| 感想は冷めないうちに〜読書日記 |
エリック・フォスネス・ハンセン『旅の終わりの音楽』村松潔訳、新潮社クレストブックス、1998年 (Aug 05, '00記)
| 1912年4月、タイタニック号が沈没したときの楽団のメンバーを描いた小説で、作者はニューヨーク生まれのノルウェイ人。本国での刊行は1990年、映画『タイタニック』が製作されるだいぶ前だ。 この小説は7人の楽師を描いている。バンドのメンバー以外は全員が実在の人物で、綿密な調査のもとに史実通りに用意された舞台の上で、7人のフィクションが進行していく。主として5人の物語が描かれているが、バンドのリーダー、ジェイソンとバイオリニストのアレックスの物語がいちばん心に残った。 ジェイソンの父親は医者で、家は貧しかった。ある日、天文学好きな父と音楽好きな母は大喧嘩の末、息子に望遠鏡とバイオリンを同時に買い与える。それがジェイソンのいちばん幸福な時代だった。一風変わったところのあるジェイソンは寄宿学校でいじめられ、インドに赴任していた両親は伝染病で死んでしまう。ジェイソンは父親の跡を継ごうと試みるが、医学をまっとうすることはできず、バイオリンを抱えて居酒屋で演奏する「流し」になる。 アレックスはロシア人で、生活のために酒場でバイオリンを弾いていた。そこでひとりの芸人に魅せられ、犯罪に手を染め、ついには国を追われてロンドンにやって来る。そしてジェイソンと出会い、二人は客船で演奏する楽師になる。幾度も同じ船に乗り、堅い友情が生まれた。ところが、アレックスは病に冒されていた。自分はもう長くはない、と告白され、苦悩するジェイソン。アレックス亡き後、自分はどうやってひとりで生きていけばいいのだろう? アレックスは最愛の弟に宛てて遺書のような手紙を書く。自分はあの芸人に魂を売り渡したのだ。18世紀の女帝、アンナ・イヴァーノヴナを知っているかい? 彼女は宮廷の道化がカトリックに改宗したのに腹を立て、その男ゴリツィン伯爵を卵を入れた籠の上に座らせて、ヒヨコが孵るまで鳴きつづけるよう命じたんだ。それだけでは飽き足らず、召使の女との結婚を命じ、氷の宮殿の、氷の寝室の、氷の四柱式寝台の上で、監視人の前で初夜を迎えさせたという……人が人の奴隷と化すことは、これほどまでに恐ろしいことなんだよ。 様々な過去をもって一つの船に乗り合わせた7人。今世紀はじめのイギリス、ドイツ、オーストリア、ロシア、そしてフランスで、彼らにそんな過去を負わせたものは一体なんだったのだろう。史上最大の豪華客船という華やかな世界の蔭に、この時代にヨーロッパで音楽家となることの悩み、苦しみ、痛みがあった。彼らは何かを夢見てタイタニック号に乗船したのではなく、自分が抱いた夢が破れ、傷ついて集まった同士だった。沈没が始まっても演奏を続ける彼らの胸にあったものは、希望でも諦めでもなく、言ってみれば一瞬のきらめきのようなもの――美しい音楽とともに、それは切なく、哀しく、長い長い物語を読み終えた後で余韻を残すものだ。 ところで、船が沈むときに最後に奏でる音楽は、作者の趣味でヘンデルの『ラルゴ』になっているが、これは悪くないと思う。実際には『ソンジュ・ドートンヌ(秋の夢)』というワルツだったようだが、ヴィクトリア朝時代以降、イギリス人がいかにヘンデルの作品を好んだかはいろいろな資料にあらわれている。 |