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チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調
小澤征爾 指揮 ボストン交響楽団(ERATO)
正直なところ、世間の名盤談義つーのには限界を感じています。
結局、誰が褒めようと誰がけなそうと、自分が「いいな〜」と思わない限り意味がないという単純なことを突きつけられると沈黙するしかないわけで、その前提に立った上でなければ名盤談義とか演奏について意見交換したりはできないわけです。しかしその大前提を尊重しつつ充実した対話を重ねても自分本位なところは変わらなくて、むしろ相互にエゴとか欲望を熟成し合ってるみたいな奇妙な状況にもなったりします。
一般的には対話の結果として自分の幅みたいなもんが増えることを以って成果とみなすという態度が誠実だと思いますが、あくまでも自分本位であるという状況の根本が崩れるわけではないという点はいかんともしがたい。
むしろKDMはそこから聴き手としての個性を発揮していかなければならないと思います。趣味や嗜好というレベルの話ではなく、脳みそとか精神とか心理とかそういうレベルの議論まで含めて、聴き手としての個性というのは、いくら多くの聴衆が集まっていても、いくら多くのリスナーが同じソフトを購入していたとしても、それぞれ厳然とした断絶があります。
KDMがクラシックオタク的な収集癖や聴き比べみたいなところから徐々に離れたのは、そういう自分本位な状況の中で、いわゆる「クラシック」の中での「自分」の境界が曖昧になっていったからです。クラシックに関する情報が増えれば増えるほどKDMという個人の感覚が麻痺していく感じがしたんです。
それぞれが自分本位な状況にあるはずの「聴く主体」が、曖昧になっていく感覚というのは、ジャズファンやロックファンも味わうことがあるのでしょうか?ちょっとよくわかりませんが、クラシックの場合の「名演」とか「名盤」に関するジャーナリズムとその影響下にありつつ自己批判能力を欠いたオタクたちにズルズルと、柔らかく絡みとられていく感覚はとても居心地の悪いものです。
KDMはそこから、どうにかして脱却できないかと考えています。しかも、混戦状態を中央突破するとか、スルーパスを通して本質へのシュートを決めるかのように決定的な時点を創出できはしまいか、と画策しているのです。
クラシック音楽に関する、従来の意味での「批評」は完全に屍です。
批評と呼ばれるものが、本来「価値」を創造していく行為であるとの前提に立ち、その意味で「批評」を語るとすれば、重要なファクターとなるのが「反復」です。例えば文学は反復します。時代背景やコンテクストを入れ替えながら反復されます。そのときの文芸批評というのは、その時代の趨勢と反復する文学作品との緊張関係から、価値を生み出していく知的な活動だといえるでしょう。
では、クラシック音楽の批評はどうか?音楽の反復についてのコンテンツは以前にも書きましたが、批評の反復ということも考えてみてもいいかもしれません。小林秀雄とか柄谷行人とか諸々の文学批評は、それこそ時代を超えて、それぞれのコンテクストで参照される質を持っています。それは価値を生み出すという活動が批評家と対象との緊張関係にあるということをよく体現しているからでしょう。
ほとんどのクラシック音楽批評がそのような緊張関係を回避して、「精神性」や「正統性」、巨匠神話のようなものに解体して、その範疇の言葉を組み合わせて回収してしまっていただけでした。基本的には物理現象である音は、そういったものに回収されきれないものです。普遍的なのは精神ではなく物理的な部分なんです。世の名盤談義という名の「批評ごっこ」は、いうなればその単純な事実を積極的に忘れることで成り立っています。
つまり、真の批評というのは名盤・駄盤という価値をひっくり返したり、ずらしたり、新たに生み出したり、ネガポジ反転させたり・・・・という肯定的な態度から導かれるもののはずです。音楽の物理的側面というのはそれを保障してくれると思います。とくにデジタルに(理論上は正確に)反復される音楽には、複数の価値を導き出せる可能性があるのです。
クラシック音楽の批評には、残念ながら、そういう状況をうまく利用できるような言葉がありません。これから、音楽批評をする人はもっと言葉に慎重にならなければならないと思います。従来の言葉はかなり機能不全に陥ってます。
KDMが、そういうこれまでの音楽批評の言葉と齟齬をきたしていると感じるのが、小澤征爾さんの作り出す音響に対してです。サイトウキネンとのものよりもウィーンフィルとのものに、ウィーンフィルよりもベルリンフィルとのものに、ベルリンフィルよりもボストン響との音作りによりそういう齟齬を感じます。なんというか小澤征爾さんの経歴や発言などから抽出されるイメージよりも、出てくる音にはイデオロギーがない。
それは独墺系とか、フランス系とかアメリカ系とかイギリス系とかそういうナショナルアイデンティティみたいなものから、古楽系とかロマン派とかスタイル的なものまで含めて、イデオロギーに染まっていないのです。結構そういうカテゴライズが難しいのはラトルも同じなんですが、音響そのものが音響そのものとして響く感触は小澤征爾独特のものです。
そういうイデオロギーのない音を、音響を言葉として扱うのにはクラシック音楽の批評家は実はすごく下手です。
KDMはチャイコフスキーの悲愴を聴きたいとき、小澤&ボストン響のCDを取り出すことが多いのです。チャイコフスキーの音楽も、イデオロギーから解放されたときの響き方がKDMは好きだからです。下降音形と上昇音形が同時になることでひとつのメロディになるプロセスを、意識をわざと分裂させて、それぞれに受容するときの快感を味わいたいからです。
(2002.11.17)