「比類なきお方」   ヨハネ1:1-3

2005/09/18 鈴木 靖尋牧師

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 本日は「誕生」に関するメッセージの3回目、「比類なきお方」です。私たちはなぜ、イエス・キリストを知らなければならないのでしょうか。それは、私たちが信じる対象だからです。「いわしの頭も信心から」などと言われるように、「信仰自体が大切であって、信じる対象は何でも良い」という人がたくさんいます。そうではありません。信じるとは自分自身を賭けるということですから、いい加減なものに賭けたらとんでもないことになります。薬だったらなんでも良いということはありません。風邪には風邪薬、胃には胃薬です。救いにきく薬は、新約と旧約で証されているイエス・キリストです。この世には、いろんな信仰の対象があります。しかし、イエス・キリストは、他とは比べられない、ユニークなお方、比類なきお方です。では、どういう意味で、イエス様は比類なきお方なのでしょうか。3つのポイントをあげて説明したいと思います。

1.神が人となられた方

 この世の神様は、いろんな神様がおりますが、イエス様はユニークなお方です。この世の神様は、偉い人や動物がやがて神様に昇格したものです。しかし、イエス・キリストは初めから神様だったのです。ヨハネ1:1-3を見てわかりますが、イエス様は神様しか持っていない特徴を持っておられます。イエス様は世界が造られる前からおられた、永遠の神です。「初め」は、ギリシヤ語で「アルケー」と言いますが、ギリシヤの哲学者たちは、「世界の初め、アルケーとは何か」ということを真剣に考えました。ある人たちは、それは「ロゴスである」と言いました。当時の人たちにとって、ロゴスとは「世界原理」あるいは「宇宙の理性」でした。しかし、それは人格のない、何かもやもやした感じがします。ところが、ヨハネは「ロゴスとは、神のことばであって、それはイエス・キリストご自身である」と言ったのです。さらに、3節を見ますと、世界がこの方によって造られたとあります。神様は創造者であるべきです。このところには、「この方によって」と書いてあります。「よって」というのは、through「通して」という意味です。つまり、神様がキリストを通して、すべてを造られたということです。コロサイ1:16に「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです」と書いてあります。創造は、父なる神様と御子の共同作業だということです。ある人たちは、イエス・キリストは2000年前のクリスマスに、誕生したんだと言います。間違いとは言いませんが、もっと前、永遠の前から、ロゴスとして、神と共におられたということを知らなければなりません。

 では、なぜ、神であるイエス・キリストが人になったのでしょうか。ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。旧約聖書を見ると分かりますが、神様はこれまでたくさんの預言者たちを遣わしました。でも、だめだったのです。預言者たちが「神様がこう言われる」と言っても、人々は信じなかったのです。それで、神様は、最後の手段を取りました。ご自分の御子を人間としてこの地上に送ったのです。なぜでしょう。神様は遠くから「人類を愛しているよー」と叫んでいるのではありません。神の御子が人間となり、人間のことばで「神様はどんなお方か、神の国とはどんなものか、どうしたら救われるか」ということを示したのです。つまり、神様は御子を通して、私たちとコミュニケートされたのです。みなさん、人間が蟻とコミュニケーションを取るためにはどうしたら良いでしょうか。蟻になるしかありません。蟻になって蟻のことばを話せば、蟻に伝わります。ある神学者が言いました。「神が人間になるとはどういうことか。それは、人間が蛆虫になることと同じである」と。「げげー」、蛆虫になんかなりたくないですね。こういう実話があります。第二次世界大戦のときですが、負傷した兵隊たちが長崎港に送り返されてきました。その中に爆弾のためでしょうか、目も見えず、耳も聞こえず、手も足もない若い兵士が運ばれてきました。だるまのように、包帯でぐるぐる巻きにされていました。お母さんが病院に駆けつけました。わが子の変わり果てた姿にただ立ち尽くすばかりです。我が子の名前を呼んでも答えてくれません。何を思ったのでしょうか、その母親は、だるまのような姿の息子の上に馬乗りになりました。そして、自分の胸を開けて、おっぱいを息子の口にふくませました。その息子は、「おっかー」と叫んだそうです。それしか、コミュニケーションを取る方法がなかったのです。同じように、イエス様は私たちとコミュニケーションを取るために、天の栄光を捨てて、この地に降りてきてくださったのです。ハレルヤ!

