「サマリヤの女」     ヨハネ4:3-14

2005/10/02 鈴木 靖尋牧師

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 本日登場します、サマリヤの女はわけありの女性でした。演歌では、だいたい女性が捨てられ、「女のさだめねー」と、涙を流すのが相場です。しかし、サマリヤの女の場合は全く逆です。彼女は、男性を5人も取替え、今、他の男性と同棲中です。まるで銀座のママさんみたいです。母教会の大川先生は、「男を手玉に取った女」と題して、この箇所から説教されたことがあります。普通、サマリヤの女は身持ちの悪い、薄幸の女性と言われたりします。しかし、男を手玉に取るからには、よっぽどの美貌、知性、魅力があったのではないかと想像することもできます。きょうは、サマリヤの女がイエス・キリストと出会って人生がまるっきり変えられたというお話です。

 

1.サマリヤの女

 実はサマリヤという町もわけありの町でした。紀元前750年頃から、アッシリヤという大国が攻めてきました。当時、イスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂していました。とうとう、アッシリヤは北イスラエルの首都、サマリヤを陥落させ、おもだった人々を自分の国へ連れて行きました。その代わり、5つの民族をサマリヤに住まわせたのです。ですから、残されたサマリヤの人たちと5つの民族が雑婚することになりました。そればかりか、宗教的にも混じってしまったのです。だから、純潔を誇りにしていたユダヤ人はサマリヤ人をものすごく嫌っていました。お隣り同士なのに、全く、お付き合いがなかったのです。そのため、ユダヤ人は北のガリラヤに行くためには、サマリヤを避けて、わざわざ遠回りして行ったわけです。ところが、イエス様は、この日は、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。この女性と会うためです。なにか、とてもロマンチックですね。神様は、「女のさだめ」以上の計画を持っていらっしゃいます。イエス様は、疲れを覚えられ、井戸の傍らに座っておられました。弟子たちはお昼のために食べ物を買いに出かけていました。そこへ、水がめを頭にのせた、一人の女性が向こうからやって来ました。ジャジャジャーン。一般には、水汲みは涼しい朝と相場は決まっています。お昼はかんかん照りで、人々はお家の中にいる時間です。ところが、この女性は、人目を避けるかのように、お昼頃、水を汲みにやって来たのです。やっぱり、訳ありの女性という感じがします。

 イエス様はこの女性に「わたしに水を飲ませて下さい」と、声をかけました。彼女は、ユダヤ人がサマリヤ人の私に声をかけるなんて、「どうしてだろう」と不思議に思いました。イエス様の方から出会ってくれたのです。すばらしいですね。でも、イエス様は彼女に謎かけをします。「水をください」と言いながら、「生ける水」のことに話題をすりかえたのです。彼女は、それはたぶん、このヤコブの井戸の水であろうと思って、「汲むものを持っていないのに、どこからその水を手にいれるのですか」と聞きました。実は、このサマリヤの女性には致命的な欠陥がありました。10節を見てわかりますが、この女性は2つのことに無知だったのです。1つは、神の賜物であります。神の賜物というのは、ここで言われている「生ける水」であります。そして、生ける水とは、永遠の命、つまり「救い」であります。もう1つは、その生ける水を与える者であります。だれが、生ける水、永遠のいのちを与えるのでしょうか。キリストです。彼女はキリストがわからなかったのです。この世の人たちは、たとえ多くのこと知っていても、2つのことを知らない人が多いですね。テレビでは、どうでもいいようなクイズ番組が多いです。この間、テレビを付けたら、「おじやとおかゆの違いは何か」という問題が出ていました。そんなのどうでも良いじゃないか!と腹が立ってきました。それでも我が家では、なんとかサプリというのを毎週、見ています。どうでも良い雑学がブームになっているようです。それはともかく、私たちの肉体に水がなくてはならないように、私たちの魂において、必要不可欠なものが2つあります。他のどんな知識があっても、この2つが分からなければ、滅びに行ってしまうからです。その2つとは何か。第一は、神の賜物である、生ける水です。永遠のいのちです。これは神様のプレゼントの中で、最高のものです。もう1つは、キリストです。多くの人たちは、プレゼントに関心が行きます。しかし、神の賜物を与えるキリストのとの出会いの方がもっと大切なのです。

