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ワークショップinつくば、『ガンジーの糸車』報告
 講演および当日の様子を撮影したビデオを貸し出し中
 綿の種、篠綿、その他資料もお分けします。
  送料として切手を同封して下さい。
    (ビデオ390円、篠綿10本140円)

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1999年11月13日、14日 カスミつくばセンターにて
10:00ー12:00 講演会 ガンジーが糸車に託した思いを知ろう
by片山佳代子
13:00ー17:00(出入り自由) 体験、糸紡ぎに挑戦

講演原稿



1. 企画の報告(片山)
  この企画を実施したおかげで、それまでは『ワタとチャルカの会』がある千葉県千倉町が中心であった糸紡ぎの取り組みを、つくばの地で広めることができたのは大きな収穫だったと思います。ぷにの家(つくば市作谷)では飯塚さんの協力もあり定期的に、その他の場所でも個人的に糸紡ぎの会を催し、糸紡ぎを指導できる人が多くつくばの地で誕生しました。今後の活動にとって、財産とも言える人々であります。
 染色・機織りをずっとやってこられた吉崎さんが協力してくださいましたので、手紡ぎ糸を織った布を展示することもできました。そういう見込みがあればこそ、5月に初めてチャルカ(インドの糸車)を手にした私がワークショップまでに約800グラムの糸を紡ぐことができました。800グラムあれば10メートル前後の布を織ることができたのですが、今回はすべて初めての試みで、どのような処理をすればどのような布になるかが全くわからない状況にありましたので、いろいろなやり方で、テーブルセンター程度の布を複数枚こしらえることにしました。
 当日の講演会では、平和な世の中は、農業と手工業(糸紡ぎなど)を中心とした自給自足社会になって初めて実現できるとしたガンジーの考えを紹介しました。今更昔には戻れない。人口だって増えているから、糸車が万能薬とは言えないという意見も出ました。しかし、当日バスターミナルから会場まで歩いて来られた方、筑波大から自転車に乗って来たという学生たちがいました。どんな言葉よりもこれらの行為そのものが大いなる説得力をもって雄弁に語っているように、小さなことを積み重ねていく努力はしたいものです。
 午後は実際に糸紡ぎを体験しました。皆さん本当にじっくりと取り組んでくださいました。ガンジーの考えを理解するには、難しい理屈は抜きにして、実際に手を動かしてみるのが一番かもしれません。きっと皆さんいろいろなことを感じてくださったことでしょう。手仕事は本当に楽しいことです。時の経つのも忘れて没頭できるものがある。それを私は大切にしたいと思います。初日に来て、2日目にもまた来られた方も何人かありました。企画者としてこれほどうれしいことはありませんでした。

2.企画を終えて(片山)
 『競争ではない、協力こそ人間本来の生き方である』というのは、ガンジーの言葉ですが、本当に多くの方が協力してくださいました。どうもありがとうございました。
 今回準備を進める中で、着られるものを作るのに十分な量の糸を紡ぐことができました。織るのは、今回は昔ながらの大型の織り機を用いましたが、今後はもっと手軽な道具を使った原始織りを教えていただく予定です。衣の自給から、生活全般を見直すことまで、できることをこつこつとやっていきたいものです。ぜひお仲間になってください。このような実践を通じて、ガンジーの想いも伝えていきたいと考えています。「世界に変化を望むのであれば、自らがその変化になれ」(M.K.ガンジー)

他のスタッフからの感想
 皆さんが喜んで下さったようなので何よりです。ガンジーの思想はとてもsimpleなものですが、simpleなものほど、人には理解しにくい、又は人は理解しようとしないものです。その困難さを人はいつまで持ちつづけるのでしょうか。私自身を含め、皆が真にこの思想を理解し、深めることができるよう祈っています。(笠井美智子)
 今まで綿に触れる機会がなく、今回いきなり知らなかった世界に飛び込んで行けて本当に良かった。体験を伴ったのできっと忘れないと思う。ありがとうございました。(坂田清華)
 しの綿から「ツー」と引き出される手紡ぎ糸の動きに不思議な充実感を味わっていただけたのではないでしょうか。長時間手紡ぎに向き合って下さった多くの方々には、ガンジーさんの糸車の教えが決して過去のものではないこと、そして楽しい創造性を伴う作業だと実感して下さったと思います。この企画を応援していただき本当に有り難うございました。また、先に繋がるような活動に移して行きたいと思っています。(吉崎仁子)

