ランを観にゆく
定刻の一時半はとっくに過ぎたが、副社長は会議のない午後は店に寄ってくるのが好きだ。読んでいた新聞をトントンと揃えてたたむと、ミス・レモンは立ち上がって厨房へと歩いていった。彼女は今し方、お昼の休憩に紅茶を楽しんだマグカップを左手に持ち、右腕にはサンドイッチの丸めた包み紙を抱えていた。
厨房はひんやりとしていた。二月の半ばの最も寒い時期とはいっても、建物のなかは暖房であたたかい。廊下の隅にある厨房だけが、ひとけなく、ミス・レモンは金属プレートの冷たさに、外の寒さを思い出した。
彼女は時計に目をやってため息をついた。「副社長、遅いわね」
もう二時近くになる。そろそろお出かけの時間のはずだ。
調理プレートの横にある黒いコーヒーメーカーをミス・レモンはつくづくと眺めた。フィルターに折り目をつけ、豆をセットし、タンクに水を入れる。このメーカーはフィリップス社製で、昨年、副社長が転籍してきたときに購入したものだ。以来、朝から晩まで大活躍している。副社長は大のコーヒー好きだ。
「もう、帰って見えるでしょ」
ミス・レモンは誰にでもなく呟くと、てきぱきとコーヒーカップとスプーンを揃えた。副社長は健康を考えて最近は砂糖を控え、ダイエット甘味料を内ポケットに携えている。ミス・レモンは冷蔵庫からミルクをひとつ取り出すと、スプーンの脇に添えた。
「今日は二時ごろ出かけます」
副社長は今朝、オフィスに到着するなりミス・レモンにそう言った。彼女は行き先の見当はついていたが、何も言わず、ただ「お戻りになりますか」とだけ尋ねた。
「いや、戻りません。今日はそれで失礼させていただきます」
「かしこまりました」
ミス・レモンは早速、運転手の控室に電話をかけた。副社長車の運転手はサトーという初老のベテランだ。人が良く、仕事はきっちりとしていて、安心して任せることができると評判の男だ。
「サトーさん、今日はやっぱり午後にお出かけですって」
「ほい」気のない、それでいて冷たくはない返事をして、サトーは「行き先は聞いてるの」と言った。
「ううん、聞かないことになっているのよ。でもね、多分、ラン展だと思うの。スミレ百貨店の」
ミッチェル・ジョー氏が副社長に就任したのは去年の株主総会の日だった。生え抜きの役員ではない。メインバンクから経営の建て直しを図るために派遣されて来たのだ。銀行からの役員の天下りが恒例ではない会社なので、周囲の反応は微妙だった。一部の心ない社員は「よそ者の世話になることはない」と公言して憚らなかった。受入れ体制は、大物を送ってくれるメインバンクに対して失礼のないように、万全が期された。オフィスはレイアウトに気が配られ、秘書を選ぶに当たっても慎重に調査がなされるはずだった。
ミス・レモンは当時、企画部付の役員の秘書をしており、その役員が退任するのでタイミングよく副社長の秘書に選ばれたのだった。あまり頭の良くはない人事担当者のお蔭で、ミス・レモンがそれまでどんな仕事をしていたかは全く考慮されずに秘書室への異動が決まった。企業の人事というものは、考えているようで、案外いい加減なものだ。
自分の経歴を考え、まさか秘書室へ行けるとは思っていなかったミス・レモンは首をひねったが、ありがたく恩恵に預かることに決めた。実は彼女は、担当していた役員の退任に伴い、どこかの営業部署へ飛ばされるのではないかと密かに心の準備をしていたのだった。自分は担当役員のこと、彼が在職中にしてきたことを知りすぎている。こんな人間を使ったら、守秘義務の原則に反してしまう。当然、どこかに葬り去られるに違いない。こんな風に考えていたのだから、すっかり気が抜けてしまった。
ミス・レモンがそうしたことを考えていたのも無理はなかった。彼女が前に担当していた役員というのは、前社長の右腕で、企画部門で辣腕を振るっていた。時世が味方をしてくれれば、彼の企画は花開くものだった。が、現実は厳しかった。不況、為替相場の暴落、リストラの風潮、……。すべてが裏目に出た。結果として、若い社長を快くは思っていない重役たちに囲まれ、会社を去らねばならない羽目に陥ったのだ。