 歴史を英語でHistoryと言います。これはギリシヤ語のヒストリアから来ています。しかし、こうも言えるかもしれません。His story=History この歴史はイエス・キリストが来られてから変わったのです。今年は2005年です。これは、イエス・キリストが地上に来られてから、2005年目だよと表わしています。キリストが来られる前は、紀元前、Before Christ.です。そして、キリストが地上に来られてから、紀元後、ADが始まったのです。これは、Anno Dominiというラテン語を略したものですが、その意味は「恵みの支配」という意味です。キリストが来られてから、恵みが支配するようになったということです。1971年、アポロ15号で、宇宙飛行士ジム・アーウインが宇宙のなかに浮かぶ地球を見て言いました。「かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きているということ。これこそ…神の恩寵なしには我々の存在そのものがあり得ないということが疑問の余地なくわかるのだ」と。彼が持ち帰った石が、「ジェネシス(創世記)」と名付けられました。その石は月の年代を知るため大変貴重な石だったそうです。ジム・アーウインは地球に戻ってから牧師になりました。宇宙飛行士が月に降りたからと言って、人類の歴史は変わりせんでした。しかし、2000前、キリストが地球に降りてから、人類の歴史が変わったのです。

2.予告されていた方

 人類の中で、来ると予告してから来た人はいません。しかし、イエス・キリストが地上に来られる数千年も前から、350回以上も予告されていました。どこで、いつ、誰を通して、どのように来られ、そして何のために来られ、どのように生き、何をなさり、どのように死なれ、どのようによみがえり、どのように天に昇られるか。そして、いつ、また地上にさばき主として来られるのかということまで、具体的に予告されていました。この予告を聖書では預言と言います。ある科学者が、キリストの預言に対する確率ということを研究しました。350回もの預言に対する確率であります。何故そうなるか私はわかりませんが、その確率は地球の全表面に1ドルコインを敷き詰め、しかも、その厚さが90センチになるように敷き詰める。その中に、赤く塗られた1枚の1ドルコインを隠すんです。その確率というのは、地球の全表面に厚さ90センチに敷き詰められた、1枚のコインを見つけるようなものだと言いました。まさしく天文学的な確率です。つまり、350もの預言を満たすことのできる方は、歴史上、イエス・キリスト以外、一人もいないということです。これはものすごいことですね。では、イエス・キリストに関して、どのような預言があるでしょうか。一番古いのは、創世記3章、「女の末から生まれ、蛇の頭を打ち砕く」ということでした。紀元前2100年には、イスラエルのユダ部族から生まれると分かりました。紀元前1000年には、ダビデの家系から生まれると預言されました。紀元前750年はイザヤ書にありますが、全人類の罪の身代わりとなって死ぬと預言されています。紀元前700年、ベツレヘムの町で生まれるとミカが預言しました。紀元前550年には、ダニエルがメシヤは起源32年に出現すると預言しました。紀元前500年には、ゼカリヤがメシヤはからだを釘づけにされると預言しました。

