日曜プログラマのひとりごと
内田樹著『日本辺境論』(新潮新書、2009年)ネタ。内田先生の「日本辺境論」が出た。今日の日付が刊行日となっている。「日本辺境論」発売 (内田樹の研究室)と業務連絡3つ (内田樹の研究室)を読んで購入のチャンスを探していた。17日に紙屋町そごうの紀伊国屋書店で買った。
こちらはむしろ意味が過剰かもしれない。最後の「辺境人は日本語と共に」を読みながら、なるほどなるほどと・・・あまり驚きがないのが少し物足りない。ほぼ同じ関心の領域に生きているからだ。澤庵禅師は知らないけど、丸山眞男と養老先生は知っているからね。特に養老先生は何十冊も読んでいるし。梅棹忠夫の『文明の生態史観』や司馬遼太郎の『この国のかたち』も、もち白川静先生も・・・ただ、同じ境地に達するにはまだまだ読まねばならぬことも間違いない。本書には、72の註があり、36冊の本が引用されている。
朝吹真理子著『流跡』(新潮、2009年10月号)ネタ。日経の「活字の海で」(2009-11-08)に大型新人として紹介された朝吹真理子。新潮10月号はもう本屋にはないはずなので図書館に向かったが、既に誰かが借り出したようだった。10月号だけが抜けている。ググルとセブン・アンド・ワイ・ヤフー店から購入できた。セブン・イレブンで受け取ることにすれば、送料は必要ない。数日して届いた。
確かに文章はうまいのだろうけど、ちょっと眺めただけでは意味がないと思ったのだが・・・流し読みしてしまったからで、よく読むと、起結に明白な仕掛けが書かれている。終わりがない。言わば、シュルレアリスムのオートマティスムを宣言しているみたいなもので、承転はそのようにして書かれた夢のようなものだ。
昔、ソレルスやロブ=グリエを読んだ時の戸惑いを思い出す。しかし、なぜか、魅かれた。無意味と思いながら。それは今も謎のままだ。この問題に取り組みかけていたのに、どこかで滞ったままだ。同号に金井美恵子の『裏切りの耳、紙の肉体』もあるが・・・同じように何十年も前に「海」で読んだことを思い出す。今は、少し、文がスムース過ぎて手馴れた感じが付き纏う。無論、小説あるいは読み物はなんでもありである。塩野七生は、古代ローマの文人のホラティウスを引用した。「面白くてためになる書物が、良書なのである」と。
「流跡」は小説としてではなく詩として読むべきなのかもしれないし、あるいは新しい小説の登場につながるものなのかもしれない。
いろいろな方が亡くなる。もう忘れていたけど・・・86歳。ご冥福をお祈りします。時代は変る。
今日、同業者で懇親会。本通りのつぼ八。若き人に我曰く、「時代は20年単位で変る。心せよ。30歳では世の中が変化することは実感できない。40歳でようやく少し気づくが、危機感は足りない。50歳でようやくやはり変化するねえと実感する。そして、60歳に近くなってようやく時代は変化すると確信する。その時では遅い。30歳で準備せよ。さすれば何がしかの足しにはなるだろう。」
これは受身の話だ。能動的な話。何かを変革しようとすると、5年では変らない。思いだけだ。10年ではようやく動いたかなと言える程度、本当に変えるには20年掛かる。心せよ。だから、世の中が変化するのにそれ位かかるわけだ。
今朝は5℃まで下がった。昨晩の気温は、8.9℃。現在8.0℃。冬到来。
オバマ大統領が初来日し、講演した。その中で「米国は太平洋国家であった」と述べたことが印象に残ったし、話題にもなっている。フリードマンは「100年予測」(十夜一冊 第百五十夜 ジョージ・フリードマン著『100年予測』)で米国のみが大西洋国家であり、かつ太平洋国家であるといえる唯一の国であると述べている。このような地政学的認識はオバマ大統領ともなれば当然の認識なのであろう。
今朝のサンデープロジェクトで高野孟氏が、海兵隊8000人のグアム移転はなぜなのか明らかにされていないことについて拘っていたが、文藝春秋12月号、町山智浩・越智道雄著「オバマの正体が見えてきた」(304ページ)に次のような記載がある。
越智九月に行われた初のオバマ・鳩山首脳会談では、会見時間が三十五分の予定が二十五分で終わってしまった。一方、胡錦濤とは九十分みっちりと話し込んでいます。
