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『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』小板橋二郎(080209)
本書は田村治芳さんの『彷書月刊編集長』という本で,「その面白さ,偏見をぶちかます,怒濤の筆力は,本書を読んでもらえれば,すぐわかる」(182ページ)と紹介されたもの。ついに読みました。
■『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』(小板橋二郎/ちくま文庫/本体:740円)
小板橋二郎さんは昭和13(1938)年,板橋の貧民窟(スラム)・岩の坂生まれ。私は昭和33(1958)年,板橋の隣の練馬区豊玉生まれ。
本書でも102ページに『どん底』の長屋のたたずまいが,当時小板橋さんが住んでいたところとそっくりだったという記述がありますが,私はこの貧民窟(スラム)の話を,黒澤明監督の『どん底』や『どですかでん』『酔いどれ天使』に出てくる集落のようなイメージを持って読みました。
また1960年代の中後半,私が小学生の時代には,まだ近所に「バタヤ部落」(リヤカーで廃品回収をするのがそこの住民の主な仕事のようでした/自分の親がリヤカーでゴミを拾っている姿を見る子供の気持ちを思うと胸がつぶれそう/また,子供が親の手伝いをさせられるときもあり,それを同級生に見られていたときの気持ちを思うとこれまた呼吸困難になりそう/さらに親の気持ちを思うと…)と言われるところがあり,そこの家々のつくりが,この本に出てくる長屋によく似ていました。私はこの「バタヤ部落」に,小学校に来ない同級生を「お利口な学級委員」として,何回か迎えに行ったことがあります。部落の中に入った途端,風呂に入っていない人間の匂いとほこりや鉄・木材などの匂いがブレンドされたような異様な匂いがするので,そこに行くのは大嫌いでしたが,おそらく岩の坂のスラムもあんな匂いがしたことでしょう。
しかし,確かに岩の坂はスラムではあったのでしょうが,私が小学生のときほどには,まだ一般家庭との「格差」が大きくなっていなかったのではないかと思います。一般家庭も戦中戦後のダメージから抜け出すのに精一杯だったのではないでしょうか。『一銭五厘たちの横丁』(撮影した桑原甲子雄さん,昨年12月10日に亡くなりましたね)を見ても,粗末なみなりの人が多いですし…。
この本や山高定三・城北肝友会会長の『我が八十年の波瀾万丈』を読むと,私が子供の頃の「バタヤ部落」(おそらく10世帯ぐらい)の人たちは,抜け損なった“最後の貧民”だったのかもしれません。同級生の親御さんは字が書けないというシーンを,私は見てしまったことがある記憶もあります。
例によって,ちょいと引用(165〜166ページ)。
スラムの子にはケンカがつきものだ。これは宿命のようなものである。
ケンカがつよく、できればカッパライができるくらいでないと、スラムの子は仲間のなかでいっぱしと認められないまま終始劣等感にさいなまれることにもなりかねない。いまの時代でいえば、試験勉強ができなければ落ちこぼれといわれて劣等感を持ちつづけなければならなくなってしまう事情とよく似ている。
わかるなあ。ケンカとカッパライの話。ここから先は,冒頭の田村治芳さんがおっしゃる「偏見をぶちかます,怒濤の筆力」のよい例なんですが,私にはそれがやはり“偏見”としか思えないのでここまでにしておきます。変な話ですが「生きる力」は,おそらくスラムで育った子のほうが,試験勉強ばかりしている子より強くなりますよね。私はこのところ“バカでも人とツルむのがうまければ生きていけるもんだなあ〜”と,よく思いますが,こういうことは試験勉強からは学べないんですよねえ。
どん底のスラムにも,悲惨なことばかりでなく明るくたくましい一面があったのだということを小板橋さんは何度もおっしゃいます。上昇志向一辺倒でなく,ダメなときにはスラムという“病院”に待避してもいいじゃないかとも「むすび」でおっしゃっています。また,スラム礼賛ではないですが,スラムですらこうだったのに,豊かになった今,どうしてわれわれの社会はこうなんだ? と,そんな声が後ろに隠れているような気もしたことでした。
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