役員室のドアがカチャッと開いて、副社長が昼食から戻ってきた。「やっと、お戻りだわ」とミス・レモンはコーヒーとホットタオルをトレーに載せ、副社長の部屋へ運んでいった。
今日は久しぶりに会長も社長もオフィスには来ていない。それぞれの秘書も休みを取っているので、普段とは打って変わって秘書デスクも静まり返っている。こんな日は電話も鳴らない。
「お帰りなさいませ」
「やあ、遅くなりましたね。ちょっと店の様子を見ておこうかと思いまして。今日は寒いのにお客さんがたくさん入っていて、売上もきっと良いですよ」
「さようでございますか」
ミス・レモンがにっこり微笑むと、副社長は満足げにうなずいて取り出したサッカリンを一錠、カップに放り込んだ。
「さあて、片づけて、そろそろ出かけますかな」
「はい」ミス・レモンは部屋の外の秘書デスクに下がり、社用車に電話をかけた。運転手のサトーは外出十五分前には車を出して、入り口で待機している男だ。
「サトーさん、予定通り、もうすぐお出かけです。宜しくお願いしますね」
「ほいよ」サトーに限って、約束の時間を忘れることは絶対にない。それでもミス・レモンはきちんきちんと確認の電話をした。秘書と運転手は特にコミュニケーションを良くして密に連絡を取り合わなければならない、大切な副社長の身体を任せるのだから、というのが彼女の持論だった。
副社長が派遣されることが決まったのは総会のひと月前、決算役員会を一週間先に控えた五月の晴れた日だった。マスコミで大物バンカーが投入されると実しやかに噂され、「知らぬは社員ばかりなり」の状態が続いていた。実際、こういう時は結局はマスコミが正しいことが多いのだ。ミス・レモンは連日、いろいろな新聞、雑誌記事のコピーを揃え、転籍してくる可能性のある役員のプロフィールを集めていた。ジョー氏が派遣されること、次いで副社長に就任する予定であることが報じられると、彼女はこの人物がなんだか自分に関わりを持つような予感がして、新聞記事を何回も読み返した。
「まさかね」
秘書としてすっかり身についてしまった自分の習性に気づいておかしく思ったが、そんなことをしても無駄だとわかってはいても最後まで情報を追いかけることをやめなかった。
異動のときに退任する役員のひとりから言われた言葉は今でもよく思い出す。あれは送別会だと言って飲みに誘われ、送ってくれた帰りの車のなかだった。
「僕はね、担当役員としてあの人とはつきあいがあったからよく知っているがね、あのジョーという人は数字しか信じない人だよ。食えないね。とにかく数字、数字。数字がすべてなんだ。僕はあんまりあの人は、……」
そこまで言うと、その役員は言いすぎたことにはっと気づいて口をつぐんだ。素面の時はめったに人の悪口を言う人ではない。酒を飲んで酔ってのでき事だった。
「数字しか信じない」就任以来、半年以上が経過した今、ミス・レモンはあの時の役員の言葉があながち嘘ではないことに気づいていた。就任直後、副社長は毎日二回、最新の売上表を用意するように言った。各部署の売上、利益率、在庫高、回転率なども詳しくチェックされた。
たたき上げの役員たちは店をまわり、顧客の様子を見て、肌で売上を感じる。副社長はそうではなかった。数字、数字。自分の判断材料は必ず売上であり、利益率であり、回転率であった。
財務知識があまり豊富でないミス・レモンの目には、こうした副社長の新しい傾向は驚異に映った。おまけにジョー氏はひどくせっかちであった。どこに行くにも小走りで、あっという間。見ているだけで、目が廻りそうなくらいなのだ。
勝手が違ってなかなか新しい人物に馴染むことができず、ミス・レモンは何とか副社長にもう一歩踏み込む手段はないかと悩んでいた。
夏休みの季節、就任したばかりの副社長には課題が山積みで、とうとう一日も休みを取らなかった。社長が出社する日は合わせて出社し、社長が休みを取る日は「代行がいなくては困るから」と休みを取らず。そうこうしているうちに、ほとんど無休のまま、夏は過ぎ、秋が過ぎ、そして冬も過ぎようとしていた。毎日、機械的にコーヒーとホットタオルを運び、会議の予定や進物を決定し、手紙を書いたりファイリングの命令を受けたりしているだけで、個人的な話をする余裕はなかった。
