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先週は、人間関係における境界線ついて学びました。本日は、「自分の責任と他人の責任の境界線」について学びたいと思います。ガラテヤ6:2には「互いの重荷を負い合いなさい」と書いてあります。これは、だれかを助けてあげたり、またあるときには、だれかから助けてもらう必要があるということですね。一方、6:5「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と書いてあります。このみことばは、前の2節と矛盾しているように思いますが、そうではありません。この意味は、「人の重荷を負ってあげる場合もありますが、負うことができないその人自身の重荷もあるんだ」ということです。自分の重荷を負わないで、他の人の重荷ばかり負ったらどうなるでしょうか?殉教者精神は分かりますが、神様はそこまで要求していないように思います。
1.機能的境界線
機能的境界線とは、物事を計画し、その予定に添って実行していく能力のことです。たとえば、あなたがしなければならない仕事、家事、奉仕があるとします。半分くらいまでは行くのですが、最後まで成し遂げることができない。なぜなら、あなたに向かって叫んでいる人たちに対して「ノー」と言うことができないからです。大変すばらしい賜物を持っているのに、周りで叫んでいる人の面倒を見るために、途中まで来て、それ以上、先に進むことができない。みなさんの中に周りの人たちから振り回されている人はいらっしゃるでしょうか。ジョン・タウンゼント博士が書かれた『境界線』という本の中に、「境界線を持たない人のある一日」という文章がありました。シェリーは朝6時、目覚ましとともに起きました。まず、娘の劇の衣装を縫わなければなりません。昨晩やるつもりでしたが、実家のお母さんが突然訪ねて来ました。「衣装なんかいつでも縫えるから」と自分に嘘をついて、孤独なお母さんの話し相手になってあげたのです。お弁当も作り、子どもたちを学校のバスに乗せて、会社に出勤します。お昼、友達から一緒にご飯食べないかと誘われ、悩み事を聞きました。20年来の友達はただ自分の問題をまくしたてるだけです。午後4時、学校の先生と子どもの件で面談があるので退社しようとした時です。上司が「締め切りに間に合わないんだ。ちょっとだけ編集してくれ」と仕事を持ってきました。彼女は「自分の仕事なのに」と内心怒りを覚えましたが、「お役に立てて嬉しいわ」と言いました。午後7時、夕食がまだ終わらないうちに教会の婦人会のリーダーから電話がかってきました。「今度の修養会のグループ活動、マージができないらしいの、あなた代わりにやってもらえないかしら?」。「だめよ、できっこない」と思いましたが、口では「喜んでお手伝いするわ」と言ってしまいました。午後11時30分、ご主人の癇癪の問題について話し合おうとしましたが駄目でした。なんか、ぐちゃぐちゃな一日という感じがします。それだけではなく、息子は学校で適切な行動を取ることができません。小さな娘はひきこもりがちです。
これらの問題の原因は何でしょうか。彼女が「ノー」と言えないからです。彼女は何が自分の責任であり、何がそうでないかを区別できなのです。彼女は、周りとの摩擦を避けたいと願うあまり、他の人の重荷も引き受けてしまいます。彼女のように、境界線を引けないために、慢性的な疲労感を抱え、鬱状態になっている人って結構いるんじゃないでしょうか。アメリカに「靴屋の子どもは靴を持っていない」という諺があるそうです。なぜなら、その靴屋は、町の人たちの靴を作るけど、自分の家族の靴は作る暇がないのです。ですから、私たちは境界線をきちっとさせることが大切なのです。マタイ25章にタラントのたとえがあります。5タラント任されたしもべは5タラント儲け、主人に喜ばれました。2タラント任されたしもべは2タラント儲け、主人に喜ばれました。ところが、1タラントしかもらわなかったしもべは、それを地面に埋めてしまいました。主人は「あなたは役にたたない悪いしもべだ。私があなたにあげたタラントを増やさなかった」と彼を叱りました。私たちには感情があり、賜物があり、才能があり、使命があります。神様が私たちにこれらのものをこの地上で与えたのは、私たちがそれを増やして、他者に注いでいくためでした。神様は私たちが、それらのものをちゃんと面倒見て増やすようにと、私たちに与えたのです。このことは、自己中心とか自分勝手ではなく、神様に対する管理責任の問題です。だから、もし私たちが自分に与えられた賜物、才能、感情、そしてネズミを面倒見ないで、外に出て行って他の人の面倒ばかり見ていたらどうなるでしょうか。私たちの心は空っぽになり、神様からいただいたものをきちんと増やすことができなくなります。Uコリント5:10「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」。私たちが自分の人生をちゃんと面倒みないでいるなら、神様はそのことを喜ばれません。だから、自分の人生のうちに、境界線を持っているのは、大切で良いことなのです。それによって自分の心、自分の人生、自分の時間、自分自身を管理できるからです。
