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『偶然性と運命』木田元(030524)
| 先日,ここ2年ぐらいの間に発行された岩波新書で読みたい本があったので書店に行きました。目的の本は見つけられませんでしたが,『闇屋になりそこねた哲学者』の木田元先生の新書を発見。“これもご縁かな”と思って購入。加齢とともに何だかこの“ご縁”などというものを言い訳にするケースが多くなってきました。その後,目的の本は書店を3件回っても発見できず。うーん。岩波新書なのに。もしかして岩波書店さんはピンチなのか? その本についてはいったん諦めることにしました。 |
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■『偶然性と運命』木田元/岩波新書/本体680円)
〈運命〉なんて,はなっから信じる気はないし,信じるとしたら努力する甲斐がないじゃんと思って来ました。それでも“これもご縁だな”なんて考えるケースが(言い訳に使うケースがほとんどとはいえ)多くなり,この歳になってくると確かに「一期一会」の“ご縁”は若い頃に比べれば随分大切に思うようになってきています。しかし,この“ご縁”について考えることはしないでおりました。普通そうですよね。
ところが,木田先生はそうではありませんでした。この本は2001年4月発行ですが,あとがきで『偶然性の問題』について30年も前に考えてみようと思い,新書を書く約束をしたが挫折したと書かれています。その後も数度の挫折を経て,今回,ようやくこの問題についてまとめられたとのこと。〈運命〉〈偶然性〉などについて考えてきたのは,木田先生だけでなく,ショーペンハウハーやヤスパース,ハイデガー,日本では九鬼周造なども言及しており,その他ユングやドストエフスキーなどの話も交えて,「オチのつけられないことがはじめから分かっている本」だけれども「この種の現象の一部に光を当て」「幾分かは問題の整理もできた」ので,「エッセイでも読むつもりで」読んでほしいとのことです。
残念ながらよくわからないところも多々あり,そういうところは飛ばして読んでしまいましたが,私なりに随分勉強になりました。
木田先生は運命的に感じられる〈出逢い〉(先生は「出会い」でなく「出逢い」という用語を使っています。これは偶然性の強調と思われます)について,ハイデガーの『存在と時間』に触れつつ,このようにおっしゃっています。
深い情動をともなうその出逢いをきっかけにして,これからこの人と共に生きてゆきたいという未来への企投がそこでおこなわれ,それとともに過去が反復され,いわば生きなおされて,外的で偶然的なものとしか思われない現在のこの出逢いが,あたかも自分のこれまでの体験の内的展開の必然的到達点であるかのように過去の体験が整理しなおされ,再構造化され,意味を与えなおされる。そして,この出逢いのおこなわれた現在がある特権性を帯びて見えてくる,ということなのではなかろうか。(16ページ)
上のことに関連して,ハイデガーの〈時間性〉についてこのような説明もしてくれています。
一般に事物はそのつどの現在に存在しているだけだし,動物もそのつどの現在を生きているだけであるのに対して,人間はこのようにおのれを時間化し,〈現在〉〈過去〉〈未来〉といった次元を開いて,そこにまたがって生きている。人間は〈現在〉を生きるとき,〈未来〉や〈過去〉をも共に生きているのである。(22ページ)
過去・現在・未来を生きる人間同士が〈出逢う〉ということに関して,メルロ=ポンティの『知覚の現象学』から,以下のような文章も引用されています(『知覚の現象学』1/みすず書房/22-23ページ)。
現象学的世界とは,なにか純粋存在といったようなものではなくて,私の諸経験の交叉点で,また私の経験と他者の経験の交叉点で,それらの経験のからみ合いによってあらわれてくる意味なのである。したがって,それは主観性ならびに相互主観性と切り離すことのできないものであって,この主観性と相互主観性とは,私の過去の経験を私の現在の経験のなかで捉えなおし,また他者の経験を私の経験のなかで捉えなおすことによって,その統一を形成するものである。(156ページ)
この引用についての補足として木田先生は次のように述べられています。
また長い引用になってしまったし,運命の話とはかけ離れてしまったが,それぞれが偶然なさまざまな経験がどのように組織され,そこからどのようにして一つの〈意味〉が立ちあらわれてくるかをうかがう一つの手がかりとはなろう。〈運命〉というのも,間違いなくもろもろの偶然な経験を貫く一つの〈意味〉の出現を体験したときに感じられるものなのだから。(156ページ)