 

2.生ける水

 では、生ける水とは何か、もっと詳しく学びたいと思います。イエス様はサマリヤの女に教えるために、まず、一般的なことからお話しされました。確かにイエス様は喉が渇いておられたと思います。そして、この女性に「わたしに水を飲ませてください」と求めました。この女性は、今から水を汲むのだから、お安いご用だと思ったのでしょう。おそらく、つるべを手にとって、深い井戸にガラガラと降ろしていたかもしれません。ところが、そのお方は、変なことを言う。「生ける水をくれる」と言うのです。生ける水というのは、命の水、永遠の生命をもたらす水と言う意味です。果して、この世にそんな水があるのでしょうか?彼女は、「あなたは、汲む物をもっていないのに、その生ける水をどこから手に入れるのですか。あなたは私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか」と的外れなことを言います。すると、イエス様は「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」とおっしゃった。この井戸水とは別の、二度と渇かない水があるらしい。それで、彼女はその水がだんだん欲しくなりました。実は、イエス様は喉の渇きのことを言っていたんじゃないのです。サマリヤの女は喉の渇きだと思っていました。でも、ちがうんです。イエス様がおっしゃったのは、もっと、深いところの渇きだったのです。そうです。彼女は、本当は、魂の渇きを覚えていたのです。だから、夫を5人も替えても満足せず、さらに別の男性と同棲していたのです。

 イエス様は、「この水を飲んでも、また渇く」とおっしゃいましたが、「この水」とは何でしょうか。この水とは、この世が与える、楽しみや快楽です。多くの人たちは内側の渇きを癒すために、さまざまなことをします。そして、この世はこれでもか、これでもか、とCMを流します。私は高校生の時からマージャンを始めました。あれは本当に楽しいですね。マージャンを発明した中国では、それを禁じているようです。なぜなら、人々が仕事しなくなるからだと聞いたことがあります。若い人にとっては、タバコ、バイク、ゲームそれから、ポルノ雑誌がはまる対象になります。女性は何でしょうか。身に付けるもの、お化粧、ダイエット、旅行、映画、そしてだれかの追っかけ。そして、度が進み、様々な依存症に苦しんでいる人が大勢います。テレビ、インターネット、買い物、アルコール依存症、ゲーム中毒、パチンコ依存症、性的中毒、薬物中毒、さらに携帯メール中毒。この世の水は、まるで、海水のようであります。飲めば飲むほど、喉が渇く。そして、やがては死に至ります。生きる意味を失ってしまい、迷っていたある若者が、ある日、精神病院を訪ね、医者と相談しました。ところが、その精神科の医者は、フロイトの快楽の原則の通りに、「あなたが願う通りに快楽を楽しんでみなさい」とアドバイスしたそうです。そのアドバイスに従って青年は、歓楽街へ行き、女遊びに明け暮れしました。青年は二度と医者の所へは来ませんでした。彼は、自分に嫌気がさして自殺したそうです。この世の快楽だけでは、決して解決できない精神的空虚と不安のために、人々の魂は疲れ果てています。つまり、この世の水をいくら飲んだとしても、魂の渇きを満たすことはできないのです。

