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ドヴォルザーク:交響曲第7番二短調

シューマン:交響曲第4番二短調

クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団(DECCA)

 

この2曲は、今回山形に帰郷するに際して、そのときの気分でカップリングして作ったMDの中身です。作ってみて気付いたんですが、両方とも二短調の曲ですネ。

KDMはこの2曲かなり好きです。なぜかというと、ドホナーニ&クリーヴランド管の超絶的な名演奏がCDになってるからです。もしこの2曲について、「あんまりいい曲だとは思わないんですのわたくしヲホホ」という方がいらしたら是非ドホナーニ盤を聴いてみることをお奨めしまくります。

くっきり出てくるホルン、ビシッときまるティンパニ、常に曲のパースペクティブを支える木管奏者たち、透明感を保ち続ける弦楽の上手さ・・・。聴く度に仰天してます。クリーヴランド管はオケ全体として、ゲロうまオケという感じがします。ゲロうまオケなんて書くとなんか安易ですけど、演奏者のモチベーションや集中力の維持、指揮者(とくに音楽監督)の統率力などにはとんでもない苦労があるでしょうね。

ゲロうまであることにKDMは一番精神力みたいなものを感じます。

 

何度も言ってますけど、基本的にKDMは音楽について精神性みたいなものをさっぱり考慮しない人です。考慮することがあるとしたら、自分で演奏に参加する際のコンセントレーションと積極性を維持しコントロールしようとするときだけです。たとえばそういうコンセントレーションとかなんとかを誰かに説明しようしたときは、「精神」としか形容しようがないかもしれません。しかし、精神という言葉は曖昧です。何かを表現しているようでその実何も明確に表せない言葉です。精神という思考のタームは、現状認識や意志伝達を阻害することがあります。

蓋し、聴くことや演奏活動のような具体的な「行為」としての音楽に精神と呼ばれるものが関係することはあっても、音楽そのものと精神性云々は無関係なのではないでしょうか。音楽は精神を表現するから普遍的なのではなく、精神とは無関係であるからこそ普遍的なものなのではないかと思うのです。だって物理的な振動なんだもんね。

 

更に加えて、とくに日本のクラシックヲタクの間で流通する「精神性」を体現する演奏家にはある種の傾向があります。多かれ少なかれ独・墺系の音楽を得意としていること、正確さよりもデフォルメを好むこと、バランスをとることより崩すことを好むこと、などが挙げられるでしょう。KDMはそういう傾向と精神が関連して扱われることに対してNOを言いたいがために精神性を考慮し、語ることを否定したくもなるわけです。そんじゃ現代音楽に情熱を燃やし、正確に演奏することに極度の精神力を発揮し、綺麗に聞こえるバランスを維持するために集中力を高めている音楽家には精神がないと言えますかいな。

結局「精神」という言葉はなにかを考えたり表現したりするターム、条件としては曖昧に過ぎるんですね。なにが精神的で、なにが非精神的なのか、まったくわからんのですわ。精神分析なんてものをちょっとかじればわかりますけど、精神って「わけわからんもの」という大前提のうえでそれをどのように捉えていくかみたいなことをウジウジやってるわけで、いろんな理屈つけて分析することは出来てもその答えをもとに現実に対処するわけにはいかなかったりするんです。だいたい明確な答えが出るんだったらアダルトチルドレンも少年少女の犯罪も児童虐待も無くすことが出来るはずなのに、そうはならない。なぜならすべてのケースにおいてそれぞれ個別の理由があって、しかも現実的な問題(犯罪とかね)にならない限りは分析の対象にはならないわけですからね。

 

なんの話でしたっけ・・・。

まあドホナーニは素晴らしいってこと。かな

 

・・・・それでいいのか?(^^;)

(2001.8.26)

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