「境界線とは」     エペソ4:15-16

2005/08/21 鈴木 靖尋牧師

▲リストへ
 

 境界線とは何かについて、本日と来週、2回に分けて学びたいと思います。本日は人間関係における境界線についてお話ししたいと思います。ところで、「境界線」ってあまり聞いたことがないテーマだと思いますが、いかがでしょうか?私は、今年の3月『バウンダリーズ(境界線)』をお書きになられた、ジョン・タウンゼント博士の講演に行って、はじめて聞きました。日本人は境界線があいまいなので、このことを知って、身に付けると、幸せな人生を送ることができるなーと思いました。

1.境界線とは何か

 境界線と聞きますと、地境とか地所などを思い浮かべます。英語ではバウンダリーと言いますが、「限界」とか「限度」という意味があります。心理学では、「自分の責任と他人の責任の境界線」という意味であります。たとえば、私がアパートに住んでいると仮定します。アパートの周りには壁があります。そうしますと、壁の内側にあるものはすべて私の責任ということになります。もし、私のアパートにネズミが入って来たとしたら、それは私の責任でしょうか?それとも隣人の問題でしょうか?誰の問題でしょう?私の問題です。私が住んでいる場所は、私の問題であり、私のネズミです。私の隣人がネズミを私の家から取り除いてくださるでしょうか。「いいえ」、私の家に入って来たネズミを退治するのは、私の責任です。なぜならそこには地境があるからです。ある日、ネズミは私の地境を越えて隣人のアパートに入って行きました。では、今は、誰の問題でしょう。私の隣人のネズミは、隣人の問題です。これは難しい概念でしょうか。これが地境、自分の地所というものです。私は自分の隣人を愛しています。お手伝いしたいと思っていますし、良い関係を持っています。しかし、究極的に彼のネズミは、彼の問題なのです。私は彼に対して責任を負っていますが、ネズミに関しては責任を負っていません。私たちはそれぞれ、いろんな問題をかかえて生きています。クリスチャンは優しいので、他の人の面倒をみるときがあるかもしれません。でも、自分の人生をちゃんと面倒みないで、他の人の世話に走り回ったらどうなるでしょう。自分の心は空っぽになってしまいます。私たちのすべきことは、神様から任せられたものをちゃんと管理し、それを増やして、他者に与えていくことであります。このように、境界線とは距離を置くということばではなく、「自分は何か、どういう存在であるか」を定義することばであります。

 境界線とは自分がどういう人間かを定義してくれます。たとえば、皮膚は私たちの外側を定義します。あなたには皮膚があるので、あなたがどういう外見をもっているのか、簡単に言うことができます。また、皮膚は私たちを守ってくれます。悪いものを外に留めておいて、良いものを内側に保っておきます。もし、皮膚が傷ついたら、そこから血が流れ、ばい菌が入ってきます。だから、応急処置として皮膚の代わりに絆創膏を張ります。私たちは皮膚のない体なんて想像できません。歩くたびに、肝臓がポロっと外にはみ出したり、肺が飛び出したりしたら大変です。後から来た人が、それを拾ってくれて、体に入れてくれる。そんなことはないですね。境界線は皮膚のように大事なものを守ってくれます。また、ことばも私たちを定義する境界線です。あなたが真実を語ったとき、あなたは境界線を引いていることになるのです。神様は聖書でご自身のことを明確に定義しています。神様は「私は憐れみと義を愛する」とおっしゃっています。そして、神様は「罪と不義を憎む」とはっきりおっしゃっています。神様は、「私の愛するものを愛し、私が憎むものを憎んでほしい」と願っておられます。なぜなら、神様ご自身が聖書で「私はこれを愛し、これを憎む」と語っているからであります。ダビデも詩篇101篇で自分は何を好み、何を好まないかはっきり言っています。私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。…私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません」101:3,6,7)。つまり、自分は何を好み、何を好まないかを伝えることが、自分を定義する境界線になるのです。

