バナナブレッド日和

 東京ドームの「らん展」を観にいこう、と誘ったのは私のほうだった。
 ランの栽培は私の趣味のひとつだ。ラン好きの副社長の秘書として仕事をするようになって三年、すっかり影響されてしまっている。家に帰れば部屋の温室には大小あわせて三十もの鉢が、ところ狭しと並ぶ。熱中のままに買い求め、気がつくと手に余る数になっていた。
 副社長から例年の通りその緑色のチケットをもらったとき、そういえば今年はランの花芽がちっとも出ていないと思った。なにやかにやで放ったらかしになってしまったせいだ。情けない。植物は正直だ。
 いつもなら母と一緒に行くのに、それに母が今年も楽しみにしていることを知っているのに、私は別の計画を思いついてしまった。ちょっと気になる人がいて、彼を誘おうと思ったのだ。前に会ってからひと月以上が経ち、私は会う口実を探していた。まったく、「口実」がないと、電話もできない。
 予定をたずねると、来週は大丈夫だよ、と言うのでほっとした。
「どこで待ち合わせようか」
 水道橋の駅は混み合っているだろうし、駅を出てすぐの橋は鯉も見られて楽しいが、寒い。第一、雪でも降ったらいたたまれない。電飾ツリーの下がいい。先週みたドラマで、ヒロインがそこで待ち合わせをしていた。きれいだった。
 東京ドームの電飾ツリーとはどこのことか、と電話の相手はたずねる。説明するのはひどく骨が折れた。なにしろ、TVドラマというものを全く見ない人だ。
 それから小一時間ほど話し、結局ツリーの下で、ということで電話を切った。時間を決めるのを忘れたことに気づいたのは翌日になってからだった。

 通信教育の提出課題は締切日が迫っている。英文和訳で頭脳の働きに関するハウツーもの。翻訳も私の趣味のひとつだ。家に向かう電車のなかで課題の英文をじっと睨みながら、ふと、バナナブレッド食べるかな、と思った。
 バナナブレッドは私の得意料理のひとつである。
 昔、外資系企業の担当をしていたときに、同僚のペピーさんが教えてくれたのだ。母親がイギリスのブリストルで料理店を営んでいるというペニロピは、なかなかの料理好きで、仲間を集めてはホームパーティを開いていた。彼女のレシピはしごく簡単かつ明瞭で、小麦粉一カップ半、卵二個、油半カップ、砂糖一カップを混ぜ、そこにバナナをたくさん擦りおろして焼けばいい。どれだけ時間がたっても、ある日突然食べたくなっても、大丈夫。この作り方は忘れようがない。
 バナナブレッドはイギリスではお茶の時間に食べる、ごく日常的なお菓子だ。最近はちょっと気のきいたティールームなら店で食べさせてくれるし、市井のパン屋でも売っている。が、香辛料がどことなく本場風なのだろう、私が焼くようなのはどこでも手に入らない、と友人たちには「焼いてほしい」とせがむファンがけっこう多い。
 明日は久しぶりの休みだが東京ドームに行くので、今夜は早く帰って課題をやらないと間に合わない。だけど、なんだかバナナブレッドを焼きたい気分になってきた。困ったな。
 最寄駅の改札口を出ると、ペデストリアンデッキを渡り、私は西友の食品売場に向かった。家のキッチンに材料のストックがあるかどうか自信がない。念のために必要なものはみんな買っておこう。小麦粉、卵、レーズン、くるみ。いくらなんでも油と砂糖はあるだろうから、省略。それに、忘れてはいけない肝心のバナナ。
 本当はニ、三日前に買って陽に当て、芳香を放つくらいのところが最適なのだが、仕方がない。なるべく傷んでいそうな、腐りかけのバナナを選んだ。
 家に帰ると夕食のカレーライスが待っていたが、ここで座ってしまっては、食後までケーキを焼く気力は残っていそうにない。おいしそうな匂いが空腹にしみる誘惑のホーロー鍋を横目に、着替えもしないまま、私はレーズンとくるみを刻みはじめた。
 オーブンから漂うシナモンやクローブのよい香りでいっぱいのダイニングを後にして、自分の机のスタンドをつけたときにはもう十一時を回っていた。さあ、原稿、原稿。
「ソシオグラムを生かして対人能力を向上させる」わけのわからない説明がなんとか形になったところで、今夜はもう終わりにしよう。明日はらん展だ。そこで思い出したのだけれど、そういえばもう随分とランに水をやっていなかった。暖房を入れているから、この時間でも大丈夫だろう。ジョーロにぬるま湯をくみ、慌てて水やりをした。そんなこんなですっかり目が冴え、眠られぬままにビデオを見る。三時だ。ああ、また夜更かしをしてしまった。自己嫌悪。