 では、生ける水とは何なのでしょうか。イエス様は「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」とおっしゃいました。つまり、汲んでも、汲んでもなくならない泉が、その人の内側に与えられるということです。しかも、それは永遠のいのちへの水であると言われています。これは、どういう意味でしょうか。不思議なことに、20節から24節までは、どこで礼拝するかという話題に変わっています。本当にヨハネ福音書は、論旨がワープするというか、飛びますね。しかし、この渇きの問題を癒すのは、神様を礼拝することと関係があるんじゃないかなーと思います。なぜ、私たちの魂が渇くのか。しかも、この世のどんなものでも満たすことができないのか。それは、まことの神様と霊的な交わりをしなければ、ダメだということではないでしょうか。詩篇421「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私の魂は、あなたを慕いあえぎます。私の魂は、神を、生ける神を求めて渇いています」。ここに、答えがあります。私たちの魂は、神様を、生ける神を求めて渇いているのです。ですから、神様以外のもので、魂を満たしても無駄だということです。この間、テレビを見ていたとき、名前は忘れましたが、素敵なバイオリニスト(川井郁子)が出ていました。私は家内に「ああ、天は二物を与えることもあるんだなー」と言いました。なんか、妖艶という感じがしました。そのときは、彼女にとって、音楽こそが魂の渇きを満たすものなのだろうかと思いました。しかし、それは違うのではないかと思います。昔、ソロモンというイスラエルの王様がいました。彼はすべてのことをやりました。事業を拡大し、邸宅を建て、庭と園を作り、諸州の宝を集め、男女の歌うたいを作り、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れました。しかし、「これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」と言いました。おそらく、あのバイオリニストも同じ問題を抱えているのではないかと思います。私たちの魂は、この世のいかなるものでも満たすことはできないのです。私たちを造られた、造り主、神様のもとに行くしかありません。アウグスチヌスは、『告白』の第1巻第1章でこのように言っています。「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」礼拝とは、神様と交わることであり、神様を価値の根源とすることであります。つまり、私たちの存在の理由、存在の目的がまことの神様以外にないということです。このお方と霊的な関係を持つならば、魂が満足するのです。そして、神様ご自身が、その人に生ける水、すなわち永遠の命を与えるということです。永遠の命とは死なない命ということではなく、神様が持っている、神の命であります。この神の命が私たちの内側に入るときに、泉となり、永遠の命が湧き上がって来るのです。すると、人間が持っている根本的な渇きがとどめられるのです。ハレルヤ!

 

3.キリストとの出会い

 彼女はもう1つ知らないことがありました。それは、「生ける水」をだれが与えるかということです。彼女は目の前の人がどういう方なのかはじめは知りませんでした。最初は、ユダヤ人だと思いました。その人が「生ける水」を与えると言ったので、15節では「先生、その水を私にください」と願っています。「先生」とは、ラビ、ユダヤの教師であります。もし、私がイエス様だったら、「そうか、よく求めましたね」と差し上げたことでしょう。しかし、イエス様は、彼女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。なぜ、ここで彼女のプライバシーが持ち出されなければならないのでしょうか。生ける水である永遠の命が欲しいというならば、差し上げれば良いじゃないでしょうか?私はクリスチャンになって、27年にもなりますし、20年近く聖書からメッセージをしてきました。しかし、「何も分かっていなかったなー」とこのところを読んで気づかされました。人によって、救いという概念が違います。ある人にとっては罪が赦され義とされること。またある人にとっては神の子となること。またある人にとっては新しく生まれ変わることです。で、私にとって救いとは、永遠の命でありました。私は「死が終わりではない、神様を信じたら、永遠の命が与えられる、これほどすばらしいものはない」と本当に喜びました。今から、7,8年前でしょうか。私の長男の友達が9時のジュニア礼拝に何人か来たことがあります。当時、彼らは教会でギターを弾いていたので、「教会を使わせてやらせる代わりに、礼拝も来いよ」とプレッシャーをかけていたのですね。ある朝の第一礼拝で、私は「永遠の命」の話をしました。メッセージの最後に、息子の友達一人ひとりに「あなたも永遠のいのち欲しいでしょう。永遠の命をもらいたくありませんか」と聞きました。すると、クビを横に振るんですね。私はびっくりしました。「この世の中に、永遠のいのちがいらない人がいるんだ!えー?嘘だろう」。これまで、私は「神様の救いをあなたももらってください。神様からのプレゼントですよ」と言ってきました。しかし、ヨハネ4章を読んで、「間違っていたなー」と初めて気が付きました。