そんなルーティンワークの日々が変化を見せたのはほんの小さなでき事がきっかけだった。ある午後、いつものように食事から戻った副社長を迎えると、珍しく手に何やら買物袋をぶら下げていた。小売業企業の経営者になったとはいえ、四十年ものあいだ銀行員一筋にやってきた副社長は、やはり買物は苦手らしい。毎日のように店を見て廻っても、個人的な買物をすることは一度もなかった。あら珍しいこと、と顔に出しこそしないが大いに興味をそそられたミス・レモンは、副社長が化粧室へ席をはずすのを待ち、コーヒーカップを片づける振りをして、机の下に置かれた、社員章と同じロゴマークの入ったそのビニール袋の中をそっと覗いてみた。果たして入っていたのは白くかさかさに乾いた、干し草をぎゅっと丸めたようなものだった。
普通の女の子だったら、それが何なのか見当がつかなかったかもしれない。でもミス・レモンにはあまりにも懐かしい思い出のある代物だった。
水苔。昼食を済ませてから副社長がどこへ行ってきたのか、ミス・レモンはすぐに想像できた。屋上の園芸売場だ。こんなに天気がいいのだもの。きっとそうだ。でも不思議だこと。初めての記念すべき買物が洋服でも食品でもなく水苔だなんて。
いつも経営効率のことばかり口角泡を飛ばして力説している副社長が植木鉢を覗きながら花の手入れをしている姿はちょっと想像しにくかった。それに、水苔はカトレアや胡蝶蘭の植込み材料に使うのだ。本格的な園芸だ。
ミス・レモンはわずか三歳で母親を亡くした。記憶の片隅にかろうじて残っているのは、温室のなかで微笑みながらランに語りかけている母の姿だった。彼女はランを愛して止まなかった。突然の事故で最愛の妻を亡くしたミス・レモンの父親は失意のどん底に陥ったが、やがて彼女が残したランを育てることで悲しみを癒していった。
幼いころから色とりどりに咲き乱れるランの花に囲まれて育ったミス・レモンにとってカトレアや胡蝶蘭はひどく身近なものだった。親元を離れ、温室をもてずに暮らしている今はすっかりランとは無縁の生活を送っているが、自分がお腹にできたことを喜んで父が母に贈ったという、実家のあの素晴らしい温室のような部屋をいつかは自分でももちたい。ミス・レモンはことあるごとに思っていた。
副社長の家にはきっと温室があるに違いない。わざわざ会社で水苔を買うくらいだもの、きっと花が終わって植え替える必要のある鉢があるのだ。カトレアも胡蝶蘭も今の時期に花を咲かせるなんて、温室がなくてはとてもできることではない。どのくらいの大きさなのだろう。シンビジュームやデンドロビュームもあるのかな。もしかしたらオンシジュームやミルトニアなんかも。きれいだろうな。ミス・レモンはどんどん想像を膨らませた……。
ミス・レモンは自分の思い通りに事が運んでいることを思い、一人ほくそえんだ。実は今日の午後、副社長の予定が空いていたのは偶然ではなかった。スミレ百貨店からラン展の招待状が届いたとき、何とか行かせてあげたいとミス・レモンは考えた。そこで比較的スケジュールの空いている今日を選び、既に決まっていた会議や打ち合わせの予定を前後に振り分けて、時間をつくったのだった。これは誰が命じたわけでもなく、ミス・レモンひとりの策略だった。
フォンフォン、フォンフォン、……。
「はい、副社長席です」静寂を破るようにデスクの電話がなり、不意を衝かれたミス・レモンは少しどぎまぎしながら電話に出た。かけてきたのは総務部に席のあるサックスマン専務で、至急、副社長の判断を仰ぎたい件がもちあがり、これからすぐに伺いたい、という。
さて困った。副社長はもう外出してしまったと言おうか。伝言をつたえればきっとそのまま打ち合わせが始まることになる。せっかく苦労して今日の時間を作ったというのに。
だが、嘘をつくことなどできないことはミス・レモンにはよくわかっていた。秘書の勝手な都合や思惑で上司のスケジュールを調整してはならない。秘書倫理の第一条だ。