ところが、自分の境界線をちゃんと持っていない人がいます。丸山信也先生がB子さんの境界線問題について書いています。B子さんは40代で教会生活も熱心で、奉仕などを頼まれると殆ど引き受けてきましたが、家族からは不満が出ていました。あるときは、家族から文句が出ないように寝るのも惜しんで家事や家族サービスをしましたが身体の方が続かず寝込んだことも何回もありました。夫もクリスチャンですがB子さんが教会のために余りにも時間を取るので、子供のために奉仕はせずに礼拝だけ守り、妻とは必ずしも同じ姿勢ではなかったのです。そんなこともあって、B子さんは、自分はこんなに一生懸命なのにどうしてこのようなことが起こるのか長い間悩んでいました。B子さんは、3人姉妹の長女で、母親からは1歳と3歳年下の2人の妹たちの面倒を見るように言われて育ちました。父親は仕事で家にいることは希でした。B子さんは小学生の頃にピアノを習いたかったのですが口には出せませんでした。玩具などもいつも妹たちが遊びたければ貸してあげるよう求められました。妹たちをいつも優先して、自分のことを考えるのはいけないことと感じていたのです。つまり、B子さんは絶えず自分の境界線が侵されていたので自らの境界線を形成することが困難だったのです。ですから周りから何かを求められると、自分のことは忘れてその求めに応じなければならなくなるのです。境界線が無いに等しかったのです。B子さんの場合、親が妹たちの面倒を見るように責任を委ねましたが、これはB子さんの境界線が形成されるような親子関係ではありませんでした。妹たちの世話をすること自体はよいことですが、まずB子さん自身が、親からしっかりと受容されているという実感が持てるような、また、親にも「ノー」が言えるような関わりが不可欠だったのです。つまり、自分の境界線の土台ができる前に責任を委ねられたために、B子さんの境界線を形成することが困難だったのです。
使徒パウロは、「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛して下さいます。」(Uコリント9:7)と言っています。「心で決める」とは自分がどこまでするのか、自らの境界線を確立するということです。B子さんは、境界線が未熟で自立していないために、心で決めるのではなく周りのニーズに衝動的に応えていたのです。喜んで与えるのではなかったために、神の愛を体験するどころか、苦しかったのは当然でした。そのことを知り、B子さんは徐々に自分で決められるようになりました。結果的に、奉仕は時間的に少なくなりましたが、家族と共に主に仕えることができるようになり、祝福を噛み締められるようになったということです。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」。どれが自分が負うべき重荷か、どれが他者が負うべき重荷か、境界線を引いて、神様への責任を果たしたいと思います。
2.自立と境界線
B子さんの場合は、親に「ノー」と言えない環境だったので、自分の境界線を築くことができませんでした。そして、大人になってから、人から用事を頼まれると、「ノー」と言えなかったのです。彼女は自分のことをさておいて、他の人の重荷を負う人になりました。また、「ノー」を決して言わせられないような厳格な家庭で育った子どもは、ひきこもりになります。子供たちは、従順そうな笑顔で覆い隠すことを学びます。ですから、子どもが育つ過程において、「ノー」と自分を主張して良いときがあるのです。2歳、3歳はめちゃくちゃ「ノー」と言います。しかし、後半の「自立と境界線」では、境界線が欠如していた場合です。親は子どもの「ノー」に負けないで、限度を教えなければなりません。子供を甘やかせ過ぎたために、ひどい結果になることもあります。これから紹介しますいくつかの、例証はジョン・タウンゼント博士の『境界線』から拝借したものです。