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『人間は笑う葦である』土屋賢二(070926)
『棚から哲学』に続いて,土屋賢二先生。
■『人間は笑う葦である』(土屋賢二/文春文庫/本体:448円)
この本は,土屋先生のファンは必読! と言いたい。いつものようにおチャラケた読み物が中心とはいえ,少し先生が「本気」を出されたと思われる文章がいくつかあります。笑いに関する考察,そしてたとえば「ナンセンスの疑い」というところでは,
「何のために生きているのか」とか「いかに生きるべきか」とか「自分とは何か」といった(中略)深刻なみせかけと闘い,できればそれを笑えるような形にしてみせること,これが哲学の役割ではないかとわたしは思う。(242ページ)
なんてことをおっしゃっております。若い頃,こんな問題の答えを私もほしかった。それが得られれば,それを柱として「揺るぎない個」として生きていけると思ったのでございますねえ〜。
でも,その答えは探しても見つからないままでした。私の答えはいきなりやってきた。長女が生まれたとき。私は心の底から「この子をできれば幸せにしたい。少なくとも不幸にしたくない。できるだけのことをする」と思ったのでした。その後,長男(うれしかったなあ。男の子のオヤジになれたとき)と二女が生まれ,同じ思いを今も持っております(二女が生まれたときもメチャクチャにうれしかった。愛情には限度がないのだなあと痛切に思いました)。私の「できるだけのこと」のあまりのショボさや,怠惰さ,愚かさなんてことが子どもたちにはまったく申し訳がないのですけれども,親になったこと,一方的に愛する対象を得たことによって,私の身の回りは,それまでとまったく違って見えるようになり,私は,猛烈に「生きたい」と思ったのでありました。C型肝炎とわかったとき,親であり,子であり,夫であり,だれかの親戚知人友人である自分やビジネスマンとしての自分についても,かなりクールに考えられました。
人それぞれに上記のナンセンスな問いについての答えは違うでしょう。なので,これを一般化して笑えるような形で見せるという土屋先生のテーマは相当にムズカシイと思います。私の答えはそんなワケで,約50年生きてきて「人生イロイロ。さまざまな関係性の中で人は好きなように生きるしかない。好きなものもなく生きているのは,多分,ツマラナイだろうけど,ツマラナさを耐え難くはないと思えるなら,それもアリ。死んでなきゃ生きている」というところ。ヘッポコだけど,こんなふうに思えるようになったことは,私にとってはとても大事なことなのでありました。
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