たとえばアメリカは二〇一四年に、沖縄から海兵隊八千名をグアムに移転させますが、これも日本への配慮というより、対中国戦略の側面が強い。中国が航続距離の長い原潜を増やし、威力海域をグアム、サイパンまで延ばしてくるのが二〇一五年、と米側は見ていて、米海兵隊の移転はそれに対処する意味合いが大きい。
(311ページ)
越智道雄氏は明治大学名誉教授で、アメリカの比較文化研究者。本記事は単にメモに過ぎない。原潜ねえ・・・、「ひゅうが」の対潜哨戒攻撃能力が対照される・・・(未来予測学入門)
町山智浩氏は、EnterJam -- エンタジャム -で以前から知っていた。大暖冬に読む文藝春秋の3月号 (2009/02/15)と次世代の産業を探せ (2009/07/17)の記事のように、映画だけじゃないねと思っていた。今回の文藝春秋記事で越智道雄先生とつながった。さっき、ジャスコのフタバ図書で新書コーナーを眺めていたら、越智道雄・町山智浩著「オバマ・ショック」(集英社新書、2009年)を見つけて、あれ、これが出発点かと了解。今年の1月21日に刊行している。
一昨日の「日本全国8時です」で森田氏が、ここ数日の雨について、菜種梅雨に対して、さざんか梅雨と呼ぶと解説していて、なるほどと思った。ただ、さざんかという語感はもう少し寒くなってからのほうがマッチする。外気温は夜でも15-16℃ある。ちょっと早いさざんか梅雨かもしれない。今日は雨が強く降っている。帰宅時は土砂降りといってもよいぐらい、ワイパーを高速で動かした。
その寒くもないさざんか梅雨の昨日、熱風11月号が届いた。特集「バッタ君 町に行く」。『「世界は動いているから動かしたいんだ」という思い --- 「バッタ君 町に行く」と"アニメーション"をめぐって』というインタビューで宮崎駿は次のように述べている。
宮崎・・・
「バカやってるね」というやつをやらないと。そうじゃないと、アニメーションというものの、もっと初源の「世界は動いているんだから動かしたいんだ」という、そういうエネルギーを発揮することができない。枚数制約ばかりやっていくと何かやっぱりしなびていくんじゃないかと僕は思っているんですけれども。
・・・
宮崎アニメーションってついそこに踏み込むんです。まあ僕等は首の皮一枚でつながってきたんです。「もののけ姫」(1997)の後、つぶれていいんですよ。あれ。何でお客が来ちゃったのかわかんないもの。いや、だって絶対回収不可能だったんですよ。・・・「もののけ姫」のときは、もう使い切っていいと思ってやろうと。そうじゃないと、ウジ虫がうじゃうじゃとかあんなの描かせないですよ。アニメーターにあんなむごいものを。そうしたら生き長らえちゃったんです。・・・
僕の定かでない記憶では、「もののけ姫」というタイトルに引かれて見に行き、あのわけのわからないウジ虫表現の迫力に感動したと思う。見たことのない表現だった。
「もののけ姫」の「もののけ」という言葉が、白川静『文字遊心』(平凡社ライブラリー、1996年;原著: 平凡社、1990年)の論考「狂字論」にあって響きあった。
狂字論の最初の「狂と精神史」には、中村雄二郎『術語集』(岩波新書、1984年)の「16 子供 -深層的人間/小さな大人/異文化」からの短い引用がある。新しい人間の発見として、アリエスの「<子供>の誕生」による子供、フーコーの「狂気の歴史」による狂人、レヴィ=ストロースの「野生の思考」による未開人の発見が、1960年代の冒頭の3年間にあったとしている部分である(76ページ)。そして、フーコーの「狂気の歴史」を導入に、「狂気こそが理性の創造の源泉であり、狂気の歴史は、その民族の創造的な活力の消長を示すものであった」として、中国の歴史において狂の精神史の一斑を考えてみようと展開されていく。
「もののけ姫」と響きあった部分を引用しておこう。
狂が人びとにおそれられたのは、ただ正常を失って狂乱の状態にあることへの不安や警戒に、とどまるものではない。その狂乱の背後に、識られざる神の力、ある邪悪なるもののはたらきを感ずるからである。狂者の為すところは、すなわち妖であった。国語の「くるふ」は「ころふ」「くるし」と同系の語と考えられ、それは「もののけ」の憑いた「ものぐるい」の状態をいう。・・・
(19ページ)・・・
狂はすでにしるしたように、獣の霊が