ある奥さんは、夫に対して、自分がどんな映画が好きで、どんな映画が好きじゃないかということを一度も言ったことがありませんでした。二人が映画に行くと、夫は「何の映画を見ようか」と言います。奥さんは「あなたが見たいもので良いわ」。「ああ、それはいいねー」。彼は男性なので、「僕は、アーノルド・シュワルツネッガーやブルースウイルスなどがビルディングを吹き飛ばすようなものを見たいな」と言います。だから、その奥さんはご主人と一緒にそういう映画を見ます。しかし、彼女はそれが大嫌いだったんです。でも彼女はそのことを一言も言ったことがなくて、ご主人に「あなたが見たいもので良いわ」と言っていたのです。しかし、あるとき、彼女は、ジョン・タウンゼント博士からこのように言われました。「それは、嘘をついていることになるんじゃないのかい」。彼女は「そうです」と答えました。博士は「ご主人に、自分が欲しいものは何であるか、はっきり言ってあげてください」と言いました。彼女は「それはできません」と答えました。「あなたは、もっと、ブルースウイルスの映画を見たいのですか?」「これ以上イヤです」。「じゃあ、あなたはどうしたら良いのですか?」「私はロマンチックなコメディが見たいんです」。「いいんじゃないですか、ご主人に言ってください」。そして彼女は、自分の好みをはっきり言いました。それ以来、彼らは、ご主人と奥さんの好みの映画を交互に見るようになったそうです。めでたし、めでたしであります。

ここに原則があります。もし、あなたがぜんぜん、境界線を引かないのであれば、だれにもあなたが本当に感じていることを言わなければどうなるでしょう。トラックが通り過ぎるように、みんながあなたの人生を通り過ぎるのです。しかし、あなたが境界線を引くのであれば、つまり、「これが私の愛するものであり、これが私の我慢できないものです」とはっきりさせるなら、あなたの心は守られます。箴言にすばらしいみことばがあります。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」。英国の聖書は、「どんな宝物よりも、あなたの心を守れ、そこにすべての命の源があるから」と書いています。つまり、あなたが正しく、境界線を引くならば、あなたの心とあなたの宝物を守ることになるのです。ハレルヤ!

2.境界線の問題

この学びを水曜日の午前中したことがありますが、ご主人に「ノー」と言えない姉妹が、半分近くいました。私の家内は100%、私に対して、嫌いなものは嫌い、好きなものは好きと言います。いや、はっきり言い過ぎるくらいです。なぜ言えるのでしょう?この人にはっきり言っても大丈夫だという安心感があるからですね。あるいは、今更、気を使ってもしょうがないと思っているからかもしれません。しかし、なぜ、隣人に対して「ノー」と言えないのでしょうか?それは育ってきた生い立ちが関係しているかもしれません。私は、人に「ノー」と言うのにかなり努力がいります。子どものときから、拒絶されてきましたので、もし私が「ノー」と言えば、この人も嫌な思いをするんじゃないかと気兼ねしてしまうのです。伝道牧会でも、「これはこうでしょう」と、対決しなければならない場合もあるんですが、ついつい遠慮してしまいます。

日本では、丸屋信也先生という方が、境界線について教えておられます。こんな事例があります。A子さんは高校時代に洗礼を受けた20代の熱心なクリスチャンです。しかし、数ヶ月前から眠れなくなったことを機に、いろいろな症状が生じてきました。信仰によって何でもできると神様に祈り求めましたが、逆に症状が悪化し、心療内科で抑うつ状態と診断されました。A子さんは高校時代にクリスチャンになったのですが、父親は仕事一筋で一種のワークホリック、家族と一緒に食事をするのは年に数えるほどしかない。長女でしたので妹や弟の面倒を見る良い子でした。父親が不在の分、母親にも頼られ、小さい頃から大人の役割を知らず知らずのうちに担わされてきたアダルトチルドレンだったのです。そしてクリスチャンになると、今度は良い子的なクリスチャンになったのです。A子さんが小さいときから大人的な役割を担わされていたということは、自分の境界線が侵され、自分の責任と他人の責任の間の境界線が確立していなかったということです。このような人は、自分の責任の領域でないことを頼まれても「ノー」が言えません。A子さんは頼まれた奉仕には決して「ノー」と言わないだけではなく、家庭でも夫や子供の責任までも引き受けていました。A子さんの抑うつ状態は過密なスケジュールからくる長年のストレスが原因でしたが、その根底には絶えず「こうでなければ」という律法的な信仰がありました。神の前でも人々の前でも良い子を装うために、あたかもアダルト(大人)のようにふるまうため、「ノー」が言えなくなってしまう。彼女の場合は、律法的な頑張りから解放され、自らの限界を受容したときに、神の子としての確信が与えられました。父なる神様の前では、良い子的なアダルトではなく、「ノー」も含めて、なんでも言える「チャイルド」なのだとわかりました。神様の無条件の愛を体験したわけです。神様は私たちが「ノー」と言っても相変わらず、私たちを愛しています。私たちは、頭ではなく、実際に神の愛を体験する必要があります。

