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『知の祝祭』山口昌男(050111)
またしてもヤフオクで購入した本。今頃山口昌男先生にハマるってのも30年後れで何ですが,面白いんだから仕方がないです。「いい刀は鞘に入っているものです」と山本周五郎原作の黒澤映画『椿三十郎』で,ノンビリした高貴な奥様(城代家老の妻〈入江たか子〉)がおっしゃっておりましたが,いい本は函に収まっているものなのかも。この本は函に収まっており,本そのものもしっかりした造本。でも造本家,装幀者の名前はどこにも書いてありません。多分,函のイラストは山口先生のスケッチだと思いますが,それも明示してありません。何だか「本気」の硬派な本。活版印刷。221ページに文字の転倒がありました。よく「活字文化」なんて言いますが,「活字」を使うとこういうことがあります。文字を1字1字植字職人さんが埋めていくから,逆さになることもあるんですね。編集担当の方にしてみれば,印刷所の方にとってもそうかもしれませんが「痛恨のミス」。素人でもわかる失敗。とはいえ「活字」がほぼなくなった現在,こういうのを見ると逆に懐かしい。古いものやコトを大事にされる山口先生ならきっと許してくれるでしょう。
■『知の祝祭』(山口昌男/青土社/定価2,200円)
この本には,山口先生が昭和48(1973)年〜52(1977)年に書かれた文章が収められています。昭和48年というと私は15歳。高校に入った頃。カミュの『異邦人』を読んで頭がクラクラしたショックを引きずりつつ,遠藤周作先生の本を読み漁っており,部活動でレスリングをしていた頃。山口昌男先生の本と出会うチャンスは,身辺のどこにもなかったような気がします。おそらく,たとえそのチャンスがあったとしても,“人類ではなく,私自身の,存在し続ける根拠のようなものがほしい”…と思っていたので,「文化人類学者」さんの書かれた本はパスしてしまっていたことでしょう。
帯の「文化と反文化の弁証法」というコピーはなかなかだと思います。この本の一番面白いところは,2項対立の中から弁証法的にあるものが生まれ,その新たに生まれたものと別のものとの2項対立がまた生まれ,あるものは廃れ一方で新しいものがどんどんできてくる。人は閉塞状況には耐えられず,新しいもの(閉塞状況を打開するもの)を生むために対立項の存在を必要としているという部分です。山口先生はこれを,「中心と周縁」という概念で整理されるわけですが,これが確かにいろいろなところ(各国の風習,制度,演劇,絵画など)で構造的に見られるというのは面白い。その実例の分析によって浮かび上がってくるダイナミズム・構造に感動します。オススメです。元気が出ます。異端でいいじゃんかあ。トリック・スター(ま,私はなれてもトックリ・スターでしょうが)的でいいじゃんかあ,なんてね。
この本を読むと,たとえば「対立のないところには澱んだ平和があるだけ」だが,人はそれに耐えられないので,仮に平和に見えるところでも,「異端」を想定することによって「現状」と対立させ,異端を排除することによって,さらに「強化された現状(強化された澱んだ平和)」を生んでいるといった図式を思い浮かべることができます。こんな風に考えると会社でも学校でも「イジメ」があるのは構造的なことなんですね。ある集団の中で1つの価値を強調しようとすればするほど,「イジメ」は陰湿に巧妙になっていくような気もします。管理の行き届いた会社とか学校とか…ね。ヤダヤダ。
そうじゃなくって,「異端」を認め,「明るい対立」を顕在化・発散・昇華させるような「祝祭空間」的装置・制度がうまくできている社会であれば,それはそれで活気はあるのでしょう。安定的ではないかもしれませんが。モノサシ1本ですべてを評価しようとする人がいたとして,その人には重さはわからないってことをみんなが知っている社会というイメージでしょうか。うーん。なかなかムズカシイっすねえ。私たちは「安定」に耐えられないけれど,「不安定の継続」にも耐えられないんですよねえ。
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