(21ページ)憑 りつくことをいう字である。アジアでは、古いアニミズムのなごりは、永く民間にその痕迹をとどめている。・・・
「もののけ姫」にはアニミズムと自然の破壊につながる工業の発生とのせめぎあいの様なものが情緒的に描かれていた。宮崎アニメには自然と人間の関係が常に底流にある。まさにそれが世界だからである。
「呪の思想」に「
「狂字論」でフーコーに再接近したが、「狂気の歴史」は積読状態である。それよりも「狂字論」自体を十分に読みこなせないことに愕然としている。知らないことが多過ぎる。なんでも最初はそういうものではあるが・・・「呪の思想」を含め、白川先生を理解するためには「孔子伝」は読んでおく必要があるのだろう。
第一章「文字遊心」には、狂字論の次に「真字論」がある。真とは「まこと」である。『「まこと」について』の節に次のようにある。
「こと」とは、その「もの」から分化したもの、不可知的に存在するものが、可知的な表現を与えられることを意味する。ことばとしての表現をとることもあり、また事物として特殊化されることもあるが、それは理一分殊(注1)、本来のものから分化したすがたである。しかしそれに、本来・純粋を意味する「ま」が接頭語として加えられると、それは本来・純粋の状態を分有することがごとき「こと」であるから、いわば原存在への通路を保ったままの「こと」であるといえよう。このような「まこと」を通じて、特殊はつねに普遍に連なる。単なる分離、特殊化でなく、「もの」に連なる「こと」である。
(196ページ)注1: 「理一分殊」は朱子の言葉らしい。
ここでも、フーコーに超接近。「言葉と物」なのか「言葉と事物」なのか。「こと」と「もの」には深い関係がある。このような原初の思考に触れるともっと深く考えねばと反省することになる。
作者やそのバックグラウンドを知るにはやはり対談がよい。対談は自然の時間の中で相手にある程度理解できるように話すから、文の内容や流れが単純になる。論文は自分の都合の良いように書きがちだし、複雑な構造を持たせることができる。
それはともかく、「文字遊心」のあとがきは1990年に書かれているのだが、最後に次のよう締めくくられている。
すべてのことに機械化が進んで、今では手書きで文を書く人も次第に少なくなっているという。今後は一そう少なくなっていくのであろう。手書きの文字は、また自己の一部である。それは脳細胞に直結した指先を通じて、指先の感触と視覚が結び合うところに、一つの軌迹として生まれる。文字に逍遥することも、そのような世界でのことである。今後もなお、私と同じように、このような文字の世界に遊ぶ人があるのであろうか。そのようないささかの危惧の気持ちを抱きながら、この書を、同好の方々に送りたいと思う。
(496ページ)
石川九揚先生ではないが、書道、あるいは手書きを見直すべき時期なのかもしれない。考えてみれば、印刷は文字を所与のものとして固定してしまった。手書きは複雑な文字の簡略化をもたらすという作用もあり、ワードプロセッサは文字の簡略化を押し止める作用をもたらしたようでもあるが、新しい文字の発生は手書きにおいて生ずるはずだ。しかし、現代の人間が新しい文字を生み出せるだろうか。丸文字などの字体は生み出せるだろうけど、新しい概念を言葉ではなく文字として、特に表意文字として定着できるだろうか。それほど堅苦しいことを考えるまでもないかもしれない。文字の世界に遊ぶことができて、幸せと思えばよいのであろう。
『文字遊心』第二章「火と水の民俗学-古代文字と民俗学」にある「水の民俗学」に「修秡について」という項目がある。
水は飲み水として生命の源泉となるものであるが、またみそぎをしてけがれを祓い、神に近づく方法として、宗教的にも重要な意味をもつものとされた。けがれを祓い清めることを修祓という。修とはみそぎ、祓とは犠牲による方法である。祓は犬牲に従う字。殷墟の墓坑などにも、犬牲を用いている例が多い。
・・・
・・・
(245-246ページ)禊 とよぶのは漢以後のことで、応劭の〔風俗通〕に「禊は潔なり」というように、潔の字の声義をとるものと思われる。六朝期には王羲之の〔蘭亭序 〕にみえるように、曲水の禊飲という風流のこととなった。