アイリーンという人がいました。アイリーンの両親は愛情に満ちていましたが、子どもに大変甘い人たちでした。彼らはアイリーンに何かをさせることに耐えられませんでした。しつけのためのタイムアウト(罰として一定期間何かをさせない、あるいは何かをさせる)も、自分の行ないの結果を負わせることも、スパンクも、何もしませんでした。彼らはあふれるばかりの愛情があれば、娘は立派な大人になるだろうと思っていたのです。ですから、アイリーンが自分の行為の後始末をしなかったときには、いつでも母親が代わりにそれをしました。家族の車を三回ぶつけて駄目にしたときは、父親が彼女に専用の車を買い与えました。銀行の当座預金からお金を引き下ろし過ぎたときには、母親が黙ってそっとお金を入れ足しました。「結局、愛は寛容なり、でしょう」というのが彼らの言い分でした。両親のアイリーンに対する限界の欠如は、彼女の人格形成を傷つけました。アイリーンは愛情に満ちた妻であり、母であり、社員ではありましたが、周りの人たちは彼女のだらしなく不注意な暮らしぶりにはいつもいらだちを覚えていました。彼女と付き合い続けることは、彼らにとっては大きな負担でした。しかし彼女は憎めないタイプだったため、面と向かって指摘することで彼女の気持ちを傷つけることを誰もが避けていたのです。結果として、問題は解決されないままになっていました。アイリーンは自分で責任を取るということができない大人になっていたのです。だから、周りの人が、イライラしたのです。
また、子どものときにちゃんとした境界線を引かれなかったために、破壊的な自体になる場合もあります。スーパーマーケットで4歳の子どもが母親を完全に支配している様子を見たことがあるでしょうか。「おもちゃ付きのキャンデーを買ってくれ」と床に寝そべって、手足をバタバタさせています。母親は息子に癇癪を止めるように懇願し、嘆願し、脅かします。そしてしまいには途方に暮れて、子どもが欲しがっていたキャンデーを与えてしまいます。「でも、これが最後ですからね」と、なんとか支配権を保とうとするのですが、その時にはもう、支配権など後形もなくなっているのです。この4歳児がそのまま40歳になったらどうなるでしょう。だれかが、「ノー」と境界線を引こうするとき、同じように癇癪が噴出します。36年間、この世が彼に対して迎合して来たのです。彼が更正するためには、非常に強力で一貫性のあるプログラムを通る必要があるでしょう。時には入院、時には離婚、時には刑務所、時には病気といった状態を通して更正が訪れることもあります。しかし、人生のしつけから逃れられる人はいません。結局、否応なくしつけられるのです。私たちはいつでも自分が蒔いたものを刈り取ります。それが人生の後になればなるほど、状況はより嘆かわしいものになります。
ジョン・タウンゼント博士が大勢の会衆に向かって話をしていました。一人の婦人が質問のために手をあげました。「私の息子は19歳で薬物を使っています。そして逮捕されてしまいました。もう7回目です。私は大変な問題を抱えています。彼は助けを拒み続けて、ついに刑務所に入ってしまいました。私は6回目まで保釈金を払って彼を刑務所から助け出してあげたのです。なぜなら、息子のことをとても愛しているからです。この7回目、もう一回保釈金を払って出してあげるべきでしょうか。」博士は「これは共依存の問題です。だれかこの問題に対して答えを持っている人はいますか」と会衆に聞きました。20代の半ばくらいの男性が手をあげました。彼が言いました。「私も何年も薬物の問題を持っていました。そして、私の母親は私を刑務所から何回も保釈金を払って出してくれました。刑務所に入る度に母親が助けてくれるので、薬物を続けてもいいじゃないかと思っていました。ところがあるとき、ついに母親は、私が刑務所に入ったときに、私を助け出してくれなかったのです。そして、私は刑務所に入りました。それはとても嫌な経験でした。刑務所は楽しい所ではありません。私はそこに6ヶ月間入っていました。刑務所にいる間に2つの出来事が私の人生を変えました。刑務所では色々ものを考える時間があるので、私はそこにいる間、遂に自分の人生について考え始めることをしました。それで気がついたのは、私には助けが必要であるということでした。そこで、刑務所の中で行なわれている12のステップという回復プログラムに参加するようになりました。もう1つのことは、刑務所にいる間に、他の人が私にイエス様の必要を語ってくださり、そして私はイエス様を信じて受け入れてクリスチャンになりました。なぜなら、自分に問題があるということに気がついたからです。