こういう預言が聖書には350もあると言われていますが、その中で一番重要なのが、イザヤ53章であります。その当時は、メシヤ(救い主)が苦しんで死ぬという思想が全くありませんでした。今もユダヤ人たちはそんなことがあるはずがないと信じようとしません。イザヤ書53章にはこのように書かれています。私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」預言者イザヤは、「だれが信じたか」と言っていますが、これは「おそらく、だれも信じられないだろう」という意味がこめられています。このところに、イエス・キリストが何のために来られるかが、はっきり預言されています。それは、私たちの罪と病を負い、代わりに罰せられ、死ぬということです。これが、イエス・キリストが来られた中心的な目的です。「げー」、イエス様は死ぬために来られたんです。イエス様が捕えられた時、こういうことをおっしゃいました。マタイ26:53、54「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」そうです。イエス様は聖書の預言が成就するために、捕えられ、十字架につけられたのです。イエス様は偶然、たまたま十字架につけられて死んだのではありません。イエス様は聖書の預言どおり、死なれたのです。それは神様が人類のために計画された救いを成就するためです。

3.死から復活した方

 第三番目のイエス・キリストしかない特徴は、死からよみがえられたということです。これまで、歴史上、死を打ち破ってよみがえられた人は一人もいません。釈迦もマホメットも日蓮上人も死にました。彼らには墓がありますが、イエス様には墓がないんです。復活とはどういう意味でしょうか。死んでしばらくしてから、蘇生したというケースはあります。だから、死後24時間たたなければ、火葬してはいけないことになっています。死後、たまに生き返る人がいます。しかし、復活は蘇生とは違います。蘇生しても、いつかは死にますが、復活はそうではありません。復活というのは、二度と死なない体によみがえるということです。ハレルヤ!残念ながら、当時の弟子たちはそれが信じられませんでした。日曜日の夕方、彼らはユダヤ人を恐れて、戸を閉じていました。ところが、イエス様がすーっと入って来られたのです。戸が閉めてあったのに、です。弟子たちはびっくり仰天しました。その後、喜びと平安に満たされました。ところがそこにトマスがいなかったんです。後からトマスがやって来て言いました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、ネバー信じません、決して信じません」。トマスは本当に疑り深かった。トマスのように疑い深い人をトマス家の人々と言います。次の日曜日、弟子たちが室内にいました。トマスも彼らと一緒にいました。戸が閉じられていましたが、イエス様がまた来らて、彼らの中に立ちました。そして、トマスに言ったんです。「あなたの指をここにつけなさい。手を伸ばして、わたしのわきに入れなさい」と。トマスはその場にひれ伏して、「私の主、私の神」と礼拝しました。復活後、弟子たちはイエス様を礼拝したんです。マタイ28:17に「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した」と書かれています。礼拝というのは、神様しか受けてはならないものです。もし、イエス様が人もしくは天使であったなら、「私は神ではないから、やめなさい」と断ったでしょう。でも、イエス様は弟子たちの礼拝を受けたのです。ですから、復活こそは、イエス様が神様であることの証明だったのです。

 アメリカの南北戦争のとき、有名な将軍で小説家でもあった、リュー・ウォレスは、キリスト教の神話を永遠になくす本を書いて、人類をキリストの鎖から解放しようではないかと、もう一人の友人と堅く約束しました。彼は中東、ヨーロッパ各地の図書館や博物館などを回りながら、多くの資料を集め、深く研究しながら、イエス・キリストの物語や聖書の話が、嘘であることを証明する本を書き始めました。やっと、その本の第一章を書きましたが、第二章の第一ページを書き始めたところで、とうてい、否定できない真実の前で、彼はひざまずきました。そして、彼は涙を流しながらイエス・キリストに「あなたは我が主、我が神です」と叫びました。彼はその事件の後、あの有名な歴史小説イエス・キリストの物語、ベンハーを書きました。これは「ベンハー」という映画にもなりました。映画の解説者が「いやー、戦車のシーン、とっても迫力がありましたねー。映画って本当に楽しいですねー」などと言います。しかし、それだけではありません。映画の終わりには、監督や出演者の名前がずっと続きます。そして、一番最後に副題が載っていました。テール・オブ・クライスト、「キリストの物語」と書いてありました。ベンハーは、実は、キリストの物語だったのです。私が高校生の頃、その映画が封切られました。友達のだれかが、「あの映画は、つまらないよ」と言いました。「ああ、そうか」と思って、私は見なかったんです。あのときに、見ておけば、私の人生が変わっていたかもしれません。まことに残念です。でも、私を導いてくれた、会社の上司が、「ベンハー」の映画のあらすじを教えてくれました。そして、私もテレビでしたが実際に見ました。奴隷であったベンハーが水をもらおうとしたのですが、ローマ兵がそのひしゃくを足で蹴飛ばしました。そこへちょうどイエス様が通過して、ひしゃくを取り返して飲ませます。ローマ兵は何かとても気まずい顔になりました。ベンハーはごくごくと水を飲み、その方の顔を見上げました。そのとたんベンハーの顔が、パーッと変わるんです。聖いお方を見たという恐れに包まれた顔です。私たちもイエス様と出会うとき、そのようになるのではないでしょうか。あなたも復活の主と出会ってください。変わります。ジャストフォーミー。ああ、私のためだったのか!「十字架の死と復活はジャストフォーミー、ジャストフォーユー」だったのです。ハレルヤ!