王羲之の蘭亭序は石川先生の「書く-言葉・文字・書」に当然出てくる。当然なのは『書には「永字八法」という基本的教則がある。・・・ちなみに永字八法ではなぜ「永」の字が選ばれたか。・・・それは、「永」が書聖とも呼ばれる王羲之の作品「蘭亭序」の書き出し冒頭の字だからである。』蘭亭序の冒頭部分の写真が20ページに示されているのだが、これは楷書に近いようにも見える。うーむ、僕が高校の時に書道で習ったのは、行書だと思ったが・・・何か見本を見ながら模写したはずだ。
書道を現代に甦させるには、手書きの意味をもう一度考え直す必要があるだろう。最近では、カードやノートにメモを取るときにしか、手書きは使わない。しかし、メモは走り書きになってしまう。それでももう少し丁寧に書くとか、書き方の工夫とか、何か考えてみよう。白川先生の危惧に答えるためにも。
「曲水の禊飲という風流」について、Wikipediaにある「曲水の宴」の起源説のことを白川先生は言われているのであろう。
シンプルで高速、Googleの新プログラミング言語「Go」 | エンタープライズ | マイコミジャーナル、グーグル、オープンソースのプログラミング言語「Go」を発表:ニュースクリップ - CNET Japanネタ。
Plan 9の開発者であったRob Pike、Ken ThompsonやRuss CoxがGoの開発チームにいることを考えると、Plan 9の影響を大きく受けたプログラミング言語なのかもしれない。regexpのパッケージも一応あるし、UTF-8ベースだし、選択肢ではある。Windowsで動かないのが当面の問題だが・・・
白川静+梅原猛『呪の思想 神と人との間』(平凡社、2002年)。白川先生の本に何を選ぼうかと考えた。対談なので読みやすいし、どのような人であったのかも知ることができるし、21世紀に出版された本であるという基準を満たす。実は立冬の日に手に入れた。その前の週に『文字遊心』(平凡社、1996年)を購入していたが気になっていた。文字遊心より先に読了。
文字は最初占いに使われた。それは神と人が交通するためのものだ。占いは未来の予測であり、神の約束である。それは文字として記録された。そうして、文字で書くと現実に起るという神話が生じたのである(と思う^^;)。
取り敢えずそんなところから出発しよう。思いもかけない方向に話は飛んでいきそうだが・・・まず、びっくりしたのは高橋和巳が登場したこと。他についてはまた別の機会に。
グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学 - 情報考学 Passion For The Futureネタ。
メモ、メモ、メモφ(。。)>
「RFID搭載のiPhone」で広範囲なAR技術などが可能に(動画) | WIRED VISIONネタ。
特に付け加えることはないが、おもしろい。
何か書くことがないかなと思っている。更新日記インデックスが年毎のファイルになっているのはだいぶ前から気になっているのだが・・・
取り敢えず、各カテゴリの先頭に前年のインデックスのカテゴリ項目へのリンクを付加してみることにした。それなりに役に立つのだが、ちょっと簡単すぎて記事にするにはねえ・・・カテゴリ単位で過去に遡ることができる。ただ、問題点としてカテゴリに該当する記事がない場合には途切れてしまう。
はて、はて・・・もう少し工夫しよう。インデックスのインターフェースを考えてみなくては・・・
今日帰宅すると、国立国会図書館から封書が届いていた。TSNETスクリプト通信にようやく、ISSNが割当てられたのだ。ISSN 1884-2798。
ISSN登録の申請書をメールで出したのが、9/5だから、約2ヶ月を要したことになる。途中で、出版地の表示が必要というやりとりがあった。おそらく配布PDFファイルの各号にも表示があったほうがよいのだろうけど、登録されていない段階で、配布ファイルにまで記載するのも躊躇われた。とにもかくにも通知をもらってホッとした。これで、定期刊行物、正確には逐次刊行物として形式的には公式に認められたわけだ。バンザイ。
昨日が立冬。ゆめタウンにシャツの上に薄いセーターを着て出掛けたら、本をながめているうちに汗が滲み出てきた。今日は開店したゆめタウンみゆき店にセーターを着ずに出かけたが、やはり暑い。汗が滲む。雲が上に向かって湧いている。ケータイ写真メモ。