「もしもし」
 耳元に響きわたる電話のベルに起こされ、受話器を取ると鵜家やす子の声がした。雨戸を閉めずに眠ってしまったので、朝の陽射しがまぶしい。しまった、日曜日だっけ。
「私のほうは準備万端。そっちは?」
 日曜日の朝、天気がよければ自転車で多摩湖に行くことになっていた。隣の市に住む学生時代の友人鵜家が健康法のひとつとして日曜ごとに実践している早朝サイクリングに、私が便乗することになったのだ。雨や雪でのびのびになっていたけれど、今日は申し分のない上天気だ。こんな朝に緑のなか、岸辺で深呼吸をしたらどんなに気持ちがいいだろう。
 待ち合わせの隣駅まで三十分。そこから多摩湖まで四十分。往復二時間半のサイクリングは魅力的だけれど、今朝はとても自信がない。第一、布団から這い出してエアコンのスイッチを入れに行くのさえつらいのだ。多摩湖なんて地の果てに思える。
「ウヤ、ごめん。眠くて死にそう。またね」
「あっそう」
 そう言って切った鵜家の不満足気な声が耳に残り、本当に夜更かしはもうやめよう、と思った。
 二度寝するつもりで約束を反故にしたのに、すっかり目が覚めてしまった。私は仕方なく暖房を入れると、キッチンに食べ物を探しに下りた。晴れている分、いつもより寒い気がする。休みの日ののんびりとした朝食をベッドで楽しんでいるのだろう、家人はおらず、コーヒーの芳しい匂いのなかに、うっすらとバナナブレッドの香りが残っていた。
 そうだった、焼いたんだっけ、と私は昨夜のことをやっと思い出した。ホイルで包んだバナナブレッドをそっとあけてみる。プーンと良い香りがする。なんだか嬉しい。私はナイフで丁寧に切り分け、ラップで包み、とっておきのリボンをかけてからピンクの紙袋に収めた。なかなかいい出来だ。
 さあ、朝食、朝食。シリアルとミルクをボールに入れ、テーブルに置かれた私の分らしき目玉焼きの皿と朝刊をもつと、私は再び部屋に戻った。
 らん展の約束は午後一時、時間はまだ十分にある。出発前にひと仕事、昨夜の続きをやろう。
 その後ふたたび電話をして、待ち合わせ場所は御茶ノ水の本屋の三階、となっていた。会うのはひと月半ぶりだ。待ち合わせをしても、ちゃんとわかる自信がない。
 秘書なんて仕事をしているくせに、私は人の顔を覚えるのをこの世で一番の苦手としている。一生懸命努力しても、思い出すのは靴とか指の形ばかりで、肝心の彼の顔が思い浮かばない。人見知りが強いのも、きっとそのせいだ。一度で人の顔と名前が一致する人が羨ましくて仕方がない。
 正直にそう言うと、
「じゃあ、一時から一時五分の間に、三階のどこかにいるから必ず見つけること。もし見つけられなかったら……」
と、少々意味シンなことを言った。
 大丈夫かな。不安ながら昨夜プリントアウトした原稿の束をめくり、そのまま没頭した。