 では、復活は私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。イエス様は贖いの死と復活によって、神様との道を設けられたということです。ヨハネ14:6に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とあります。これまでいろんな哲学者や宗教家たちが出て来て、「これが道です」「これが真理です」「これがいのちです」と私たちに指し示してくれました。でも、「私が道で、真理で、命だ」と言った人はいません。「私自身が道、私自身が真理?」と言うならば、気が狂っているか、神様かどちらかであります。中間はありません。「イエスは偉人だった」なんては言えないんです。私たちは「私は道だ」と言われるイエスに出会うとき、「そんな馬鹿な!」と唾を吐きかけるか、あるいはトマスのように「私の主、私の神」と礼拝するかどちらかなんです。中立はないのです。同じように選ぶのは、天国か地獄か、どちらかなんです。イエス・キリストだけが、死の向こうまで行って、死の向こうから帰って来られたのです。これまで人類、数え切れない人が生まれては、死に、うまれては、死にました。ところが、たった一人だけ、死を打ち破り、死の向こうから戻って来た。それで、神様と私たちの間に道を設けてくださったのです。それは、「救いの架け橋」と言うことが出来ます。昔、サイモンとガーファンクルが「明日に架ける橋」というのをヒットさせました。「友よ、あなたが困難の川を渡るときには、私がその川に身を横たえよう。私の上を渡って行け」。まさしくこの歌は、イエス・キリストのことを歌っている歌です。私たちの本当の友は、イエス様だけです。イエス様だけが、あなたのために死んで、あなたが生きることができるように、よみがえられたからです。ハレルヤ!私たちはイエス様を信じるならば、たとえ死んでも、イエス様のように復活します。イエス・キリストは死者の中から復活した初穂です。だから、イエス・キリストにある者は、世の終わりに、もれなく復活するのです。私たちの最大の希望とは何でしょうか。それは死後、私たちの体が死なない体へと復活するということです。ハレルヤ!

 私たちはなぜ、毎週、日曜日、神様を礼拝しているのでしょうか。2000年間も、こりないで、クリスチャンは日曜日、集まって神様を礼拝しています。なぜでしょう。それは、神様はイエス・キリストをこの日曜日に復活させたからです。教会はそのことを忘れないために、こうやって礼拝をしているのです。ある人たちは「日曜日の礼拝を守る」と言います。何か、礼拝を守らないと天国にいけないので、しかたなく守るというニュアンスがあります。そうではありません。「私たちは死からよみがえられ方を祝うのです」。セル教会では、毎日が礼拝です。そして、日曜日の礼拝は、セレブレーション、祭典であります。イエス・キリストは私たちの罪と死の問題を解決してくださったのです。だから、私たちは祝うのです。ハレルヤ!主イエス・キリストだけが、罪と死と陰府と悪魔に打ち勝たれたのです。主イエス・キリストだけが、我らの道であり、希望なのです。それでは、ご一緒に、「主は今、生きておられる」を賛美しましょう。

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