『政治家を疑え』高瀬淳一(090731)

 衆議院解散でございます。下はわが家の近所の書店での1コマ。「緊急出版!!」と書いてある帯付きで面出(めんだし)の陳列。業界ではメンチンとかいうんですな。メンゼンチンイツではありません(これは麻雀用語)。んなことはともかく,講談社さんがこの2冊を短期で大いに「売る気」であることがわかります。ワタクシも,“「緊急推薦!!」せなアカン”ってな気分になっております。

■『政治家を疑え』(高瀬淳一/講談社/本体:800円)

 高瀬淳一先生のご著書を拝読するのは『できる大人はこう考える』(080205)以来。高瀬先生はやっぱり天才だ。本書は名著です。いろいろツッコミどころはありますが…。何より書名がよくないのでは…とか。「“疑え”という以前に,そもそもたいていの人は政治家を信じてませんよ」と言いたくなってしまいます。それで本書を手に取る人が減ったらイカンだなあと心配になります。それはそれとして,高瀬先生のご著書ですから中身はとてもいいです。構成もしっかりしています。一般の人にわかりやすくするために「カタリ」という,およそスカした学者さんであれば使わないであろう用語まで駆使して,丁寧にいろいろなことを述べてくれています。

 今回(2009年)の衆院選だけでなく,わが国は趨勢として「落ち目」になってますんで,これからの政治的選択は,これまで以上にどんどん重要かつシビアになってくるでしょう(そういう意味でも本書は「腐らない」ですね)。高瀬先生のお言葉で言うと「不・利益分配」「不利益・分配」の時代(『「不利益分配」社会―個人と政治の新しい関係』〈ちくま新書〉)の選択であります。私たちは限られた価値について,たとえば年長者と若者のどちらに分配するのが適当か,生産者と消費者のどちらに割り振るか…など,かなりセコイ水準で,(正誤の問題でなく)政治的に決めていかなくてはならないんですね。本書を読むと政治を見る目が変わります。本書を読めば,確実にこれまでより内容(思い入れとかも)のある一票を投じられるようになります。ご参考に高瀬先生の文章を一本だけ引用しておきます。こういうことをおっしゃる方の本を読まずにすますのは,あまりに惜しいのではないでしょうか。

“政治にダメな点を見つけたら、すなおに「ダメ人間」の存在を想定したらよい。政治家の力にも限界があれば、それを選んだ有権者にもヌカリはある。そうした人間のダメさにため息をつきながら、「さてどうするか」と考えなければ、日本の民主政治はよくならないと私は思う。”(202ページ)

 話はいきなりやや脇へそれて…。本書を読んだ後,私はゴーギャンの《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(下)を見たくなってしまいました。

 S・モームの『月と六ペンス』(中野好夫=訳/新潮文庫)の中で,画家がタヒチで描いて焼けてしまった作品についての描写があり,私はその文章を上の絵について書いたものと理解しています。ちょっと引用。

「奇怪といえば,実に奇怪きわまるものだった。世界の創造,エデンの楽園,そしてアダムとイブ――とでもいったらいいだろうかな?――とにかく男,女いっさいの人間の肉体美への賛歌,あるいはまた荘厳で,非情で,美しくて,そのくせ残忍な自然に対する礼賛でもあった。ほとんど恐ろしいまでに,空間の無限と,時間の悠久とを思わせるものだった」

 もっと何とでも解釈可能。この作品から,人間を中心に見て,生老病死,老若男女,孤独と連帯,現実と祈り…なんてことを読み取ってもよいのでしょう。こんなもろもろのことの内外に,われわれの社会・政治がある…なんてことも。本書を読むと,政治…人間や社会のこと,についていろいろ考えさせられます。気になったところに付箋をはさんでいったら下のようになりました。ボウボウ。ほぼ付箋の意味ナシ状態。(^_^;)

 われわれ人間は「ポリス的動物」(ポリスってのはおまわりさんじゃなくて,社会ね)であり「産業連関」の網の中におり,一人で存在し続けることはできないんですね。よって政治と関わることは避けられない。「自身を知る」ために懐疑を繰り返し「われ思う,ゆえにわれあり」といったところまで考えを突き詰めても,結局,日々の暮らしの中では自分や社会に対する確信なり「心の準備」のあるなしに関わらず,外界と関係していかなくてはならないんですね。

