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ビデオ:『カッコーの巣の上で』(030316)
山口昌男先生が『病の宇宙誌』で語っておられた『カッコーの巣の上で』をレンタル・ビデオで観ました。
■『カッコーの巣の上で』(1975年/監督=ミロス・フォアマン/主演=ジャック・ニコルソン)
何と28年も前の作品だったのですね。これ。ということは,私が高校生の頃の作品なんですね。中学生のときは池袋の文芸座という古い映画を安く(100円とか150円だった気がします)提供している映画館によく行っていたのですが,高校生になってからはクラブ活動でほとんど行けなくなり,その頃の作品。アカデミー賞を受賞したことは知っており,いつかは観るだろうなんて思っていたのですが,はあ〜,あれからそんなになるんですねえ。参るなあ。主演のジャック・ニコルソンについては,私の分類だと,ダスティン・ホフマン,アル・パシーノに次いで,似たような顔の俳優さんが売れてきて,でも段々人相が悪くなってきたな,なんて思っておりました。この人の作品を見たのはこれが初めて。多分。テレビでも観たことがない。なるほど役者さんらしい役者さんで,アクが強くて,いまさらですけど好印象でした。黒澤映画で三船敏郎が演じた水爆恐怖症のオジサンを思い出しましたけど。
山口先生の本で概要がわかってしまっており,もちろんそれを承知で観たわけですが,すっかりその文脈で鑑賞。理論と実践みたいな形になり,映像や音などの技術的なことはわかりませんが,何だかこの映画を理解してしまった気分でございます。
ヒッチコックの映画みたいに,精神病院の美人の看護婦さんが怖い(不気味ではないんですが)。逸脱しないことをモットーに生きているような人って多いですが,この看護婦さんはそういう人。悪い人でなく真面目なわけなんですが,何で真面目でなくてはいけないかについては深く考えることをやめています。秩序=善という「信仰」をお持ちのようでもあります。「規則ですから」「皆さんにそうしていただいてますので」なんてことで物事を割り切っている人(いつも凝った決まった髪型をしているというのが彼女の性格を表していてウマイです)。こういう人と日常接することになってしまった,陽気で品がなくちょっと知性に欠ける患者(精神的に異常がないかどうかを判定するために行動観察をされているという設定ですが)がジャック・ニコルソン。この映画全体を見渡すと,管理好き・管理され好き人間で構成される“機械的に安定した社会”の中に入った異邦人の物語というところでしょうか。我が身とダブる。私のサラリーマン生活も似たようなものでございます。そういえば,草野厚先生もパイプオルガンの旅(●近頃の読書『癒しの楽器 パイプオルガンと政治』)では,たびたびこういう“真面目な人”“官僚的対応”に苛立っておいででした。
この映画は(先に原作があるようなので映画と言ってはいけないかもしれませんが),こういっては何ですが,こんな“小ネタ”で2時間持たせている作品です。しかし,通常やり過ごしがちな“小ネタ”も実はその奥行きは深いゾと考えさせられます。身長が2メートル以上はある,上の写真右のインディアンがかなりいい味を出しています。
不正確ですが,「俺のオヤジは本当に大きかった。だから,いじめられた。自分たちよりデカいインディアンを許せないって,ひきょうな奴らがいじめぬいた。オヤジは最後はアル中になって死んだ。お前も大きい(身長でなく人間としてのスケールが)。いまのお前は,奴ら(看護婦やその手下の看護人)に(オヤジと同じように)目の敵にされている」なんてことを言います。
山口昌男先生の『病の宇宙誌』223ページにはこんな文章が載っています。「私がぞっとするのは,凡庸なるものの防御装置としてのあらゆる形をとった文化・政治的機構,そしてこうした機構に身を寄せる者の凡庸でないものへの憎悪の構造とその相貌である」。
ふと気がつけば,キリストはこの「凡庸なるものの防御装置」と多くの人々の「凡庸でないものへの憎悪」によって殺されたのでありましょう。ずーっと昔からこういうことを克服できないでいる人類社会って何なんだろうかと思わずにはいられない。
そして人々を一瞬覚醒させるトリック・スターは,その生け贄の役目を終えたら消え,贖罪を終えた(気分になった)人々は再び集団的半狂気の世界へ戻っていくのであります。やれやれ。何だか。どうも…。黒澤明の『生きる』もそうだった。そういえば。
この『カッコーの巣の上で』の結末は,ちょっとキリストや「大きなインディアン」の話とは違うものになっています。美しいシーンで終わります。いちおう…ですが。
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