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家族は関係ではなく存在であった(040609)
佐世保の小学校同級生殺人事件をきっかけに,いろいろなことが頭をよぎります。小学生の娘同士がもともと仲が良かったのに,チャットや掲示板の書き込みなどによって,関係を悪化させ事件に至ってしまったのだということが強調されて報道されておりますが,それも一因なのかもしれませんが,我々が共通して持っている“危うさ”がポロッと表面化してしまうのがこうした事件や犯罪なのだとすれば,もっとずっと根の深いところで事件の原因が,それも複数の要因が重層的なものとしてとらえられなければいけないと考えます。当然それをとらえきるというのは無理であることもわかってはおります。しかし,最初から諦めてしまう(不確実なものを追い求めても仕方がないので)か,それでも事例の検討を重ねれば朧気ながらもそれらが見えてくるに違いないと考えるかでわれわれの得るものは随分違ってくることでしょう。親や教育関係者などは,この事件のことを重く受け止めて自らの問題として考えなければイカンだろうと思っております。まとまりのあることが書けるわけではありませんが,自分なりに思ったことをちょっと覚え書き。
子供の世界がかなり残酷で思いやりに欠けがちであることは昔からずっと変わりません。でも,これまで子供による殺人が今ほどそう頻繁にあったのだろうかということをまず知りたい。海外ではどうなのだろうということも…。また,それは置いておくとして,こうしたニュースを知ってしまえば同世代の親として衝撃は大きい。我が子が加害者になる可能性も被害者になる可能性もないわけではないからです。子供たちは小さな争いがあった際,親なり教師から,何より子供たちの社会の中で,許される範囲のようなものを学んでいきます。しかし,いま子供たちが生きている社会では,当然考えて然るべき「自分の存在を否定されたくない=他人の存在を否定してはいけない」ということが根づいていないのでしょう。今回の事件は,われわれ親世代にこのようなことが根づいていないことの反映と言えるのかも知れません。また,オトナの社会一般について言えば,これはアメリカの国際社会における振る舞いやそれに追従している日本政府を見ればわかります。年金法案の強行採決もヒドイものでした。ああいうことをする人たちを選んでいるのは他ならぬわれわれです。そのわれわれの子供たちがどのように育つのか。やっぱり。と思うと脱力します。我が家の子達は大丈夫なのか。信じてはいるけれど…。
被害者小学生の私と同じ歳の父親が,亡き娘への手紙を公表しました。そこに書かれているのは娘の不存在をどうとらえてよいのか戸惑う様子。あれを読んで,ふと頭に浮かんだのが『反省的家族論』の帯にあった“家族は「関係」ではなく「存在」であった”という言葉です。デカルトではありませんが,いろいろ考えるとよくわからなくなってしまうけれど,君がいないこと(いたこと)は確実なんだ…と。思えば私たちはこのように大まかに,周囲の人や事象を,直観的かつ身体的にとらえているのですよね。歌人の大西民子さんが離婚をした時の喪失感を歌ったとされる「モデルなどのありて描きしやルオーの絵の小人は前の歯が欠けている」なんて歌も思い出してしまったことでした。あのお父さんは奥様も亡くされています。そして今回さらにまたやりきれない『喪の時間』を過ごさねばならなくなってしまいました。はあ〜。生きていくってことは…。家族関係も含めて人間関係がうまくいっているときは最高なんですが,それが崩れてしまったときは,幸せだった分の何倍も辛い思いが襲ってくるものです。それに耐えて『喪の時間』を過ごした後は,心にポッカリ穴を空けたまま生きて行くだけ。新しい夢や友情なども心の中に入ってくるけれど,この穴はずっと埋まらない。
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