金曜日に熱帯に入ったか^^;)街にはクリスマスのイルミネーションが点灯したというのに・・・
今日は18時の気温をお天気虫が21℃と告げている。室温26℃。夏なら冷房を入れる気温だ。
南北に一直線に雲の境界が広がっていた。見事な自然の造形。
周囲を取り囲む雲は夏のように上方に発達している。周囲の雲だけが垂直に発達しているように見えるのは、雲を横から見ることになるからだろうね。写真は東の空だが、西の空の雲も同じだった。
規模的には広島店の1/3くらいかな。広島店は入口が三つあるし、3階建て。みゆき店は入口は一つで2階建て。
Zed 0.43 リリース:晴れときどき更新中(掲示板):@niftyレンタル掲示板:@niftyネタ。
マイナーチェンジだが、0.43が出た。ご苦労様です。変更点をリストアップ。
クイックフォルダ移動は、サブウインドウでフォルダを移動した場合に編集ファイルのあるフォルダにワンタッチで戻れるようにしてもらったものだ。が、編集するファイルがあるフォルダの履歴が残っていくために、大変使い勝手が良くなった。ツリーウインドウのファイル管理タブを併用すると、目的のファイルを探して簡単に開くことができる。
アップグレード時は、ZED.iniとENVフォルダのzed.ctyをコピーすること、アップグレード前と同じ状態で動作させることができる。もちろん、スクリプト類や独自のタイプ別設定ファイルは自分で作成しているからどうすべきか、わかっているはず。
PythonのMVC、DjangoをGoogleAppEngineで使ってみようかなあと必要そうなリンクだけはTSNETWikiに集めてみたのだが、それ以上に進まない。自分にとっての必然性が足りない。
石本さんのInfoPileのページだけは作ってみたものの、それ以上にはなかなか進まない。
Pythonを思考のツールとして使うための方法を機械伯爵に伝授してもらうのもひとつの方法かもね。
さて、僕も何か書かないといけないんだけど・・・稲葉さんのSjis.pmをネタに何か作ってみるかな^^;)Sjis.pmのページにリンクを追加していただいているようだし。
『リーマン・ショック後の「経済白書」(2) 平成グローバル恐慌の謎を解く 誰も気がつかなかったグローバル化の本当のおそろしさ 浜 矩子(エコノミスト)』ネタ。次世代の産業を探せや鳩山首相のデビューの続きを考えよう。
浜矩子は、現在の貿易黒字、為替レート、GDPなどの経済指標や大量生産・大量消費に基づく生活スタイルに代表される価値観に疑問を呈し、この論考の最後で次のように述べている。
しかし、私はそれでも国、政府には重要な役割が残されていると考えている。それは適確な現状分析を踏まえて、適確なときに出現する「月光仮面」的役割だ。
それは、グローバル化に適応せざるをえない中で生じた国民の痛み、著しい格差や「豊かさの中の貧困」を軽減し、安寧と幸せを求める国民を後ろから支えるようなレスキュー隊を務めることである。この役割を政府が果すためには、やはり現状を見極める力と機敏で適確な政策を柔軟に運用できる高度な能力が必要とされるだろう。
わたしはリーマン・ショック以後の世界は、「国破れて山河あり」の時代だと考えている。「国」=政府の力が弱まっても「山河」=人々、自然環境、そして日本の文化がしっかりと残ればいい。
グローバル化された世界経済の中で、いかに「山河」を守り、自分たちの住みやすい場所として育んでいくか。そこに、「では、どうすればいいのか?」の答えが隠されている。
(296ページ)
安い労働力を求めて、米国のグローバル化の後を追う日本。「100年予測」を読んでいると、無論読まなくてもいいんだが、その先もある。コンピュータリゼーションの究極、ロボット化。機械的な仕事は次第になくなっていく。知能的な仕事はコンピュータが代替になり、力仕事はロボットが代替となる。機械的な労働力は次第に必要がなくなる。もちろん、コストの問題は付き纏う。それは2040〜2080年頃に起ると予測されているのだが、そうだろうか。既にそれは進行しつつある現実である。そのような世界で、人間はどのような社会を作り、生きていくのか。
