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伯父貴逝く(040807)
| 3日(火)に長野・松本遠征から帰ってきてそのままほぼ徹夜。その後遺症から抜けきれないまま,4日(水),5日(木),6日(金)と,体調不良ながらも地道にルーチンワークを消化し,6日夜22時頃,「どあ〜,疲れたあ〜」とか言いながら,布団に横になったところで電話がありました。「伯父さんが危ないので病院に集合」とのこと。ツマと「行きたい」という中学2年の娘と慌ただしく病院へ。3人で伯父貴に励ましのエールを心の中で送った後,続々と親戚が集まってきて病室に入りきれなくなったところでツマと娘は家に帰しました。娘は翌日朝からバスケット部の合宿で本栖湖に行くことにもなっていましたし…。 |
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結局,伯父貴は,8月6日の23時50分に亡くなりました。この伯父貴は我が一族の「本家」の総帥として親戚中から頼りにされておりました。私の実家はその本家の隣にあり,子供の頃からこの伯父のすぐ下の弟である父の家族のわれわれは何かと世話になり,私達夫婦の仲人もしてもらいました。父の兄弟は11人兄弟。8男3女。私が子供の頃は,私から見て祖父も祖母も健在。この兄弟がそれぞれ結婚して子供をもうけ,正月に一堂に会する光景は,それはもう盛大なものでした。私達一族は祖父から見て20人以上の孫がある家族です。月日が経って祖父母も亡くなり,父も含め父の兄弟が少しずつ欠けていき,それでも毎年の新年会にはその他の親戚も含めて30〜40人が集まってきます。その中心が本家の伯父貴でした。
伯父貴は大工の棟梁。父の兄弟の一番下の叔父も大工で,私が子供の頃は亡くなった伯父貴と一緒に働いていました。その隣で父と父のすぐ下の弟は鉄工所をやっておりました。若いバリバリの「職人」の父やその兄弟に可愛がられて,私は本当に幸せでした。材木に「シュー」という音を立ててカンナをかけたり,大切そうにノミを研ぐオジサン達の姿は本当に格好よかった。もちろんね。鉄骨屋のウチのオヤジも叔父さんも「キーン」という金属音を立てて赤くなった鉄粉を飛ばしながら鉄板を切断したり,サングラスをして溶接したりで格好よかった。あの頃の父達の大きな笑い声や怒鳴り声が懐かしい。昭和30年の後半から40年前半ぐらいの話。ああ〜。もう〜。父が亡くなったときに「こんな思いは当分したくねぇぞお〜」と思いましたが,あれから約2年半経ったところで,です。あの思いを,今,おばちゃんやいとこ達がしていると思うとさらに胸が痛い。また心の中に大きな穴が空いちまった…。これはイッチョマエのオトナになるための大事なステップなのだろうけれども…。はああ〜。
7日(土)は,またまたほぼ眠れないまま,会社に。そのときはスケジュールは不明でしたが,いずれにしろ,通夜や告別式があるので仕事に支障が出てしまいます。会社に行って,それを最小にするために,できる限りの仕事を消化。上司や部下に事情を説明して,9日月曜は欠勤すると連絡。8日(日)通夜,9日(月)告別式。町のそこここでサルスベリがきれいに咲いておりました。本家の庭の,自慢の紅白のサルスベリも満開でした。
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