 そんなわけで,われわれは,いろいろな社会の中心だか周縁に重層的横断的に属しており,さらに過去にも居場所があるじゃん,未来を想定することもできるじゃんなんて存在と時間といったことなども考え出すと,「何者か」すらよくわからなくなってきちゃうんですね。私の場合,「ちょっと待ってくれ,アタシは拠って立つべきアタシ自身のことすらわかってないんだからさ」と思い続けて50年(大袈裟ですが)。でも,当然,そんなアタシの内的な事情におかまいなしに万物は流転し,政治も経済も社会も時間もゴロンゴロン(コックリさん的に。何が原動力なのかよくわからない)動いていく,アタシもその場凌ぎに終始しているうちにそれなりにフケたりハゲたりしていく…と。

 みんなそうなんですね。どこから来て,どこへ行くのかわからないけれど,私たちは「日本丸」なり「宇宙船地球号」にいやおうなしに同乗している。

 で,政治家も国民も消費者も生産者も無謬でもなければ善人ばかりでもないけれど,よかれと思ったことが合成の誤謬状態になっているなんてこともよくあることなわけですが,でも,それら人間の業などのもろもろを踏まえた上で,われらのポリスをよりよくすることにみんなでコミットしようぜと,高瀬先生はおっしゃっているわけなんだと,私は理解しました(そしてそれはきっと〈真面目に〉「生きる」ということなんじゃないですかね。そんなことも頭をよぎったので,アタクシはゴーギャンの絵を確認したくなったような気がします)。

 フツーの人がちゃんとコミットしないと,政治屋だの既得権であぶく銭を貪る声のデカイヤツら(欲の皮がつっぱってるから熱心)だのや特定の思想信条を持つグループの意見が通りやすく(やりたい放題と言ってもいいかも)になってしまうのですな。民主政治ってのはそういうモンで,政治に参加しない「サイレント・マジョリティー」の意向なんて反映されないのがフツーだってことは,ちょっとした寄合なり会合で多数決なんぞをしたことがあればすぐわかることです。先生は,偽善者でも政策に関して無知な人でも,政治に参加する人のことは認めていらっしゃる。一方,政治に参加しない人については,ほぼ前提されていないように見えます。ここを書き出すとまた大部になってしまうので,今回は省かれた気がします。政治的影響力のない,こうした人たちの話は,この緊急時にはとりあえず「後回し」にされたのでしょう。この「無関心」については,岩波ジュニア新書あたりでご執筆いただきたい。

 今回の読書も勉強になりました。本当に考えさせられる記述が多く,また,タイムリーな読み物だけに,本書で検討されている「国民本位」とか「国民目線」とか「政策」とか「マニフェスト」といった言葉がテレビからバンバン流れてきて,ついテレビに見入ってしまったりもしました。「ホントだ。これこそカタリだ。内容がない」とか「ホンネが透けて見える」とかね。『嘘つきは鼻をこする』(岡村美奈)で学んだことを想起したりもして,本書を読むのには結構時間がかかりました。楽しかった。文化人類学的な記述や,あえてムズカシイ表現を避けて俗な言葉に置き換えたりする試みも含め,今後の高瀬先生の新たな方向の芽のようなものもいくつか感じられたのも面白かった。

 「あとがき」で,高瀬先生は“この本は「道化の戯言」と見なされることを覚悟して書いた”と,やや残念そうに書かれています。でも先生,「道化の戯言」も悪くないんじゃないですかね。ウディ・アレンみたいなことを言う政治学者って絶対格好いいですし,大作家だって純文学ばかり書いているわけではありませんもの。

 それに本書は面白いです。大学生に話すことも大事ですが,私のようなヨッパライ(ここ2か月はシラフですが)でも読めるこの分野の本ってそうそうありません。ぜひ,このセンも追求していただきたいです。この度はお疲れさまでした。どうもありがとうございました。

※そうそう。この本,サイズも面白い。新書変形判とでもいうのでしょうか。天地は新書サイズですが,左右が10ミリぐらい大きい。結構手になじみます。小柄な女性にはもしかしたら持ちづらいかもしれませんが…。


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