過去から現在へ、そして未来へとつながる時代の潮流を見極め、未来を予測するのは、日本人にとってはアルビン・トフラーの十八番だったと思えるのだが、ジョージ・フリードマンという新しいプレイヤーが登場してきている。未来を予測する人々を知るには、Wikipediaの未来学を参照してみるのも方法だろう。
まだ、ジョージ・フリードマンはリストアップされていない。ググってみるとフリードマンとクランシーを結びつける人はいるようだが・・・クランシーにフリードマンともう一人、Ray Kurzweilを合わせて取り上げている人がいた。名前を知らないわけではないが、もう忘れてしまった。再度、ピックアップしておこう。Ray Kurzweilはインターネットの普及、コンピュータがチェスで人間に勝つ時期を1990年に予測した人として有名になったのだそうだ。
本日記で、Kurzweilをどの時点で捕捉していたかを確認しておこう。
未来予測学入門からジョージ・フリードマン著、櫻井祐子訳『100年予測 世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図』(早川書房、2009年)を取り上げよう。読了。
読みながら、2050年より未来を予測しても興味があまり持てないねと最後の三分の一は端折ったが、結局翌日読み直して丁寧に読了。アメリカが日本・トルコ連合軍に勝つ最終的な要素が宇宙太陽光発電とマイクロ波送電技術の導入であったという設定は、第二次大戦のマンハッタン計画のアナロジーのように思えた。未来の戦争では石油の代わりとなる電力の供給が死命を制するのだ。ここにはクランシーと同じ「アメリカという方法」があるのかもしれない。フリードマンの最初の日米戦争の著作「ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン」はクランシーの「日米開戦」(原題: Debt of Honor、1994年)より早いが、自衛隊の軍備評価はあっても具体的にどのように戦われるかは予想していない。「100年予測」はSF小説並みの、そしてクランシーばりのシミュレーション的未来戦争を描いている。クランシーが登場したればこその予測かもしれない。
21世紀は米国の時代ということなのだが、はて、・・・よくよく考えてみなければ。未来の一部は既に現在に存在しつつあるようにも思える。
追悼レヴィ=ストロース (内田樹の研究室)。他の場所にもいろいろと記事が出たが、適当なものがないので・・・
時代は変ると何度も書いたかもしれないが、次第に僕の過去の記憶を構成する人々の数が少なくなっていく。時が過ぎ去れば、必然とは言え。
クロード・レヴィ=ストロースの日本講演集「構造・神話・労働」(大橋保夫編、みすず書房、1979年)を読み返している。「構造主義再考」や「神話とは何か」など、レヴィ=ストロースの入門書としても好適なのではと思った。
「構造主義再考」の「構造」の具体例に、ロートレアモンの第六の歌(マルドロールの歌)にある有名な文句「解剖台の上でのミシンと洋傘の偶然の出会い」の「構造」解釈があるのに気付いた。それは、「末広がり」という傘と扇の取り違えの狂言を導入として紹介されるのだけど・・・格好いい。
『「構造」とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する。』これに関連してチョムスキーの変形文法における変形の概念は、チョムスキーの「文法の構造」が出た1957年の何年も前から構造主義によって用いられていたのであり、生成言語学とは、実際上、構造言語学の一側面であり、一展開であると述べている。
構造主義は哲学ではなく、方法であるとも述べている。
中沢先生を忘れていた^^;)
Acrobatを使わずにPDFファイルを編集する方法 | 経営 | マイコミジャーナルネタ。
PDFを編集したいと思う場面は多い。試してみる価値はあるだろう。
今朝の外気温は6.7℃。ただいまの外気温8.9℃。ニュースにも木枯らしという言葉が聞かれたが、明日は気温が上がるらしい。ソニエリのAndroid携帯 "Rachael" ティーザー、独自UIデモとソニー・エリクソン初のAndroid携帯 XPERIA X10 発表、国内版も登場予定ネタ。デジタルコンシューマーネタの行き掛かり上ピックアップ。
