の濃緑色の模様が見られ、白く小さな南極冠も見られそうだ。
ハレー彗星はその周期76年。火星の大接近も同じように79年。ちょうど人間の一生とシンクロするような周期に、運命のめぐり合わせを感じる方もいるかもしれない。軍神「マース」の怒りに触れぬよう、日々の苦楽を星に願う人もいる。
日本の火星探査機「のぞみ」が火星に到達し、新たなニュースが地球に届く日も近い。
真夏の夜に、ルビーの如き光輝を放つ「赤い星」の光の中に、人間の英知と技術の結晶と、そして、忘れがたい思い出も詰まっている。
〔2003年6月 南信州新聞 投稿記事〕
天文屋 奥村茂実
きょうは、まさに梅雨本番の、蒸し暑い一日だった。
ここ半月ほど、まともな星が見られず、余った夜の時間は本に親しむ。夕食後の寸暇、「文書歩道」を読みながら、湿った夜気の静寂の濃さを、半分薄めるような音に耳をとられた。
我が家の周辺30m以内には人家が無い。それでももし騒音計で測定すれば40dBはあろうかと思えるような、雑多な音が混じりあい、へし合いして、耳に届く。
下の階で父の見ているナイターの、ダブルプレーの喚声。
遠くで鳴く、消しゴムで消されそうな蛙の声。しかも、一声ではなく、幾重にも重なって、三部合唱のような。一瞬、声がやむ。・・・・一斉に声がやむのは、リーダー格の蛙が、タクトを振っているのだろうか。
遠くの県道を走る車の通過音。多分乗用車だろう。今頃、仕事の帰りだろうか。
遠くで音楽が聞こえる。かすかなメロディーが、涼風をさらに振動させているようだ。いつだったか。そうだ!、日食観測で訪れたインドネシア「アンバルクモホテル」の近くでも、こんなふうに湿った空気の中、遠くで打楽器の演奏、「ガムラン」が鳴っていた。
どこかの家で、子供がお母さんを呼んでいる。「おかあさん」「・・・・」、「おかあさん!」「・・・・」、「おかあさんっ!!」、「なんな!、うるさい!」。なんなうるさいはないだろう。子供にうるさいことを言う前に、聞いていなかった自分をしかれ!!。と思いながら、また、「文章歩道」に目をやった。
脇では、子供が宿題の真っ最中。消しゴムの音、鉛筆の擦過音、鼻をすする音。そして、
答えあわせの丸を書く音。一時の安堵感を味わいながら、また、「文章歩道」に目を置いた。
ほっとして、何気ない時間が過ぎた。平和と言うものはこういうものなのかもしれない。
この音が、空襲警報だったり、救急車の音だったり、また、ミサイルの爆発音だったりする国が、現にあるのだから。
1945年8月6日の朝ぼらけ、薄墨で描かれた安芸の山並みの上に「明けの明星」が清冽な光を放ち、いつもと変わらぬ涼やかな朝が訪れようとしていた。
8月12日の極大にむけ、ペルセウス座流星群はその数を増し、昨夜は月の影響のない空で、なおかつ灯火管制のもと、多くの流れ星が静かに流れていた。
やがて夏の太陽が広島の空に輝き、人々は今日の一日を始めようとした矢先、広島県産業奨励館(今の原爆ドーム)の上空600mで原子爆弾が炸裂(さくれつ)した。青空が灼熱の光に覆われ、一瞬にして約14万人の、尊い、幼い、優しい、温かい命が失われた。
その後今日に至るまで、原爆症で約24万人の方が、愁嘆(しゅうたん)の思いでこの世を去っている。
いかなる理由があるにせよ、一般の市民をも巻き込んだ大量殺戮(さつりく)は、人類の歴史の中でもっとも非難される蛮行である。
広島型原爆の原理は「核分裂」によるものだが、9年後の1954年3月1日未明、焼津のマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」は太平洋ビキニ環礁で、「核融合」を原理としたアメリカの水爆実験「ブラボー」(広島型原爆の1000倍の威力)の"死の灰"を浴びて被災し、23人の乗組員全員が急性放射能症にかかった。
無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)は「原爆被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残してなくなった。
夜空に宝石のごとく輝く星は、「核融合」で輝いている。
しかし、人類の作り出したビッグサイエンスは、多くの犠牲を払い、平和を壊し、悲しみと憎しみを記憶にとどめることでしか輝けないことが悲しい。
喬木村では、8月6日(土)、毎年恒例となった「平和のつどい」が、小中学生、村民の参加のもと、喬木中学校の体育館で行われた。戦争体験者からの悲惨な体験談や、当時の「赤紙」などの展示もあり、戦争を知らない世代の私たちにとって、あらためて平和の大切さを実感する時を過ごすことが出来た。
戦争の悲惨さ、平和の尊さを考える日として、毎年「ひと時の時間」が過ごせること、そして、たとえ小さな村でも、平和に寄せる思いはそれに比例しない大きなものであることに、一村民として誇りを感じる。
今年は被爆から60年目の年。その間、時は流れ天は巡りて、人々の上に冷然と星は輝いている。広島のあの時の朝、明けの明星として輝いていた金星は、この夏の夕方、宵の明星として西の空に輝いている。その輝きは当時と全く変わらず色あせていない。私たちの当時の記憶も、熱い平和への思いも、この星の輝きのように、永遠に薄れることのないものであってほしいと願う。
(南信州新聞 2005年8月10日号掲載)