3. 会場アンケートより
 *物の素晴らしさ、綿の素晴らしさを改めて確認しました。
 *働くということが人間の尊厳の問題であるという考えは素晴らしい。
 *プロセスの見えない社会の中で、プロセスを知ることの大切さを改めて感じました。
* 自立するにあたり、衣食住のうちの衣の原点について考えさせられた。現代人は文明的生活を送っているが、これらのことがブラックボックスになって衣類を使用していることに気がつく。かえって昔の人の方が生きる上での知恵を持っていたのではないか。
* 世界史、環境問題、労働問題、哲学に至るまでの幅広い内容を糸車という窓口から触れられ、とても充実した一時でした。私自身は、消費者としてどうあればよいのかという疑問を持っていること。また、母親として子どもに物のもとの形を教えなくてはならないと思っていること、そういう思いと今回のテーマは結びつきました。また、simple life, high thinkingをできる範囲で実践したいと思いました。
* ガンジーの主義主張には心より同意できるが、現実的には、今の文明的便利さをどれだけ放棄できるのか、全く自信がない。ただ、『人間らしく生きるとは』とか、『人間の良心とは』とかいったことを考える時には大きな指針にできると思う。
* ガンジー思想に今すぐ近づくことはできなくても、無理なくほんの少しでも多くの人が近づけばもっと住みやすくなるのではと思いました。
* ごく当たり前と信じていることが、実は非常に不自然で、社会的に公正でないことに気付きつつあります。当然と思っていることが当然でないと気付くのは時間がかかると思います。
* たくさんの輪を作っていくためには、大義も必要ですが、文句なく喜びを感じられる糸車を紡ぐという簡単な仕事は誰にでも受け入れられるものなので、現在に暮らしている人々に対しての切り口としては、文化、経済論よりも説得力があるのではと感じました。
* 綿打ちから篠になる行程がいざ自分でやるとなると難しく、(業者に出すことになるのは?なので)考えさせられた。



ガンジーの糸車、講演原稿
 マハトマ・ガンジーといえば、非暴力の人として有名で、不服従の運動は思い浮かんでも、糸車はぴんと来ないかもしれません。しかし、ガンジーは糸車こそ非暴力を象徴するものであると述べています。本当の平和を実現しようと思えば、糸車を廻して衣類を得ていく生活を取り戻さねばならないと訴えたわけです。
 便利なものに囲まれて、何一つ不自由のない生活を送っていると、わざわざ糸車を廻して糸を紡ぐなど時計を逆回りさせることのように思えるかもしれません。私自身も、お金はかけても良いから、時間はかけたくないと思っていた時期もありました。しかし、フィリピン、インドなどの途上国で生活した経験をふまえて、ガンジーの書いたものを読むとき、そこに真実があると感じないわけには行きませんでした。私たちの豊かな生活は途上国の人々の犠牲に上に成り立っているのです。
 一例を挙げますと、フィリピンに行ったのはちょうどピナツボ山が噴火した時で、火山の大噴火のために多くの被害が出ていました。降り積もった火山灰のうえに雨が降り、それが泥流となって畑や家を押し流していたのです。山に木が生えていなかったために被害が大きくなったという話をよく聞きました。なぜ、山に木がなかったかと言うと、日本がフィリピンの木を大量に輸入していたからです。そうして輸入してきた木材も日本では使い捨てにされてきました。
 また、日本に向けてエビが輸出されるようになってからは、エビが高くなり庶民の手に入らなくなったという話も耳にしました。フィリピンの人々はシニガンスープというエビの入ったスープを毎日のように飲んでいたそうですが、それができなくなったということです。日本人が味噌汁を飲めなくなったらどんな思いがするでしょうか。平気で日本でエビを食べている場合ではないのではないかと、その時感じたものでした。
 その後、今度はインドで暮らして、「生活に必要なものは自分たちの手で生み出しなさい。自国で取れないものは欲しがるな」というガンジーの主張に出会いました。先にフィリピンで体験したようなフィリピン人の犠牲の上に自分たちが豊かな生活を送るということを止めようと思えば、ガンジーが言うような生活をするしかないのではないかと思うようになりました。日本の国土には森林資源が豊富にありますし、エビを食べなくても他に食べるものはいくらでも、農業に適した気候風土に恵まれた日本で取れるわけですから。
