『不惑の雑考』岸田秀(061008)

 どうやらご近所で,岸田秀先生の本を大量に手放した方がいらっしゃる模様で,3冊まとめ買い。まずは軽い,すぐ読めそうなものから。

■『不惑の雑考』(岸田秀/文藝春秋/定価:1,000円)

 この本のタイトルは,1933年(昭和8年)生まれ(母より1つ年上)の岸田先生が40歳代のときに書いたものが多いからとのこと(「あとがき」より)。内容は,「四十而不惑」のハズだが,ちっともそうでない,というお話。安心します。私の周囲には,確かに「不惑」のオバサンが少なからずいらっしゃるのですが,これが困ったモン(自分が間違っているかもしれないと少しも思わない上に,自分の意に添わないことがあると,キレる)なのですが,そんな人間になるくらいなら,まだ,オドオド・イジイジしていたほうが,人としてマトモなんじゃなかろうかと思います。

 この本では,岸田先生がさまざまなテーマに言及されています。文章が短く,簡潔なのがありがたい。オススメです。印象的だった文章を2つ抜粋しておきます。

 死んでしまったら何もないではないかというのは,生存を前提として自分の物語をつくっている人の言うことであって,人間においては,肉体的に生きているかどうかということよりも,自分の物語をもてるかどうかということのほうがその存在にとって基本的なことだから,死を前提として自分の物語をつくってしまった人には,そう言ったところで説得力はないであろう。(58ページ)
→「捕虜になって卑怯者・臆病者と呼ばれて生きるのは不本意なので死ぬことにする」とかね。こうなると死ぬことが生きるための「自己肯定」で積極的なアクションなんですね。いい加減な私は,生きることにそこまで思い詰めないでも…なんてことを思いますが(自殺について),真面目な人はそうはいかないんでしょうねえ。

 当人の勝手な思い込みを別にすれば,世の中にはどっちでもよくない問題なんかめったにあるものではない。ゴミ箱の残飯を漁らなければならなくなることがめったにないのと同じように。(中略)
 われわれ現代人は,ものに動じない主体性をもたなければならない,人の意見に同調せず,人の顔色なんか気にせず,自分の意見を堂々と発表しなければならない,自分の権利を堂々と主張しなければならないという強迫観念に駆り立てられているようである。(中略)
 そろそろもう,近代以来われわれが囚われてきた自主独立の主体的個人という愚劣な人間像への愚劣な憧れは捨ててもいいのではなかろうか。(134-135ページ)
→大学の先生のように生活が安定していて知的レベルの高い方々の社会だと,こんな感じなのかなと思いました。しかし,私の暮らす「俗世間」では,特に昨今,ホントにホッブズのいう「万人の万人に対する戦い」という社会観が妙に妥当しないかい? と思うことが多いです。「愚劣な人間像への愚劣な憧れ」といった一段高いレベルの話でなく,まさに「ゴミ箱の残飯を大勢の人で漁る」状況です。私たちは贅沢をしなければ生きていける環境にはあるのですが,贅沢をしなければ生きている意味がないという「強迫観念」に囚われている気もします。欲望には限度がありませんから,ともかく多くの人が,より多くの収入を得て,贅沢をするために戦っているという感じです。

「金で買える贅沢」ばかり追求してナンボのもんじゃいと思いますが,一方で,携帯も持っていない人と仕事したくないとか,メールを送受信できない人とは付き合いづらいとか,社会的連関の中で他者との関係性を維持するために必要な資本が,各家庭にこれまで以上に必要になっており,その水準はどんどん切り上がってきているとも思います。そんな戦いや追っかけっこからは,私も一刻も早くリタイアしたいものでございます。


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