感想は冷めないうちに〜読書日記 

A.S. Byatt "A Lamia in the Cevennes" ("New Writing 5" Vintage, 1996) (Jun. 24, '99記) (May 05, '00追記)

【あらすじ】
 サッチャー政権下のイギリスに見切りをつけ、ひとり仏セベンヌに移り住んだ画家のバーナードは、絵を売った金で庭に青いプールを作る。機上から見えた南仏の青い色が彼を強烈に刺激したのだ。デヴィッド・ホックニーだけに許されるようなその「青」を理解しようと、バーナードは泳いでは考え、絵を描いてはまた考える。その問題に取りつかれていた彼は幸せだった。

 ある日、プールに異変が起きた。どこかおかしい。底に蛇の気配を感じる。バーナードは昔から蛇が大好きだった。想像するのを楽しむ日々を送っているうち、ついにプールで泳ぐ蛇を見た。驚いたことに人間の形をしていた。自分は魔法にかけられたレイミア(蛇女)だという。キスして結婚してくれたら、美しい女性の姿に戻れるの。長い間、あなたのような男性の出現を待っていたのよ。

 バーナードは女嫌いだったが、レイミアが泳ぐ姿は想像力をかきたてた。青の追求のために必要だった。そこで彼女の誘いをのらりくらりとかわしながら、プールにいさせる。彼はキーツの詩集に『レイミア』という詩を見つけた。

 ある日、レイモンドがロンドンから遊びに来た。レイミアに隠れているよう命じ、バーナードは友人と楽しい夜をすごす。朝になった。美しい女性がレイモンドと共に階下におりてきた。レイミアだった。結婚するのだといって、レイモンドと二人、カンヌへと出ていってしまう。

 バーナードは一人の生活が戻ったことを喜んだ。自分の絵が素晴らしく思える。いつの間にか青が解決できていた。次は何を追求しようか。テーブルで桃に蛾がとまっていた。バーナードはその光景に幻惑された。紫とオレンジが今度の相手だ。これから数ヶ月はこの問題にかかりきりになるだろう。彼は幸せだった。

【感想】
 画家をテーマにしたこの作品は色の描写が非常に多彩だ。そういえば、やはり絵画を主題にした『マティス・ストーリーズ』でも色の表現には目の眩む思いだった。たとえばセベンヌの気候が日によって違うことを説明する箇所では、

There were days of white heat, and days of yellow heat, and days of burning blue heat.

と、色で陽射しを見事に表している。川の絵を描くときには、

... there were dark green and dotted with the bright blue of the kingfisher and the electric blue of the dragonflies.

という具合だ。画家である主人公は目に映る物すべてを色彩で捉えている。

 一体、何種類くらいの色のバリエーションがあるのかと思わず数えはじめ、あまりの多さに止めた。バイアットは言葉に貪欲な人だ。使える語彙はすべて使わないと気が済まないようなところがある。そうした言葉に対する情熱がこの作品でも遺憾なく発揮されており、興味深い。

 さて、レイミアというのは神話では半人半蛇、キーツの物語詩では美女に姿を変えた蛇の魔女。ジョージ・エリオット『ダニエル・デロンダ』の冒頭でヒロインのグエンドーレンがやはりレイミアにたとえられる場面を思い出した。

 長篇詩から抜け出た色鮮やかな蛇が青いプールで泳いでいる、という構図には作者の緻密な計算がうかがえる。画家が生きる喜びを感じられる色とは、一体どんなものなのだろうか。

 文句なしで好きな作品である。

【感想2】

 『セベンヌの蛇女(レイミア)』をはじめて読んだのはたしかイギリスで毎年編まれている"New Writing"という短篇集で、この作品はその後刊行されたバイアットの短編集"Elementals--Stories of Fire and Ice"(1998)に収められた。去年、『すばる』2月号に邦訳が発表されたのは、おそらく前年の秋にバイアットが来日した際に行った対談をまとめるに当たり、花を添えたのだと思うが、特にこの作品が選ばれた理由はわからない。

 バイアットの小説には古典作品を下敷きにする《インターテクスチュアリティ》の手法が頻繁に見られる。『セベンヌの蛇女(レイミア)』はロマン派の詩人キーツの『レイミア』という詩が題材になっている。バイアットは蛇が好きで、たとえば『ゲーム』という初期の長編小説では、コールリッジの《循環する蛇》をモチーフに、姉妹間における食うか食われるかの強奪戦を描いている。

