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マーラー:交響曲第6番イ短調
マイケル・ティルソン・トーマス指揮 サンフランシスコ交響楽団(自主制作)
出た。出ました。すばらしいソフトです、これは。
進取の気鋭に満ち溢れ、パフォーマー、聴衆ともにビビッドな関係性を築き上げている稀有な指揮者とオーケストラの成果を収めています。
サロネン&ロスフィルとプログラムをそっくりそのまま入れ替えて演奏会を催すという試みをやっているという話を聞いたこともあります。指揮者同士のコミュニケーションで、こういう意欲的なものはなかなかないでしょう。MTT、サロネンというハイセンスで、しかもフットワークの抜群な指揮者が、協同で相互に重要な仕事をしていると思うと、なんつうか元気が出ます。
「巨匠」だの「真の芸術家」だのとファンがわめきたてることで、かえって滑稽にも見えてしまう一部の「大物」と比して、彼らのような活動が生み出しているエネルギーには切り拓いていくような力を感じます。聴衆の質という意味でも、過去志向と未来志向というか、現在の諸々の状況に対するスタンスに違いがあるのではないかと思います。
現在といえば、このライヴは2001年9月12日から15日にわたって行われたものです。そう、例の911直後です。
しかし、オケの団員の個人的な心情はともかく、音楽にそういう事実を代弁させるべきではないとKDMなどは考えています。911はアメリカが展開した硝煙にまみれた外交と、いくつかの立場からの複数の意図が招いた結果であり、この見事なマーラー演奏とは関係がないと思います。
そうやって音楽が無関係に在るということがかえって救いになるのかもしれないとKDMは考えています。それはKDMが漠然とイメージしている現在の状況へ対するスタンスというものとリンクしている可能性も高いのですわ。
あるいは、この演奏がバーンスタインのようであったり、テンシュテットのCDを聴いたときのような感覚を覚える演奏になっているとかであったなら、悲壮きわまる現実との関係性みたいなものを嫌々想起する羽目になったのかもしれないですね。
MTT&SFSOは、微細にわたる検討と修練とで新鮮で音響的にも美しい音楽を作り出しています。この演奏からは各パート、各楽器が演奏している音をひとつに融合させるというより、個々のリズムと響き様が独立して磨き上げられつつ「出会っている」という感触をKDMは受けました。ゆえに聴いていると何気ない瞬間に同時に進行する複数のプロセスとアクセスとが感じられ、一瞬ごとの情報量が驚くほど多いんです。
バーンスタインやテンシュテット、それからワルターの一部の演奏あたりにも言えることかもしれないんですが、指揮者の没入によってひとつの方向性へと収斂させていくようなマーラー演奏の情報量は、スコアに秘められているものより少ないように思うんです。それは多分ひとつにしようとすることで、いくつかの要素が独立性を保ちがたくある瞬間が多いからで、そういう演奏は確かにわかりやすいがKDMには物足りない。
そういう独立性みたいなものを保つには演奏者一人一人の集中力と指揮者の鋭敏な意識を高いレベルで維持する必要があるのではないかと考えます。そのような質の高い活動(実演、録音を含めて)を展開している音楽家というのはそれほど多いわけではないんじゃないでしょうか。
サンフランシスコ響は、MTTとのBMG初見参となったプロコフィエフの「ロメジュリ」の頃と比べても格段に集中力の高い演奏をするようになっていると思います。ほんとに何気ないフレーズの絡みや響きの作り方にドキドキすることが多いのなんのって、あーた。
このレベルのままチクルスになるようなことがあったら、KDMはもう泣いてしまふよ・・・。
(2002.5.22)