 インドでも庶民は貧しく、テントのような家で裸同然の格好で生活をする人が大勢いました。買い物に出かければ、すぐに物乞いする人々に取り囲まれてしまいます。このような光景を目にすると、自分たちが毎日お腹いっぱい食べていることすら申し訳なく感じたものです。
 ガンジーはこのようなインドの貧しさの原因は工業文明にあると主張しました。例えば衣類について言えば、畑でワタを育て、それを紡いで糸にし、布に織って着るという事が行われていれば、多くの人が仕事に携わり、何らかの収入を得ることができますし、衣類も自分たちで生み出すことができます。ところが、工業文明のおかげで、手工業が廃れ仕事がなくなった上に、衣類もお金を出して買わねばならないものになってしまいました。そのために、着る物も満足に手に入れられない人が大勢いたのです。そして、この状況は今も少しも変わっていません。
 しかし、インドは昔からこのように貧しかったわけではありません。イギリスがインドを支配するようになる前は、インド製の綿布と言えば、世界の賞賛の的であり、綿布をヨーロッパに輸出さえしていました。ここで、17世紀からの歴史を簡単に振り返ることにしましょう。
 昔はヨーロッパでの衣類といえば、羊の毛からとったウール、毛織物でしたが、インドから綿織物が入ってくると、夏服としてはもちろん、カーテン、ベッドカバーとしても非常に珍重されました。そうなると困ったのは、イギリスの織物産業の人々でありました。イギリスは自国の織物産業を保護する必要からインドの綿布の輸入を禁止しました。しかし、それでも密輸は後をたちませんでしたので、自国で綿織物をつくることにしたのです。このような理由から、イギリス国内では育たない綿を原料とする綿織物工業がイギリスで起こりました。ちょうどその頃(18世紀後半)、機械の発明が相次ぎ(いわゆる産業革命)、綿織物を大量に作ることができるようになりました。すると、イギリス国内だけでは製品を売りさばくことができなくなり、インドに売りつけることを思いついたのです。
 インドの織物職人たちの目をつぶし、指を切り落とすなどの残虐なことをして、インドの手工業、綿織物を徹底的につぶしました。そして、機械で大量に生産した綿織物をイギリスから買うように仕向けたのでした。自国の製品を売りつける場として、インドがなくてはならない存在になったときに、インドはイギリスにとって単なる貿易相手国ではなく、イギリスが支配しなければならない国へと変わっていったのです。つまり、イギリスで産業革命が起こり、大量生産の社会になっていったことと、イギリスによるインドの植民地支配は切ってもきれない関係にあります。
 イギリスが、大英帝国として栄える事ができたのも、ひとつには、このようなインドという犠牲があったからです。インドが綿織物を買ってくれるおかげで、イギリスはどんどん生産し、売る事ができ、多くの利益をあげる事ができたのです。その結果インドは、綿織物を輸出していた国から、綿花を輸出して綿織物を輸入する国へとなってしまいました。つまり、原料を生産して製品を購入する国になってしまったのです。ここにインドの貧しさの原因があります。
 余談ですが、その当時イギリスの綿工業で大量に必要とされる綿花を供給したのはアメリカ南部でした。そこの綿畑で働かせるためにアフリカから大量に奴隷が連れてこられました。ですから、イギリスは、インドだけでなく、多くの黒人を奴隷にする事で栄える事ができたのです。このように、大量生産システムは、原料供給地と市場の両方が確保されてはじめて成り立つものです。
 産業革命に成功し、大量生産を行うようになったヨーロッパの他の国々もイギリスと同じように、植民地を必要とし、アジア、アフリカを侵略していきました。大量生産が進めば進むほど、原料供給地及び市場として、植民地がますます必要となり、ついには植民地を奪い合う戦争まで起こしてしまいました。日本が朝鮮半島、中国大陸を侵略していったのも、まさに同じ理由からでした。先の大戦で、日本がアジアで唯一侵略する側に回ったのも、その当時日本がアジアで唯一工業化を成功させた国であったからです。大型機械による大量生産のシステムを取り入れるということは、他国を侵略していかねばならないということであったわけです。
