『何が終わり、何が始まっているのか』山田太一・福田和也 (080426)

 まったく申し訳ないことに,本書はどこかで「ご自由にお持ち下さい」となっていたもの。巻末の,山田太一さんと福田和也さんのプロフィールが載っていると思われるページ以降4ページが破かれていました。そんな次第で,いつ発行の第何版何刷という情報は不明。福田和也さんの「おわりに」の日付は平成10(1998)年6月6日。

■『何が終わり、何が始まっているのか』(山田太一・福田和也/PHP研究所/本体:1,143円)

 本書は,富士総合研究所の機関誌で6回にわたって掲載された対談をまとめなおし,加筆したもの。いつでも出せる,何というか「現代経済学」みたいなタイトル。それはともかくとして,まず,山田太一さんと福田和也さんの組合せというのが面白い。機関誌の編集担当者の嗅覚とかセンスなんでしょうね。失礼ながら爆発的に評判になるとは思えないけれども,渋いキャスティング。

 少し覚書。

山田 (前略)今,街にはいろいろな国から来た外国人がいるわけです。その現実の中でわかったことは,彼らの習慣とか言語とか宗教とかを全部理解して,「語り合えばわかる」という楽天性では,もうつきあえないということ。何かわからない部分はたくさんあるけれども,もうそれはしょうがない,一緒の社会にいるしかないなら,あるところで理解は断念して,認め合う以外にはないじゃないか,という方向になっているように見えるのです。
福田 
(前略)「わかり合う」といっても,論理でわかり合うのではなくて,お互いの胸襟を開いて「許し合う」に近いところがある。ですから逆に,「人間と人間は絶対にわかり合えないし,通じ合えない」という前提でコミュニケーションをする(65-66ページ)

→ちょっと全体の文脈から見るとインチキ的にカットしてますが,外国人に限らず,対人関係において,山田さんの「認め合う以外ない」や福田さんの「人間と人間は絶対にわかり合えない」という話は,わが家の子どもたちには“常識”。「たとえ親子でも夫婦でも,“わかり合う”なんてのは本来無理なんだ」と,20年以上も前,子どもたちには生まれたときからしつこく言ってきています。たとえば,「赤」と言ってもすべての人に同じ色で認識されているとは限らないのと同様に,「平和」と言ったときに,思い浮かぶものも人それぞれであって,その組合せで会話が成り立っているのである以上,「わかり合う」というのはまずあり得ないことで,「信じるかどうか」が大事なんだ…なんてことを言ってきました。よって恋愛は“大量の誤解の上に成り立った幻想”で,結婚・婚姻関係は愛し合っているから継続するものではなくて,“若い頃にした約束を守る”ということなんだ,なんてことも…。

 で,それを踏まえて,子どもたちが結婚するときに「この約束は2年ごとに見直す」とか“約束”したりして…。(^_^;) 長期契約と短期契約のリスクを天秤にかけるのね。そういう考え方を,我が家の子たちはきっとできるだろうけど,気がつかないでいてほしいなあ〜。On-Demand PartnerとかOn-Demand Childまでアリだかんね〜,今は。

福田 (前略)善悪ははっきり一応分けた上で,その上で人間は「善もするけど,悪もする」と受けとめるものであって,高いモラルというのは悪をいかに許容していくか,悪をいかに取り込んでいくかと考えることだと思うのです。(中略)生きていく上には毒も必要であって,やはり善だけでは人間はいられないわけです。そこで,いかにその悪を自分の中に取り込みつつ,それを昇華していくか。(97-98ページ)

→「善悪ははっきり“一応”」と留保をつけるところで,福田さんがマトモな知性の人だということがわかりますねえ。近頃はかなりフォーマル(テレビのコメントとか)なところでも,自分の頭の中はともかくとして理解できないことに「信じられない」とか,自分は生まれてから悪いことをしたことがないかのように「許せない」とか,恥ずかし気もなく言うのがアリですからねえ〜。

→福田さんのこのご発言に関連して,たとえば,光市母子殺害事件について,事件そのもの,その裁判・判決の推移などを報道され知った範囲内のことで考えるだけで頭がクラクラしてきます。「あの人は何故死なねばならなかったのか」なんて,ハナッから解答不能な設問をして苦しみたくはないわけですが,この事件についても,それに似た設問をいくつも立ててしまいます。福田さんの「悪を昇華する」という言葉は美しいけれども,おそらくあえて美化されているのだろうと思いますが,私はその美しい言葉の前の「『善もするけど,悪もする』と受けとめる」というところでじっと耐え,その場しのぎをしていくしかないのが,おそらく人の普通の,自然な在り方なのではないかと思います。“非論理”的な事象が,われわれが親しんでいる“日常”の中にかなりあって,そこで起こった事件を“論理”で裁かなくてはならない司法なるものには,そもそも“無理”があり“不自然”なのはほぼ当然だろうと思います。でも,重大な事件の場合には“人類普遍の共通の解答”とは思えないけれども,その時々の社会の1つの“調整”が必要なんですよね。これは“昇華”ではなく,どっちかというと“必要悪”に近いんじゃないかな〜と思います。一人ひとりに基本的人権なるものが認められる社会内では…ですけど。基本的人権的なものが認められない社会では,“必要悪”なんていうナイーブな表現はないのね。たとえば将軍様を頂点とする,「ヒエラルヒーの上位が決める善悪」があるだけ。

 本書で扱われているテーマは,大きく以下の6つ(6章構成)。

 第1章 「家族の崩壊」はほんとうか 
 
第2章 断念という美学の復活 
 
第3章 「善悪」という価値を超えて 
 
第4章 日本人の自我とは何か 
 
第5章 女性の「不機嫌」を考える 
 
第6章 日本人はどう生きられるか

 またまた失礼な言い方になってしまいますが,まるでラジオを聴いているかのような読書でした。フムフム,なるほど…の連発。

 それにしても,本書の成立から10年。今,それを読んでもさして違和感がないのはどういうことなのでしょう。10年後に読んでも大丈夫なぐらい本書が先見的だったのか,この10年,日本社会は大きな変化をしていないのか,私の感度がヘボイのか。3番目なんでしょうねえ。う〜。


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