運の悪さを呪いながら、仕方なくオフィスのドアを叩いた。思った通り、副社長はすぐに専務を呼ぶようにと言った。
二、三分のうちにサックスマン専務はやってきた。部下を四人も引き連れて。専務の顔色から、これはただごとではないな、とミス・レモンは思う。三十分くらいで終わってくれればいいけれど。曇りガラスのドアを閉め、人数分のコーヒーを用意しようかとミス・レモンはなかの様子を伺ったが、早くも副社長の大きな怒鳴り声がしていたので、そのままデスクに座ることにした。
こんな土曜日に一体なんの相談だろう。ややこしい話でないといいけれど。ただでさえ今、副社長はクレジット部門の貸倒金の問題と、大株主対策、外商の架空取引にある子会社の清算と、火急の案件事項を四つも抱えているのだ。最後に日曜日に休んだのはいつだか覚えていないくらいだったし、これ以上緊急課題が増えてはとても身体がもたない。
取り敢えず、運転手のサトーに連絡をする。「ごめんね、何だか打合せが始まっちゃったの。お出かけは三十分くらい延びそうだわ」誰も三十分だと言ってくれたわけではないのだが、時間を決めなければサトーは当てもなく待ち続けることになってしまう。それではあまりに気の毒だ。
窓から射し込む明るい光を眩しく感じながら、スミレ百貨店に今日の副社長の訪問を知らせておかなくてよかったとミス・レモンは思った。先方のネス副社長の秘書、ミスター・ハーラーとは協会の会合のスケジュール調整などでしょっちゅう連絡を取り合う仲だ。今回のラン展はとても評判がよく、連日の盛況だ。もし役員さんが寄られるようなことがあれば前もって教えてほしい、失礼のないようにご案内するから、とミスター・ハーラーから電話をもらっていた。ミス・レモンは迷った。彼女には十中八九、副社長が今日行くことはわかっていたが、何も話されていないのに連絡を入れるのは越権行為のような気がしてやめたのだった。
フォンフォン、フォンフォン、……。また電話が鳴る。運転手のサトーからだった。ミス・レモンは時計を見た。二時半だった。
「ごめんなさい。まだ終わらないのよ。もう少し待ってくださる?」
「いや、お知らせしとこうと思ってね。奥さんが来てるよ」
え?
身上書を預かってはいたものの、副社長は家族のことなど一切話さないので、ミス・レモンは副社長にも「奥さん」がいることなどすっかり忘れていた。副社長の送り迎えをして朝晩会っている運転手のサトーはよく知っているのだろうが、ミス・レモンは夫人の顔も知らなかった。
大変だ。挨拶をしてこなくては。ミス・レモンは慌ててジャケットのボタンをかけ、手鏡で髪をチェックしてから、役員室を出てエレベーターに飛び乗った。ロビーと呼ぶにはあまりにもお粗末な一階に下りて、無人の受付デスクの前を通りすぎると、玄関のガラス越しに車の運転席から合図を送っているサトーの姿が見えた。指し示しているほうにはベージュのコートを着た女性が、ひとりぽつんとソファーに腰掛けていた。あの人らしい。
「あの、失礼ですが、ジョー副社長の奥様でいらっしゃいますか」
相手はにっこり微笑んで立ち上がった。カシミアらしい、たっぷりしたコートが目を引いた。丸い襟とつぼまった袖口が上品で可愛らしい。
「あなたがミス・レモンね。いつもお世話になっています。コーヒーを淹れるのがとても上手だって、ミッチェルがいつも話しているんですよ」
「ありがとうございます。今日はご一緒にお出かけでございますか」
「ええ、ミッチェルのことだから、きっと内緒にしておいたんでしょうけど、見つかってしまったわね」
「申し訳ございません。副社長は先程から急な打合せに入られて、もうしばらくかかりそうなんです」
「結構ですよ。私はここで待っておりますから、どうかお気遣いなく」
「申し訳ありません。すぐ終わると思いますので」
三時になった。ミス・レモンはハラハラしながらオフィスの扉が開いて打合せをしていた人たちが出てくるのを待っていた。あの寒いロビーで夫人が待っていることを思うと気が気ではない。
