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『異文化理解』青木保(070727)
最近読んだ本,『誤訳される日本』,『ベルリンの壁
崩れる』,『21世紀を生きる君たちへ』で見られた記述や,近頃の「認知行動療法・系統的脱感作法のお勉強」や「心理テスト」などへの関心との関係で,「文化」ということが,ちと気になっておりましたところ,この本と遭遇。
■『異文化理解』(青木保/岩波新書/本体:700円)
たとえばアメリカは何であれほどエラソ〜に,ほぼ疑問もないかのようにイラクを攻撃できたのかといった大きな問題から,私にとっては,日本国内の政治社会状況や社内の他の方々の行動がさっぱり理解できないと思われることが多いのは何故なんだろうという身近な問題まで含めて,「文化」について,特に理解しがたい文化にどう接するのかといったことについて,少しは考えておきたいと思っていたのです。グッド・タイミングというか,そんなことを思いながら書店の本棚を見ていれば自然に目に飛び込んでくるということなのでしょうか。ともかく,この本に巡り会えてよかった。
青木保先生は文化人類学者。私は山口昌男先生の著作などを通じて,お名前だけは存じ上げておりました。この4月から文化庁長官に就任されています。
この本は文化人類学の研究の成果を扱ったものではなく,カバーのそでに書いてあるように,青木先生の「文化人類学者としての体験や知見を平易に展開しながら,混成化する文化を見据え,真の相互理解の手掛かりを探る」という内容。簡単に言えば,文化人類学の大家が執筆した「異文化と接する際のガイド本」です。2001年7月発行。勉強になりました。
ちょっと引用。
ポスト冷戦下の状況は(中略),政治や経済を円滑に運ぶためにも文化が無視できない,(中略)換言すれば,イデオロギーではなく文化という切り口で世界を理解するということが,二〇世紀の最後の一〇年で大きな主題になってきたと言えるでしょう。(4ページ)
異文化理解には,大きな障害も存在します。それは文化が,非常に不合理なものであるということです。(15ページ)
人間関係でこじれた場合,あるいは政治,経済的な問題が起って紛争になった場合,文化が違うと,相手を排斥するような極端な形になってしまうことが多いのです。異文化理解が現代人の必須の心がけとなることの理由が,そこにあります。(118ページ)
ちょっと覚書。(142〜154ページ)
【コミュニケーションの三段階】…この3レベルが文化を形づくる
1.自然レベル(信号的なレベル)
人間ならばわかりあえるようなコミュニケーション
2.社会的レベル(記号的なレベル)
社会的な習慣や取り決めを知りさえすれば理解できる
3.象徴レベル
その社会特有の価値・行動様式・習慣・信仰
※1と2はだいたい対処可能。その社会にとっては3に最も大きな価値があり,その文化特有の現象として現れてくるが,このレベルはその文化に属さない者にとって,理屈や常識が通用せず理解するのが難しい。
もっと引用したい部分も,まとめておきたい部分もありますが,これぐらいにしておきます。個人が1人では存在できないのと同様に,文化もまた世界中で影響しあっており混成化している。文化(私はあえて個人レベルのアイデンティティとも理解したい)というと何か1つの,「純粋なもの」と思いがちですが,そうではない。一方で,グローバル化(愛国心の強要とかも同様)という画一化の動きもあり,それがまた,文化的相違を際立たせてもいる。地方分権についても私は同様に考えていいと思いますが,つまりは異なる(混成)文化同士で,お互いを尊重しつつ(一方を叩きつぶすというのでなく),いかにアンバイしていくか,気長にやっていくしかないという話。
それにしても確かに,「相手を排斥するような極端な形になってしまうことが多い」わけで,国際社会において,上記の【コミュニケーションの三段階】の1(殺し合いはダメに決まっているだろ)をベースにしようぜってことすら合意できないのが,悲しいですねえ。
青木先生は「自文化の発見」ということもおっしゃっており,それが偏狭な「自文化中心主義」に陥ることに注意しつつ,自文化を見直すことにより,異文化との連関も見えてくる,そこで「異文化理解」も深まり,また違った,今日的な異文化との相互信頼への道も開かれてくるともされています。これは主として中国や韓国などの近隣国を念頭に置いて書かれた記述ですが,「我が身」のあり方についても,随分考えさせられました。【コミュニケーションの三段階】の1と2をベースにしつつ,3については,気長に相手を観察したり自分から情報を発信したりしてやっていくしかないんですよねえ〜。この「気長に」ってのがまた,私の大の苦手項目の1つなのですけれども…。(^_^;)
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