 また、相手が「ノー」と言っているにも関わらず、その「ノー」を受け入れられない人もいます。丸屋先生に言わせると、「ノー」と言えない人も、「ノー」と言わせない人も、自立していないからだということです。A男さんは40代のクリスチャンで、家でも教会でも周りの人々が「ノー」と言っても、巧妙にそれをくつがえそうとするのです。教会で役員さんであるA男さんは、諸事情で役員を引き受けられないB男さんに役員を引き受けるように説得をするのですが、そのしつこく、かつ引き下がらない姿勢に「A男さんに会うのが恐くなった」とB男さんに言わせるほどなのです。家庭でも奥さんや子どもたちに対しても同意をするまで説得します。家族は「お父さんが言い始めたらそれに従うしかない」と、もう諦めているのです。本人は、主のためにとか、家族のためにという大義があるのですが、「ノー」を聞けない人の周りにいる人々からするならば、余りにも自己中心的で、お手上げの状態なのです。みなさんの周りにこういう人いますかね。「ノー」と言えない人は共依存的な人で、「ノー」と言わせない人は共依存のベルトをかける側の人ですね。つまり、「ノー」が聞けない人とは、他人の境界線を尊重できずに侵してしまう人のことです。このような人は自分の境界線が確立されていないために、他の人との境界線も明確でありません。だから、自覚のないまま他人の領域に侵入してしまうのです。使徒ペテロもイエス様の境界線を受け入れられませんでした。イエス様が苦難と死を予告したとき、「主よ、そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と言いました。もちろん、ペテロは主ご自身のためにそのように言ったのでしょうが、それに対して主は、「下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責しました。A男さんは信仰にも奉仕にも熱心だったのですが、内心では周りから尊重されているという確信が持てないし、家族からも愛されているという自信がなかったのです。つまり、孤立感を抱いているために、「ノー」と言われると、自分が何か見捨てられるのではという恐れを感じたのです。主はペテロに対して、はっきりと「あなたは境界線を侵しましたよ」と言いました。だから、周りの人たちは、「もうしょうがない」という態度をとるのではなくて、「ノー」と言い続けることが必要です。A男さんは、「ノー」を言われて辛いときもありましたが、そこではじめて真実と向き合うことができました。そして、だんだんと真実な関わりが構築され、「ノー」を聞くことができるようになったということです。

 丸山師はこのようにまとめています。「ノー」が言えて、他人の「ノー」が聞けるような関係は、人間として自分も、また他人も限界のある存在であることを自覚していなければなりません。魚が水の中でのみ自由に泳げるように、人間も自分の限界を受け入れている限り、自由な心で関わることができるのです。逆に、「クリスチャンはこうすべきだ」というような義務的な関わり方をすると「ノー」も言えなくなり、また、聞けなくもなり、相互依存的な関係の構築はできないのです。相互依存的な関係は、健康な関係です。正しい境界線を持っている人は、「ノー」を言い、かつ「ノー」を聞ける関係を持つことができるのです。