実機テストではまだ完成とは言い難いみたいだけど、ケータイ抜きの機種が構想されているかどうか・・・ソニーエリクソンの商品構成からは考えにくいが、さて、ソニーが変身するのかどうか。Timescape(Time-Machine Computing)なんて懐かしい。
スラッシュドット・ジャパン Submission | NHK、非営利目的での配布・改変が可能な動画素材ライブラリを公開ネタ。
アクセスが集中して一旦閉鎖されているが、一応、メモということで。BBCの後追いの感じは否めないが・・・BBC関連記事へのリンクをまとめておこう。
今夜はFirefoxのアドオンのお天気虫が8℃を示している。朝はしっかりと閉めていなかったカーポートのゲートが強風でキュルキュルと音を立てて開いた。ゆめタウンからの帰りには見えない雪の微片が風で運ばれて、頬に当たって溶けたような気がした。
昨日の日曜日には、ジョンソン=レアードの「メンタルモデル - 言語・推論・意識の認知科学」(産業図書、1988年;原著: 1983年)が準備できたと市立図書館から予約した翌々日にはメールが届いていたので、取りに行ってきた。
松岡先生の「知の編集工学」(朝日文庫、2001年;原著: 朝日新聞社、1984年)では、「空海の風景」や「空海の夢」に言及する直前にミンスキーとジョンソン=レアードが登場する。編集工学の時代を予感する状況として三つ挙げられている。第一にフランス思想界のディコンストラクション(脱構築)の流行、第二に自己組織化理論の発展、第三にマーヴィン・ミンスキーやジョンソン=レアードらの認知科学や人工知能の研究動向の刺激である。
ミンスキーとジョンソン=レアードの考え方を一口にいうと、おそらく私たちは、「説明するための現象とほぼ同じ関係構造をもった心的な代替物」をアタマ(心)の中にもっているだろうということになる。
(「知の編集工学」、164ページ)
ジョンソン=レアードという名は頭になかったので、どんな人かなと調べ始めた。何か一冊、著作をと、「ジョンソン=レアード」でググると、1989年3月号の情報処理に「メンタルモデル」(AIUEO訳、産業図書、1988年)が紹介されていたのだ。「知の編集工学」には「メンタルモデル」という用語が出ていたので、なるほど、これだと、市立図書館の蔵書を検索した。
一方、当時はプリンストン高等研究所とスタンフォード大学にいたジョンソン=レアードは、せっせと計算機をつかって推論と言語理解と意識をめぐる認知科学を樹立しようとしていた。チューリング・マシンやデヴィッド・マーの認知理論に依拠しつつ、彼の得意とする「メンタルモデル」を計算機にぶちこんでいたのだ。そこで、私が何に刺激を受けたかといえば、人は心の中に「作業用モデル」を構成することで世界を理解しているということ、および、認知科学者たちは人の心を理解するために、「作業用モデルを構成する装置についての作業用モデル」を用意する必要があるということだった。
(「知の編集工学」、163-164ページ)
「メンタルモデル」の章立てをまずリストしておこう。
第10章の「単語の意味は心の中でどのように表象されるか」については英語などの表音文字で単語を構成する言語と表意文字を含む日本語のような言語において違いがあるのか、そしてその違いに重要な作用があるのかなどと考えた。
この際、「知の編集工学」(朝日文庫、2001年)の目次を書き出してみよう。
「メンタルモデル」から、前述の「知の編集工学」の引用部分に相当する部分を引用しておこう。
メンタルモデルを用いることで、人々は推論や予測を行ったり、現象を理解したり、その理解や予測などに基づいて次にすることを決めたり、疑似体験をしたりすることが可能になるのである。というのも、メンタルモデルは、世界との直接接触からえられる表象に匹敵する表象を作るために使える用語を提供し、ことばを概念作用や知覚によって世界と関連づけるからである。
(「メンタルモデル」、471ページ)
第15章の「メンタルモデルの性質」には可能なメンタルモデルに対して10個の制約が示されている。そのうちの一つが「構造的同一性の原理」である。「知の編集工学」からの最初の引用に直接対応する。