 《レイミア》はギリシア神話、あるいは伝説に登場する半人半蛇の妖婦で、これを使った作品は数多くありそうだ。文学の教養がある欧米人の頭に真っ先に浮かぶのが、キーツの物語詩『レイミア』であるらしい。日本の小説に《レイミア》あるいは《ラミア》が使われたものがあるのかどうか、興味があるのでこれから調べてみたいが、おそらくあまりないのではないか。類似したイメージに《人魚姫》があるが、子どもの血が好きな、まるで鬼子母神のような《レイミア》とは似ても似つかないものだ。

 『セベンヌの蛇女(レイミア)』を読んだときに私の頭に浮かんだイメージは、ジョージ・エリオット『ダニエル・デロンダ』のヒロイン、グエンドーレンだった。彼女は冒頭で登場する際、緑と銀のドレスを纏い、蛇のように首をくねらせる。それを見た賭博場の紳士たちは「まるで《レイミア》のようだ」と品定めする。1860年代のヨーロッパ上流階級で、《レイミア》は身近なものだったわけだ。

 バイアットは「最近の人は古典を知らない」と嘆いているけれども、この短篇を読んだときに英語圏の読者はキーツを連想するのかどうか。終盤に引用された『レイミア』からの10行で、初めてこの詩を知る私のような教養のない読者も、きっとバイアットの想定範囲に含まれているのだろうけれども。

 バイアットとアンリ・マティスとの関係は切っても切れないもので、中篇が3つ収められた『マティス・ストーリーズ』を見てもそれは疑うべくもないが、実はこの『セベンヌ〜』もマティスからの連想をもとに構想を膨らませたのではないかと私は思っている。作中、何度かマティスの名前が登場するほか、"Elementals"に掲載されたマティスの"Sirene"(1948)の絵が、そのものずばりのイメージをもっているからだ。セイレンは蛇女というよりは人魚だが。

 バイアットは息子を事故で亡くしている。そのことと直接関係があるかどうかはわからないが、ひどく憂鬱になり落ち込んでいたときに、美術館でマティスの絵を見て大いに慰めを得たことがあったと聞いている。『マティス〜』の最初の作品「メドゥーサの踵(かかと)」に掲げられた《薔薇色のヌード》の絵は、数年前に勤めていた会社で「マティス展」を開催した際に目玉となった作品で、毎日のように見に行った。あの絵からこんな作品が生み出されたのだと、感嘆する思いと、絵画の勉強もしなければバイアットの作品を理解するのは難しいという焦りと。なにしろ彼女は、ケンブリッジで美術史も教えていたのだ。にわか勉強ではとても太刀打ちできない。

 そして、蒔岡雪子さんがご自分の日記サイトに書かれた『セベンヌ〜』の感想を拝見させていただいて、デビッド・ホックニーの《青》にあたっていないことに気づき、反省。日記によれば、早速ネットで絵を探し、さらにイメージを膨らませられたとのこと、さすがである。

 サイト上で、《ラミア》なら、ドラクエ(あるいはファイナル・ファンタジー)で洞窟に宝を求めて行くと襲ってくる髪の長い色っぽい怪物として知られているのでは、とのご指摘をいただいた。早速、モンスター関係の事典をあさる。『幻想世界の住人たち』という本に詳しい解説が絵入りで載っている。たしかに「髪の長い色っぽい怪物」だ。なるほど、RPGのキャラクターの世界と文学作品の下敷きになっている myth を繋げて考えるとは、新しい視点に気づかせていただいた。

 それでは、とついでに《セイレン》の項も読んでみる。《セイレン》はここに描かれている絵の通り、女性の首をもった鳥のはず。ところが、『セベンヌの蛇女(レイミア)』についているマティスの「セイレン」の絵は、人魚。そして、英語の辞書で Siren は「半人半鳥の海の精」なのに、仏語の辞書では「人魚の姿をした海の精」。実はこの謎についてとりとめもなく考えていたのだが、この本を読んで少しだけヒントが得られた。

 ホメロスの『オデュッセイア』では、《セイレン》は単なる女性の姿だったそうだ。鳥のイメージが加わったのは古代ギリシア時代のことで、ずっと後に「羽をもった人魚のような姿」で描かれることもあった、と書かれている。ギリシア神話に詳しい人には常識なのかもしれない。これをきっかけに神話の世界の門を敲いてみるのも悪くない。

 そして、《セイレン》なら日本の小説にも頻繁に登場する。栗本薫のファンタジーの世界などがそうだ。折をみて『セイレーン』など読み返してみようと思いつつ。
 

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