扉が開く音がして副社長が顔を覗かせた。ミス・レモンがほっとして笑顔を見せようとするより先に副社長は「悪いけどコーヒーをお願いします」と言ってすぐに扉を閉めた。
言われるままに厨房へ急ぎながら、これは困ったことになったとミス・レモンは思った。コーヒーを入れるということは、打合せはまだまだ続くわけだ。ミッチェル・ジョー氏の集中力には並々ならないものがある。一旦コトが起きれば、ほかのことはすべて忘れてしまうのだ。きっと夫人との約束など頭にはないに違いない。けれど緊急課題について喧々囂々やっているなか、まさか「階下で奥様がお待ちになっています」なんていうメモを入れるわけにもいくまい。
六人分のコーヒーをカチャカチャいわせながら何とか配り終えると、ミス・レモンは再びエレベータに飛び乗った。
「まあ、そんなこと。ああいう人ですからね、慣れておりますよ」
ミセス・ジョーはころころと笑い、それでは一時間ほど食品でも見てくると店のほうへ出ていった。その後ろ姿を見送りながら、夫婦は似てくるとよく言われているけれど、本当にそうだ、とミス・レモンは思った。ちょっとした仕草や話し方だけでなく、なんだか顔まで副社長にそっくりに見えた。似た者夫婦だ。あの会社一辺倒の副社長が会社を早引けして夫人と展覧会に行くとはね。それにどうやら私のことも家で話しているらしい。ミス・レモンは初めて副社長の温かみを感じたような気がした。
「やれやれ、すっかり遅くなってしまいましたな」
打合せは思ったより早く済んでしまい、書類を片づける副社長の傍でテーブルのカップを集めながら、ミス・レモンは階下で夫人が待っていたことを伝えた。しかしタイミングの悪いことに、サトーに確認してミセス・ジョーがまだ買物から戻ってきてはいないこともわかっていた。
「あのおばさん、のんびり屋だからな」
ミス・レモンには新鮮な言葉だった。サトーに売場まで探しに行ってもらうことも提案してみたのだが、そこまでしなくてもいいと副社長は言う。
「仕方がない。待ちましょう」
すっかり帰り支度ができて、ジョー氏は黒革の鞄をぶら下げ、とことこと部屋から出てきた。手持ち無沙汰の副社長を見て、ミス・レモンは思い切って話しかけてみた。
「ミルトニアがお店に並ぶ季節になりましたね」
ほう、という顔をして副社長は秘書をじっと見た。「ランに興味がおありですかな」
相手が話にのってきそうな気配を感じ、気をよくしてミス・レモンは実家の温室の話をした。副社長は彼女のデスクの背後でひょいと出窓に腰掛けた。短い冬の午後とはいえ、まだ辛うじて陽が射し込んでいる。温かく穏やかな土曜の午後の続きだ。
ミッチェル・ジョー氏は煙草に火をつけると、ぽつりぽつりと話し始めた。自宅の屋上には大きな温室があること。銀行にいた頃は毎年咲いた鉢をオフィスにもって行ったこと。転籍してから忙しくてなかなか手入れをする暇がないこと。実は今日は珍しい品種が集まると聞いて楽しみにしていたラン展に行くこと。
フォンフォン、フォンフォン、……。電話が鳴る。
「奥さん、戻ったよ」運転手のサトーだった。知らせを聞くや否や副社長は出窓から飛び降りて、鞄を手に走りだした。ミス・レモンは慌てて追いかけ、エレベータを呼ぶボタンを押した。
「あのおばさん、一体いままで何やってたんだ」ぶつぶつ言いながらも顔は嬉しそうだ。副社長はやって来たエレベータにちょこんと乗ると「そうだ、今度ひと鉢もってきますよ。ピンクのカトレアがいいかな。あれなら長く楽しめるし……」と言い残して下りていった。
「失礼いたします」
挨拶をしたままひとりエレベータホールに残され、ミス・レモンは頭の後ろで両手を組んでうーんと伸びをした。
「さてと」
終わりよければすべてよし。明日からまた頑張ろう、とミス・レモンは思った。そうだ、今夜はひさしぶりに父親に電話してみようか。きっと家の温室も今はいろいろな種類のランが花盛りだろう。母の形見のシンビジューム「ダイアナ」も美しい紫の花を咲かせているに違いない。
明日からもぎっしりの副社長のスケジュール帳をめくりながら、またいつか今日のような時間をつくろう、とミス・レモンは作戦を練りはじめた。□