 すっかり春めいた陽射しを全身に浴びて外を歩くのは楽しい。
 御茶ノ水の駅を下りて三省堂までまっすぐ歩く。日曜日の御茶ノ水界隈はふだんの予備校生の賑わいもなく、ひっそりとしている。
 一時だ。三省堂の三階は社会科学と辞書の売場。ごちゃごちゃしてはいるけど、そんなに広くはない。とにかく、五分間で彼を見つけなければならない。ビジネスものや法律、経済関係の本があるせいか、サラリーマン風の若い男性が圧倒的に多い。あちらを見てもこちらを見ても、みんな本棚のほうを向いて、黙々と立ち読みをしている。ええい、まだ後姿で判断できるほどつきあいが長くはないんだからね。みんなこっち向いてよ!
 いない。
 端から端まで探した。時計を見ると、一時五分はとうに過ぎている。
 そうか。約束は一時だと思い込んでいたけれど、本当は一時半なんだ。私が聞き違えたにちがいない。なら、このまま待っていればいいわけだ。幸いにもここは本屋、しかもラッキーなことに目の前には辞書が並んでいる。私が書店で愛して止まない場所だ。
 待ち合わせは何階がいいかと訊かれて咄嗟に「3」と答えたのは他でもない、会うのが三回目だったからだけど、あながち意味のない選択でもなかったようだ。
 私は嬉々として辞書の山に突撃した。いつも通っている西武「リブロ」と違って、ここには『ランダムハウス第二版』がなんと八冊も積んである。さすがは天下の三省堂、それだけで嬉しくなってしまう。『商品名事典』『俗語辞典』『引用句辞典』『架空名辞典』『しぐさ辞典』……。やっぱり図書館とは違う。どれも最新版が揃っていて、気持ちよいことこの上ない。
 一時半になった。が、彼の姿はない。本当は四階の心理学コーナーにも行きたいのだけれど、この場を離れるわけにはいかない。遅れてきて、待ち合わせ場所に相手がいなかったら、帰ったと思うだろう、普通。仕方なくぼーっと待つことにする。
 本屋で待ち合わせることを教えてくれたのは学生時代のボーイフレンドだ。この手が気に入ってよく使ってきたけど失敗も多かった。「新宿マイシティの本屋」なんて五階にも六階にもある。しかも待ち合わせていた相手は、半年前になくなった一階の本屋のことだと思っていた。それでは一生会えない。
 さすがに不安になってきた。これはおかしい。さては日にちを間違えたか。いや、今日の第一目的はらん展だから、最終日の今日に間違いはない。では時間が違うのか。でも二時や三時にした覚えはない。だいたい、東京ドームが目的なのに、わざわざ御茶ノ水で待ち合わせをしたのは水道橋よりも食事をしやすいからで、ランチを一緒にすることになっていたはずだ。ということは、場所が違うのか。もしかして紀伊国屋? それとも書泉グランデ? どうしよう、右を見ても左を見ても、本屋ばっかりだぞ!
 これまでの短い人生経験から、待ち合わせが下手なことは十分自覚している。モアイとハチ公、新丸子と下丸子の取り違いなんてしょっちゅうだ。その昔、新宿に『インディージョーンズ』を観にいったときは、「文化シネマ1」を「ビレッジ1」だと思い込み、待てど暮らせど友達は来ない。隣り合うニ館で同じ映画を上映するなど夢にも思わず、スピルバーグとハリソン・フォードの人気のほどを嫌というほど思い知らされた。いけしゃあしゃあと取りあえずはそれぞれがいる劇場で映画を観、終わってから再び相手を待ったとは、友達も私もさすがの強者だけど、今日はそんなに気心の知れた人ではない。
 とにかく間違っているのはいつも私だ。
 困った。電話嫌いの私は、もちろ留守電などもっていない。どうみても御茶ノ水までニ時間はかかる相手はとっくに家を出ているはずだ。向こうにかけても仕方がないし、あちらは留守電だから、かければ記録に残ってしまう。
 どうしよう。らん展の入場時間は五時までだ。副社長からチケットをいただいた手前、まさか行かないわけにもいくまい。お腹も空いてきた。入り口で待ってみようかと思い、一階に下りてみた。
 店頭ではラヴェルの「ボレロ」がかかっていた。映画『愛と哀しみのボレロ』でのジョルジュ・ドンの踊りは素晴らしかった。あの長い映画の、ドイツの、フランスの、アメリカの、ロシアの、それぞれの人々の戦争にまつわる数奇な運命を語った後での、すべての思いを込めたような、あの踊り。この曲が終わるまではここで待っていてもいいや。
 信号が変わる度に、通りの向こうから渡ってくる人の群れに目を凝らす。せっかく久しぶりに会えるのを楽しみにしていたのに、今日はキャンセルかな。あーあ。多摩湖、もったいなかったかな。デイパックをしょい直すと、なかで紙袋ががさがさ音をたてる。あーあ。
 「ボレロ」はまだ続いていた。そうそう、同じメロディーが延々と続く曲だった。一時四十五分。冬の午後は短く、そろそろ日が傾いて薄ら寒い。遅刻魔の友達がいるお蔭で、待つのは慣れっこだ。だけど今日は会えなければ明日また学校で、というわけにはいかない相手なのだ。
 横断歩道のほうばかり見ていたけど、反対側にも目を向けてみると、電話ボックスが二つ並んでいた。他にすることもない、かけてみようか。でも、きっと留守番電話になっている。何も言わずに切るのは失礼だし、まず文句を考えなくては。ああ、だから嫌いだというんだ、電話って奴は。
 番号はまだ覚えていないので、手帳を見ないとわからない。電話ボックスの扉を閉め、デイパックを下ろして蓋を開けた。ピンクの袋がのぞいている。ため息が出る。
 トゥルルル、トゥルルル、……ブチッ。
「ただ今、留守にしております」
 はいはい、そうでしょうとも。さあ、メッセージを残しましょう、と身構えたところで、
「……ごめんなさい。二時ごろには着けると思います。ピィー」
 え?
 不意打ちを食らった私は、気がつくと声をあげて笑っていた。