私が吸収できた考える材料は,恥ずかしながら,僅かに以上のようなものでして,偶然性に〈意味〉を与え〈運命〉と位置づけるのは私であり,私とは,現在ただここにある自分でなく,〈過去〉〈現在〉〈未来〉を生きており,かつ日々「他者の経験を私の経験のなかで捉えなおしている」存在ということなんだな…と理解いたしました。賢明な読者であればもっと多くのことを吸収できると思います。ご一読をオススメします。
本文中のどこかで〈偶然〉ということについて,よくわかりませんでしたが面白かった議論があります。一応,Aさんが合目的的に行動して(本人にとっては内的必然として)ある時ある場所にいて,Bさんも合目的的に行動して(本人にとっては内的必然として)ある時ある場所にいたことによって2人が出逢う。これは偶然か? 必然=運命かも…という話です。これらを足し合わせたものが社会の運動だとすると,何となく運命(アダム=スミスの「見えざる手」はどうなのでしょう?)ってあるんじゃないのかという気もしてきますが,上のように「私なるもの」を捉えると,私自身はさまざまな〈出逢い〉によって刻々と偶然性に〈意味〉を与えつつ変化(自己を再統一)しており,かつ私を取り巻く社会の変転(人間以外の自然などの影響)を考えますと,1人の人間の「内的必然」など彼がそこに在ることの僅かな要素でしかないと思います。我々の周りには「偶然なんてない」(=運命というものがある)どころか「偶然ばかり」なのだと考えるほうが妥当ですよね。やっぱり。
さてさて,で,偶然性と運命については,私なりに一応の理解をして,さて,これからどうするべ…なんですが,木田先生は「プラスに働くものであれ,マイナスに働くものであれ〜(中略),出逢いを出逢いとして成り立たせる程度には自分を開いておく必要はある」とおっしゃっています(200ページ)。そして最後に,「自分の言葉で書くのは少し気恥ずかしいので」とされた上で,以下の言葉を置いてくれました。森有正『ドストエフスキー覚書』(149ページ)からの引用。
邂逅! それのみが真実を開示する。人間の新生も,死よりの復活も,偉大なる邂逅として以外には絶対に把握されない。ドストエーフスキーの全作品に満ち充つる人間の苦悩は,人類を救う偉大なる現実の邂逅へ,終末的に,指向されているのである。かれは絶望している。しかも絶望していない。(200ページ)
木田先生がここでおっしゃっている〈出逢い〉は,「特権性」を帯びてくるところのものでしょう。自分を閉じたらつまらないし,変化も成長もないんじゃないのかというお話だと思います。そして,森有正の引用では,いろんなものと出逢いましょうってなことがオススメされてます。
「邂逅」「死よりの復活」。これについては,山口昌男先生のおっしゃる〈祝祭空間〉〈儀礼〉〈周縁と中心〉といったことも念頭に置いて読みました。「終末的に,指向されているのである」。これはずっとこれからもそのままなんでしょうね。そういう状況に置かれながら,私たちは,少なくとも私は,絶望しかかっているけれど,絶望しているわけではないってところで日々生きているという感じです。
余談ですが。森さんの「彼は絶望している。しかも絶望していない」という文章は気持ちは伝わるけれど,国語の先生に赤字を入れられそう。こういう文章に出逢ったとき,機械的に「この文はよくない」と言ってしまう先生でなく,「これもアリだぞ」と説明してくれるような先生に我が子が出逢っていることを祈ります。
25年前に腕相撲をしたことのある木田先生の本を約1か月前に読み,さらに,約1年半前に知った山口昌男先生(2001.11.18)のことも思いつつ,今回再び,木田先生の本を読みました。これも〈出逢い〉ですよね。あの酔っぱらって腕相撲をしたことが,今になって新たな〈意味〉を持ち始めているという感じです。木田先生のご存じないところで。山口昌男先生についても,ご本人のご存じないところで私の手助けをしてくれているわけで,不思議というか味わい深いというか,生きるってことは何だかおもしろいですね。
木田先生や森有正のいちおうの答(というか〈出逢い〉〈邂逅〉についての結論)は,かつて新潮文庫で読んだカミュの『異邦人』から『ペスト』に至る流れに似ています。手元に『ペスト』がないので不確実ですが,カミュは不条理な存在としての人間の生きていく支えを“連帯”に見いだしたと記憶しています。そういえば,カミュもキルケゴールやドストエフスキーのことを書いていました。こうして見ると,私だけでなく木田先生も山口先生も森有正にしても,皆さん先人から学んだことを踏まえていろいろ述べられているわけで,こうした歴史的社会的自然的な〈出逢い=邂逅〉が縦横に織りなす構造の中で,自分が生きて在ると思うとますます不思議な気分になりますよね。
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