そこで私はその刑務所にいる間に、薬物からも解き放たれ、きれいになって、またイエス様の話を聞いて、イエス様を信じて受け入れて、今、刑務所から出て来て、新しい人生のステップを始めました。私は25才ですが、妻がいて、2人の子どもがいて、今、私は自分の人生をとても愛しています。もし、私の母親が何度も繰り返し刑務所から私を助け出していたなら、このようなすばらしいことは、決して私には起きていなかったでしょう。」そして、この男性はお母さんに向かって、こう言いました。「私はあなたのことを知りません。でも、あなたがあなたの息子さんを愛しているのであれば、そのまま刑務所にいさせてください。」博士は、その時、「ああ、神様が25才の男性をあの人に送ってくれた人なんだなー」と思いました。
ガラテヤ6:7「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」こういう諺があるそうです。「だれかがあなたに向かって叫んでいるからと言って、何か悪いことが起きているとは限らない」。何かとても良いことが起きているのかもしれません。だれかが、現実を見ているのかもしれません。しかし、問題もあります。私たちが神様の「種蒔きと刈り取りの法則」の邪魔をしてしまうことがあるのです。私たちが間に入って邪魔をしてしまうのです。共依存者のように、痛みを取り去ってあげるために、相手の悪い状態をさらに促進させてしまうのです。人が傷つくのを見たくないために、人が抱えている問題や痛みを取り除いてあげてしまう。しかし、それは神様の法則の邪魔をしていることになります。だれかの役に立とうとしても、愛に満ちた人であろうとしても、実は、その人を破壊しているのです。ですから、痛みの中には、良い痛みもあるのです。その人が、苦しみを通して、境界線を学んでいるからです。歯医者さんに行ったときのことを思い出してください。本当に、気持ち良くないことが口の中で起こりました。その痛みは、良い痛みだったでしょうか、それとも悪い痛みだったでしょうか。良い痛みです。もし、治療を受けなければ、もっと悪いことが起こるからです。境界線は確かに痛みを生むものですが、霊的成長を成し遂げるための良い痛みなのです。その痛みは、他者が代わってやれるものではありません。その人自身が自ら学び取るしかないのです。
ある親たちはしばしば、子どもを自立させているのを妨げています。「息子は良い仕事もないし、友達もいないし、もう可愛そうなんです。せめて良い仕事が見つかるまで、いさせてあげようと思っているんですよ」と言います。子どもに「何が起きているんですか」と聞いてみます。「いやー、とても良いですよ。お母さんは僕の洗濯をしてくれますから。どうして家を離れる必要がありますか。」親は成長した子どもに関して責任を取ってしまっています。本来、彼らが負うべき責任を自分が代わりに取ってあげています。それは神様が私たちに対して持っている秩序に反することです。もし、私たちがだれか他の人に関して責任を取ってしまうなら、私たちはその人を幼児にしてしまっていることになります。しかし、私たちが相手に対して責任を果たすのであれば、私たちはその人を大人にします。私たちはどのように、境界線問題を取り扱ったら良いのでしょうか。ジョン・タウンゼント博士がコツをお教えています。今度、あなたがお友達を助けてあげないことによって、そのお友達があなたに対して腹を立てるようなことがあったら、決してこう言ってはいけません。「どうやったら、あなたの機嫌を取ることができる。どうしたら、あなたを幸せにして上げられる」。こういうことを絶対、言ってはいけません。代わりにこう言うのです。「あなたの持っている問題のお手伝いをしてあげることができます。けれど、それは私の問題ではなくて、あなたの問題です」。「仕事を探すことができないというのは、あなたの問題です」。「友達ができないと言うのはあなたの問題です」。「私はあなたの友達ですから、あなたの持っている問題についてお手伝いはしますが、あなたがまるで私の問題であるかのように言うのなら、助けてあげることはできません」。そうした場合、友達は悔い改めるか、あるいはあなたから去って行くかどちらかでしょう。でも、どちらにしても、あなたにとって良いことなのです。「互いの重荷を負い合いなさい…人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」。
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