 この仕組は植民地が独立を果たした今も少しも変わってはいません。今も安い値段で原料を供給してくれる国があるから、日本は工業国として栄えることができています。製品の方は、国内でさばききれない分はもちろん輸出もしていますが、植民地を持てなくなった今ではそれ以上に使い捨てを奨励することで、大量に生産されるものを消化しています。その結果、ごみの問題も深刻ですし、エネルギーも浪費され、環境も破壊されてきました。
 また、大型機械で大量に生産するシステムでは、人手が余ってしまいます。失業者を出さないようにしようとすれば、必要かどうかを考えることなく、ますます大量に作るしかありません。しかし、作っても売れなければ、作るのをやめるしかありません。そして、人減らしが行われます。これが経済危機と呼ばれる今の状況です。このような中では人々は、失業しないために熾烈な競争に勝ち残ることが求められます。競争に勝たなければ生きていけない社会のためにストレスから病気になる人もいますし、教育も歪められてしまいました。
 ガンジーはあの時代にあって、工業化、大量生産と切っても切れない関係にあるこれらの問題を見ぬいていました。だからこそ、インドの進むべき道は工業化にあるのではなく、糸車を廻すことに象徴される、農村社会の再建しかあり得ないのだと主張したのです。ヨーロッパ諸国がすでにアジア、アフリカを植民地として分け合ってしまっていましたからインドの工業化は成功の可能性が低いですし、たとえ工業化に成功しても、それは他の国を犠牲にして栄えることでしかなかったからです。ガンジーはインドにそのような国になって欲しくはありませんでした。さらにガンジーは、魂を滅ぼす競争に参加してはいけないと言っています。競争ではなく、協力こそ本来の人間のあるべき姿です。そして、このように協力し合う社会は糸車などを復活させることによってしか生まれないのです。ですから、ガンジーのこの糸車の思想は、多くの人が着る物にも不自由しているインドにだけ当てはまるのではなく、物質的には非常に豊かな生活を送っているが、決して幸せになれたわけではない私たちにも必要とされる思想であります。
 ここで、ガンジーが目指した農村に基盤を置く非暴力の社会を見ることにしましょう。糸を紡いだり、畑を耕したりして、衣類と食糧を得ていく、この基本的な営みを皆がやるようにならない限り、非暴力の社会は実現できないとガンジーは訴えました。自然がただでくれるものはみんなのものであるということを前提にして、人々が農業及び手工業に従事して、必要なものを生産し、それを譲り合えば平和に暮らしていけるのです。農村にも様々な仕事がありますが、まず重要なのは、食糧と衣類を生み出す仕事です。みんなのものである土地をみんなが協力して耕し、作物と衣類の原料例えば綿を栽培し、それをみんなで協力して加工し(穀物であれば製粉、精米など、綿であれば糸紡ぎ、機織りなど)、そうして得られた食糧及び衣類を必要に応じて分配する社会が実現できれば、これこそ地上に生じた神の王国であるとガンジーは表現しました。そして、このように、衣類と食糧を得ていく仕組が整えば、自ずと他の村落手工業(紙すきや皮なめしなど)も復活してくるはずです。村の大工、鍛冶屋、靴屋なども復活するでしょう。そして、人々はこれらの職業のどれかに携わるようになります。村がひとつの単位として他に頼ることのない自立した、平和な社会が築けるのです。
 そのような社会を実現するためには、まず教育が変わらねばならないとガンジーは言いました。文字を教える前に奉仕の精神を養うべきであります。人のために働くことを喜びとする子どもたちが育っていけば、彼らは優秀な職工、労働者として社会に巣立っていくことでしょう。知識、学問というものを決して軽視しているわけではありませんが、何人もこれらの肉体労働から逃れることは許されないというのがガンジーの考えでした。ですから、一番手軽にできる糸紡ぎという肉体労働を、1日に30分でも良いから毎日やりなさいとガンジーは訴えたわけです。肉体労働に従事しない人は寄生虫であるとまでガンジーは言っています。すべての人が8時間肉体労働に従事すれば、すべての人が十分な量の食糧と衣類、更に十分な余暇を手にすることになるのです。そして、この余暇を利用して文化も花開くでしょう。