9) 構造的同一性の原理: メンタルモデルの構造は、そのモデルが表象しようとしている事態の構造と同一である。
(「メンタルモデル」、493ページ)
この制約から、必然的に、存在する事態に対応するだけの数のメンタルモデルが存在することになる。
外界の認知が直接的なものであるにしても、経験内容は内部のモデルに依存する。外界に存在する実体は、ある特定のエネルギーのパターンを発している。それが感覚器によって受容され、そのパターンの持つ情報に基づいて、神経系は、そのパターンの発生源についての部分的なモデルを形成する。ある理論家は、必要な情報はすべて感覚器に入ってくるエネルギーのパターンに含まれていると考え、また他の理論家は、先験的な知識によって「世界」のありさまが復元されると考えている。・・・
(「メンタルモデル」、476ページ)
この部分は、一種の経験と記憶のモデルがパターンマッチによって実現できることを想起させる。神経系が外界の実体から発生されるパターンをより分けてモデルを形成する仕組みはおそらく記憶と関連しているのだろうと思われるし、遺伝的に先験的に保持しているモデルもあるかもしれない。
外界の表象を用いる生体をクレイク・オートマトン(Crakian automaton)と呼ぶ。それはデカルト・オートマトンに、入力刺激をコード化する感覚系とその結果から行動決定の基準として用いる世界の表象を形成する機構の二つを加えたものである。・・・
クレイク・オートマトンは、自身のモデルの内容を伝達するために外的なシンボルを用いることができる。・・・
(「メンタルモデル」、477-478ページ)
これはまさにプログラミングの世界であるが、入力から世界の表象を形成する機構をプログラミングする部分が最もおもしろいところだろう。
ここで、少し実用的にするために意識の流れを転換させねばならないだろう。何のためにこのようなメンタルモデルを考えるのか、あるいは知の編集工学を・・・
・・・予測を導くには必ず直感の訓練が必要である。理論的直感は非常に価値がある(それを持つ者には)。しかし、理論が予測する際に直感が必要なら、その直感こそが予測の原因であり、理論自体は説明的な価値はないという可能性が強い。そういう理論は道標ではなくて、方向づけのために理論家がよりかかる支えにしかならない。
この危険を避ける一つの基準がある。それは理論を実行可能な手続き(effective procedure)の形式で記述可能にするということである。この考えは計算可能性の理論によるものである。・・・
(「メンタルモデル」、7ページ)
この本は良い本だ。書くべきことが書いてある。
MVCフレームワークとの関連において編集工学について考えた時の記事へのリンクを残しておこう。
虫愛ず: つらつらぐさで統合メディア・チャンネル (2009/10/31)にコメントをいただいた。過去発掘・再体験ネタ。
過去を掘り起こしつつ、進んできた本日記。「ハートボイルド」(2008/08/15)以来の「ナウシカ」だが、ようやく「風の谷のナウシカ」の漫画を読もうと思った。昨日届いて完読。漫画を読む場合、あっという間に読み終えるので、長い間、例えば、「風の谷のナウシカ」の場合、アニメージュに1982年2月から1994年3月まで12年以上に渡って、連載されたものにいつも申し訳ない気がする。
第1巻の最後でナウシカの名前の由来が説明されているように、ムムリクさんの記事にも「ギリシア神話小事典」と「堤中納言物語」を合わせて紹介していただいている。
テレビで、アニメのナウシカを何度か見たことがあるが、漫画のストーリーや内容とは随分違う。アニメのほうが印象が強くて、後から原作の漫画を読んでもなあーんだと思うことがあるけど、ナウシカの場合は漫画を読む価値が十分ある。時間的に制限のあるアニメには考えていた全てを盛り込むことは難しいだろうし、初期の2年ぐらいの構想で作ったアニメ(1984年)と12年をかけた漫画とでは深みが違う。お勧め。
先週、10月25日、日曜日の散歩世界ネタ。
鳥(1)
鳥(2)服部博之のホームページ鳥写真で調べた。ジョウビタキに似ている。
僕が見た鳥は、スズメよりもだいぶ大きいと思うので、ジョウビタキにしては大きすぎるし、頭上は白くない。違うみたいだな・・・