 イエス様は、このサマリヤの女性に「はい、どうぞ。これが生ける水、永遠のいのちですよ。あなたもどうぞ」とは、差し上げなかったのです。なぜでしょう?摩訶不思議です。16節でイエス様はこの女性に言いました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。すると女性は「私には夫はありません」と答えました。普通だったら、「ああ、はずれちゃったかなー」と引き下がるでしょう。でも、イエス様は続けて言われました。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です」。その直後、この女性は「先生。あなたは預言者だと思います」と言いました。預言者までアップしました。その後、彼女は、その方がキリストだと分かりました。つまり、彼女はあれこれ話しているうちに、キリストに出会ったということです。なぜ、イエス様がこの女性の、プライバシーまで入り込んだのでしょうか。生ける水、永遠の命をポンと渡さなかったのでしょうか。それは、神の賜物も大事だけれど、もっと大事なのはキリストと出会うことだからです。しかも、私たちがキリストと出会うときは、ありのままの自分、本音の自分でなければならないということです。サマリヤの女は正直に自分の過去を認めました。その時点で、命の水を下さるキリストと出会ったのです。私たちは本当の自分をどこかに隠しておいて、「永遠のいのちだけいただきます」という訳には、いかないのです。中風の人は、戸板につり下ろされた状態で、床に寝たままでイエス様と出会いました。ザアカイという収税人は、登っていた木からスルスルと降りて来てイエス様と出会いました。使徒パウロは、まばゆい光で馬から落ちたときにイエス様と出会いました。あなたは本音の部分で、イエス様と出会っていますか。よそ行きの、社交辞令の、虚栄をはった、嘘のあなたではダメです。

 アルゼンチンにカルロス・アナコンディアという大伝道者がいますが、その人の救いの証です。彼は、ねじの会社の社長でした。当時、彼は有名人として尊敬され、お金もちになりたい一心で、一日14時間、15時間も働いていました。34歳になり、自分の望んでいたものを手に入れることが出来たと思いました。多くの土地を持ち、すばらしい別荘も持っていました。その別荘が少し小さかったので、さらに広い大きな別荘を手に入れました。しかし、それでも彼には平安がありませんでした。「高級マンションやもっと広い家を買えば幸せになれるだろう」。けれども、自分が望んでいたものを手にしてみると、最初よりもみじめな思いになってしまいました。彼は自分に言い始めたのです。「幸せというものは一体何だろう。どうしたら得ることができるのだろうか。なぜ人間は、目標を持ち、自分の望んでいるものを得るために、一生懸命努力して仕事するのに、その目標を達成すると、本当は自分は何も持っていないと感じてしまうのだろうか」。彼はとても疲れていました。しかし、肉体ではなく、心の疲れ、霊的な疲れであったのです。ある日、「パナマ出身の伝道者が隣町に来ているらしい。すばらしい説教者で、いろんな奇跡が起こっている」というニュースを耳にしました。奥さんにそのことを話すと、「そんなこと、聞きたくないわ」と言いました。しかし、彼は家族そろって、隣町の伝道集会に出かけることにしました。彼らは一番後ろに座りましたが、その集会場はとても粗末で、伝道者の声がほとんど届きませんでした。しかし、誰かが彼の心に語り始めました。「あなたは今まで必死になって、幸せと平安を求めてきました。あなたの悩みに解決を与えようとして、いろいろなことを求めてきましたが、何も得ることができません。あなたは不安と恐れでいっぱいです。将来に対する恐れ、子どもをつくることに対する恐れ、病気に対する恐れ、あなたの持ち物を失うのではないかという恐れ、子どもたちの将来に対する恐れ、恐れ、恐れ、恐れでいっぱいではありませんか」。彼はだれが自分に語っているのだろうと不思議に思いました。自分の恐れや不安をだれにも打ち明けたことがないのに。この方はどういう方かと考えたとき、神の御声であることに気づきました。神様は続けて彼に語られました。「もしあなたが今晩、あなたの心をキリストにささげるなら、もう心配する必要はありません。イエス・キリストがあなたとあなたの持ち物、あなたの家族、そして、あなたの子どもたちを守ってくださるからです」。これを聞いた時、彼は子どものように泣き始めました。何十分もそうしていました。最後に、伝道者の招きがありました。そのとき、彼はすぐに手をあげました。奥さんも泣きながら、彼に言いました。「あなたがそうするなら私もそうします。私も本当に神の助けが必要です」。彼と奥さんは、手をつなぎ、二人とも涙を流しならが、イエス・キリストを心に迎えました。そのときから、彼の人生が180度変わりました。アナコンデアはそれから信徒伝道者になりますが、彼の集会を通して、何百万人もの人たちが救われました。

 聖書は神の賜物である永遠のいのちとイエス・キリストを紹介しています。しかし、永遠のいのちよりも、永遠のいのちをくださる方のほうが大切なのです。私たちがイエス・キリストに心を明け渡すときに、生まれ変わり、永遠のいのちをいただくことができるのです。

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