 労働に従事してこそ本物の文学、本物の思想、学問が花開くというのがガンジーの考えでした。ですから、タゴールのような詩人であっても1日に30分は糸を紡ぐことを勧めました。そうすることで、貧しい人々の気持ちが理解できるようになり、今よりももっと素晴らしい詩が書けるはずだというのです。科学的知識にしても、今日のように欲望の手先になってしまったのを改めることができなければ、人にとって本当に役に立つものとはなり得ません。科学の進歩と思いこんできたものによってどれほど多くの負の遺産を背負い込んでしまったか、また、大切なものを失ってきたかを考えた時、糸車を回しなさいというガンジーの主張は決してとっぴなものではなくなるのではないでしょうか。畑を耕したり、糸を紡ぐことをガンジーは建設的プログラムと呼びましたが、この建設的プログラムを始める前に非協力運動を展開したことは誤りであったと晩年になってガンジーは告白しています。晩年ガンジーは政治的な活動から身を引き、郵便も満足に届かないような僻地の村にこもり、その村を再建することに全力を注ぎました。
 ガンジーはラスキンの「この最後の者にも」という本に強く感銘を受け、そこに書いてあることを実践しようとしました。それがサルボーダヤ運動です。サルボーダヤというのはすべての人が向上するという意味です。一人として取り残される人があってはなりません。最後の一人にまで利益が分配されねばならないのです。大多数が利益を得るためには、少数の人が犠牲になっても仕方がないという考えこそ間違っているのです。これは一言で言えば、能力に応じて働き必要に応じて分配する社会です。能力のある人がたくさん稼ぐことができたとしても、それを一人占めにするのではなく、みんなで分かち合うべきだとガンジーは主張しました。競争し、奪い合うのではなく、助け合い譲り合うのが人間本来の姿であるというわけです。人の幸福は、多くを所有することにあるのではなく、満足することにあります。報われることを放棄するのが人生であるともガンジーは言っています。人々が本当に助け合い、譲り合って生きていくのであれば、大都市も大型機械も必要ではありません。
 私たちは、労働から解放されるのは良い事だ、楽な生活こそ理想の生活だという思いこみのもとに突っ走ってきました。しかし、労働を通してこそ人間は本当の喜びを味わうことができるものだというのが、ガンジーの思想の真髄です。次から次へと尽きることのない欲望を満たそうとしても、きりがありません。自分自身の欲望の虜になるほどの奴隷状態は他にありません。このようなことをいくら追い求めてみても、人は幸せになれないのです。欲望を愛で置きかえなさいとガンジーは言います。このように人々の心が変われば、その人の生き方が変わります。そしてそのような人は周囲の人に良い影響を及ぼし、周りの人も変わってきます。そして、社会全体が変わります。これが、ガンジーの考えた社会改革です。
 社会を変えようと思えば、政治権力を握らねばならないと考えがちですが、たとえそれによって社会を変えることができたとしても、人々の心が変わっていなければ、すぐにまた別の考えを持った人が選挙に勝ち、すべてが覆されることもあり得ます。本当に永続する平和な社会を築こうと思えば、人々の心を目覚めさせねばならないとして、ガンジーはそのことに全力を注ぎました。
 ところで、働くということはできればさけたいということなのでしょうか。労働を卑しむ気持ちが私たちにあるとすれば、そのことこそ問題なのではないでしょうか。
 このことについて、綿摘みを例に挙げて話したいと思います。このワークショップに先駆けて綿摘みの催しをしましたので、皆様の中にも綿摘みを体験された方もいらっしゃるでしょう。ワタ摘みに来られた方は皆さん楽しかったと言って下さいました。またやりたいとも言ってくださいました。ところで、昔のアメリカ南部では綿摘みは奴隷の仕事でした。「アンクルトムの小屋」にもその情景が描かれています。この奴隷たちは綿摘みをさせられて、楽しいと思っていたでしょうか。おそらくそうではないと思います。同じ綿摘みという仕事であっても、私たちにとっては楽しかったのに、奴隷にとっては悲惨であったわけです。この違いは何から生じているのでしょうか。私は自分が借りている畑に自分が種を蒔き育てた自分の綿を、これからどんな布ができるだろうかと楽しみに思いながら摘むことができました。しかし、奴隷は、自分が摘んだ綿を自分のものにできるわけではありません。さんざん働かせられても、その果実は皆持って行かれてしまいます。これでは働くことが楽しいこと、生きがいになるはずがありません。
 もし、今現実につまらないと感じる仕事があるとすれば、それは今の社会の仕組のために奴隷が綿摘みをつまらないと思ったのと同じような状態が生じているからではないでしょうか。しかし、忘れないようにしたいのですが、働くことは本来、決して卑しむ事でも、苦痛なことでもありません。それによって、人間が本当の満足を知り、本当の喜びを見つけ出すことのできる、人間の幸福にとって本当に必要なことであります。