 さて、二時まで自由の身となった。安心して四階を物色できる。やっぱりすごい、心理学だけで五棚もある。ああ、あった。アルバート・アインシュタイン医科大学教授の訳書。すかさず、著者の経歴を見る。しめしめ、これで課題もバッチリだ。
 二時になるのを待って、三階に戻る。あ、いたいた。そういえば、あんな顔だった。
「ごめん、ごめん」
 ぼさぼさ頭で彼が言う。二度寝をして、寝過ごしたらしい。すっかり満足している私は、自分はしそこねた「二度寝」という言葉を聞いてもぜんぜん気にならない。
「お腹すいた。なにをご馳走してもらおうかな」
「好きなものをどうぞ。今日は何でも言うことをききますよ、女王様」
「それ、やだ。王女様ならかわいいからいいけど」
「こだわるね」

 レストランを出て、線路沿いに歩く。意外に近い。
「電飾ツリーってどれのこと?」東京ドームに着くとすぐに、彼は訊いた。
 階段を上り、連れていく。五、六本の白い柱から放射状に枝が出て、電球がたくさんついている。昼間なので、もちろん電気はついていない。なんだか間が抜けた感じだ。
「え、これ? 木じゃないじゃないか」
「日中だからこんなだけど、夜はイルミネーションがすごくきれいなんだから」
「これじゃ、絶対にわからないよ。ここで待ち合わせをしなくて良かった」
 しみじみと言う。どこでも同じだったと思うけど。
「あれはツリーじゃないよ」自分だって、こだわるじゃない。
 まだぶつくさ言っている横顔を見ながら、一体どんな顔をしてあの留守電を吹き込んだのだろう、と私は思った。家は私のほうがいくぶん近い。彼が家に着いてテープを消してしまう前に、もう一度あのメッセージを聞こう。そう、それから。
 ……バナナブレッド、いつ渡そうかな。

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