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「かっぽれ」の起源につきましては、「かっぽれ」の名で記事がでた元治2年の頃と思われますが、 明治時代となり、「かっぽれ」は爆発的な流行となりましたが、歴史的な経緯もあり、社会的な地位も低く、歌舞伎などと異なり公的に認められたものではありませんでした。 例えば、明治17年5月3日付の東京日日新聞によれば、その筋から3日間にわたって「かっぽれ」の調査があったので、「かっぽれ」の関係者は「過日の角力同様、恐れある方様の御覧にも備わる訳かと一同にも相触れ、銘々その心得にて借金ども致し、衣服道具とも新調せし仕儀なるに、」謝礼は酒肴料だけということであったので、「就いてはこの金子は頂戴に及ばず、ただただ前条の願意を聞き届けられ、カッポレ社会の栄誉を、同業子孫万世に伝うるよう御取り計らい下されたし」と職業の栄誉を訴えたが、この願は叶えられなかった、と報道されています。 このように、「かっぽれ」を公(おおやけ)に認めてもらいたいとの願いは、「かっぽれ」誕生以来、特に明治維新以後「かっぽれ」を愛する人々の悲願でございました。昨年梅后流かっぽれが文部大臣賞を受賞いたしましたことは、たんに、梅后流「江戸芸かっぽれ」が「かっぽれ」の伝承普及に功績があったということを意味するにとどまるものではなく、その前提としての「かっぽれ」そのものが、文化行政の主務官庁である文部省から、伝統芸能としての位置付けを書面によって、公に明確にされたことを意味し、この受賞により「かっぽれ」は、「新生かっぽれ元年」を迎えることができたと思います。 元治2年といえば、西暦1865年で、4月7日からは慶応元年と改元いたしました年でございます。逆算すると平坊主23歳の時ということになります。仮に、平坊主が20歳(数え年)のとき「かっぽれ」を作ったとしても、今から136年前ということになります。 「かっぽれ」を作るきっかけとなりましたのは、天保の改革に際し、天保13年(1842)11月、願人坊主の住吉踊が禁止されたことにあると思われます。願人坊主の住吉踊については、弘化4年(1847)7月にも取締(『市中取締類集』)があり、この時は、願人坊主ではなく乞胸が、住吉踊ではなく豊年踊を踊ったものと弁明しています。このような状況のもとで、住吉踊以外の踊りが必要とされ、天保年間(1830〜1844)に流行った志摩の国の鳥羽節の囃子言葉を、囃子言葉にした「かっぽれ」ができたものと思われます。 平坊主の実弟が、明治・大正時代を通じて「かっぽれ」の名手として名高い初代豊年斎梅坊主で、大正13年11月には帝国ホテル演芸場で盛大に一世一代を行いました。
初代豊年斎梅坊主は、大正末期には太平坊と改名して、息子さんに二代目をゆずりましたが、昭和2年2月13日、74歳で亡くなりました。お墓は台東区谷中の長運寺にあります。 近く新しい世紀、21世紀を迎えようとしているこんにち、この栄誉にふさわしい伝統芸能、梅后流「江戸芸かっぽれ」として、その芸術性を高め、人々の心の豊かさの一助となる伝承普及に努カいたしますと共に、今後とも、地域社会ヘの貢献から、国際交流親善活動まで、幅広く出来得る限りの努力をいたしたいと存じております。 このベージをご覧いただきましたあなたも、梅后流「江戸芸かっぽれ」のお稽古に参加し、身も心も豊かに、共に、生き甲斐ある人生を歩んでみませんか。 |