 摘み取った綿の繊維と種を分ける作業を綿繰りといいますが、この綿繰りは昔は子どもたちやお年寄りのやる仕事だったそうです。今は家庭の中で子どもたちのやる労働がすっかりなくなってしまいました。そのことと家庭の崩壊と無縁ではないような気がします。また、お年寄りにしても、やるべき仕事を奪われて生きがいを失っている面が全然ないとは言いきれないのではないでしょうか。
 私たちの今置かれている現実は、ガンジーが目指した農村社会とはすっかりかけ離れてしまいました。100年近くも前に工業化の行く末は破滅しかないとガンジーが訴えたにもかかわらず、私たちはその声には耳を傾けず、ひたすら物質的な繁栄のみを追い求めてきた結果がこれです。しかし、西洋の近代主義があちこちでほころびを見せている今だからこそ、東洋の叡智に学びたいものです。私たちはガンジーが提唱した、糸車を中心に据えた社会か、行きつく所まで大量生産を推し進めていく社会、つまるところそれは最後には大量破壊しかあり得ないのですがこのどちらかを選ばねばなりません。どちらを選ぶべきかは、もう明らかなのではないでしょうか。
 とは言いましても、糸車を中心とした理想的社会は、現実とあまりにもかけ離れてしまっているために、努力する前に諦めたくなるのも事実です。自分一人が糸を紡いで何の意味があるのだろうと思われるかもしれません。しかし、高い山に上ろうと思えば一歩ずつ登っていくしかないように、たとえどんなに小さなことであっても、少しずつできることから始めていくしかありません。今の日本では、衣類だけでなく食べ物の問題にも並行して取り組む必要があります。問題は山積みですが、だからこそできることはたくさんあります。糸を紡ぐこともその一例です。糸を紡ぐことだけが重要なのではありません。私自身も綿を育てた畑の横で野菜も育て、食べ物についてもそれなりにこだわった生活をしたいと努力を始めた所です。一人一人が自分のまわりにある小さなできることに取り組むようになれば、社会に静かな革命が起こるでしょう。これが大切です。これをやらずに非協力運動を展開しても、それはなえた手でスプーンを持ち上げるのに等しい行為であるとガンジーは書いています。『小さな改革もできないで、大きな改革をなせるわけはない』とガンジーは主張しています。小さなことを積み重ねていく実践の中で、以前であれば大きなことに思えていたことが、実は小さなことであったと気付いていくものです。
 私自身の経験でも本当にそうだなと思います。インドでガンジーの書いたものを読み、衝撃を受けた私は、ちょうど5年前に日本に帰国しましたが、この重要な思想を日本の人々に伝えたいと思いながら、どうすれば良いのか全くわからない状態でした。試行錯誤する中で、志を同じくする仲間にも出会うことができました。当初私は自分に1冊の本を訳すだけの能力があるとは思っていませんでした。それでもやむにやまれぬ気持ちから1ページ訳しては友達に見せることを繰り返すうちに、いつのまにか数100ページ分の原稿になっていました。少しずつやっていれば、いつのまにか本ができていたのです。最初は途方もないことと思えていたことも、一歩ずつ積み重ねていけばできてしまうことに私は気付きました。ガンジーが描いたような社会を実現させるのは、この何十倍も大変なことではあると思いますが、それでも一歩ずつできることを積み重ねていけば、一歩ずつでも理想に近づいていくことができるのですから、私は投げ出さないでやっていきたいと思っています。ガンジーもアヒンサー(非暴力)の社会を実現するのには、100年、200年の年月が必要であるかもしれないが、だからといってそれに向かって努力するのを諦める必要はないと言っています。5年前にインドから帰国した時には、すべて手探りではじめたことでしたが、5年経った今、本を出し、ワークショップを開くことができました。ですから、また5年後には、今はまだ夢のように思えていることが実現できているかもしれないと、私は希望を持っています。このような取り組みをしていく中で本当に多くの仲間に出会え、協力し合うことができ、毎日がとても楽しいです。このワークショップをきっかけにまた、この輪が広がっていけば良いと思っています。
 最後に、ガンジーが大好きだったタゴールの詩の一節をご紹介したいと思います。
  「汝が声誰も聞かずば、一人歩め、一人歩め」(タゴール)

©1999 Kayoko Katayama
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