3.境界線を築くために

エペソ4:15「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」とあります。真理、本当のことを語るのは勇気がいります。「相手を傷つけるかもしれない」「思いやりがないと思われるかもしれない」と恐れて、語らずに抑えてしまいます。聖書は、「愛をもって真理を語りなさい」と命じておられます。ジョン・タウンゼント博士は、お互いに「ノー」と言える自由を持っているときに、互いに対する愛や同情、そういったものが戻ってくるケースをいつも見てきましたとおっしゃっています。ご主人が奥さんに対して、「ノー」と言わせないならどうでしょうか。奥さんはものわかりがよさそうですが、そのご主人は奥さんからの愛を受け取ることができません。逆に、「私と反対の意見を言っても構わないよ」と牢獄の扉をあけてあげるとどうでしょうか。ビシバシとはっきり言って、ご主人にとって心地よいことではないかもしれません。でも、奥さんは自由になることができます。牢獄に入っている妻は夫を愛することはできません。「ノー」を言える自由な関係にこそ、愛や同情があるということです。牧師と信徒の間もどうでしょうか。牧師に対して「ノー」と言えない教会もあるかもしれません。逆に、牧師が信徒に「ノー」と言えない教会もあるかもしれません。正しい境界性を持って、お互いに尊重しあうならば、ぶつかり合うことがあっても、すぐに仲直りします。「喧嘩するほど仲が良い」と日本の格言でもあります。喧嘩もしないというのは、お互い、深く信頼し合っていないということになります。主のご愛という土俵の上で、お互い、腹を割って、話し合えたらなんと幸いでしょうか。

ジョン・タウンゼント博士は愛をもって真理を語る、つまり境界線を引くためにはいくつかの段階が必要であると教えています。10段階ありますが、重要と思えるもの3つだけお分かちしたいと思います。第一、境界線を引き始める前に、まず、安全な人々、あなたを愛し、サポートしてくれる人々を確保する。一人で引き始めようとすると、あまりにも困難が大きすぎるので、ガッカリして、境界線を引くのをやめてしまう人が大勢います。自分の夫、妻以外に、自分の心の一番暗い秘密、汚い醜い部分を伝えられる友達がいる人はどのくらいいるでしょうか。博士に対して、ある友人は、「いや、イエス様がぼくのすべてだ。そんな友達ほしくないね」と言いました。博士は、「次の100年間のうちに、もし何か問題が起きたら、僕に電話してくれるかい」と聞いてみました。彼は「んー。でもね。そんなことないと思うよ」と答えました。3年後、午前3時に電話がかかってきました。電話をとったら例の友人です。「なんだよ、一体?」と言ったら、「だって、電話をくれっていったじゃないか」。「えー?」「たくさん、問題があるんだ」と彼は奥さんのこと、お嬢さんのこと、仕事のこと、お金のことをまくしたてました。彼は博士に1週間に何回か伝話をかけてくるようになりました。博士は彼の話を聞いて、共感しただけです。だんだん、彼の状態は解決しました。彼は「僕は今まで、自分がどれだけ孤独だったのか気がついていなかったんだ。だれも僕のことを知らなかった。でも、今は、妻も子どもも、以前よりももっと私のことを好きになってくれたし、仕事の状態もだんだん良くなってきた」と答えてくれたそうです。

第二は境界線を引くときは安全な人たちからしなさいということです。第三は失敗を恐れないということです。私たちは、ゴジラみたいな怪獣に、「ノー」と言うことは不可能です。そういう人にいきなり、「ノー」と真実を言ったなら、家を出るか、教会を去るか、会社をやめるかしなければなりません。いきなり、ゴジラと戦わないでください。安全な人たちとは、温かさと安全と知恵と恵みのある場所です。そこで「ノー」と言える訓練を受けるということです。ジョン・タウンゼント博士は「スモールグループからはじめよう!」という本を書いています。つまり、セルの中で、自分は「これは我慢できるが、こういうことは我慢できない」と言ってみるということです。あるとき、グループ内で、「だれかに対決する必要がある人はいますか」と聞きました。いつも何も言わない一人の姉妹が「いいえ、気にしないで」と言いました。周りの人は「いいから、いいから、言って。あなたの心にあるものは何なの。私たちに分かち合って」とけしかけました。姉妹はようやく重い口を開きました。「あなたが、いつも遅刻してくるので、私はそのことがすごく気になります。あなたが遅刻すると、私は何だかあなたと関係がうまく築けないのです。すごく嫌なので、これからはちゃんと時間通り、来てくれる?」と言いました。グループは「やったー、やったー。よく言えたねー」とパーティになりました。だから、失敗を恐れないように。失敗して手を汚すことになっても、最初から何もやらない状態よりは、はるかに良いということです。ですから、愛をもって真理を語る訓練をいたしましょう。そうすることによって、私たちは良い関係を築きながら、かしらなるキリストに達することができるのです。

  このサイトに記載されている内容について無断複製・改造・転載等の行為を禁じます
Copyright (C) 2003 Kameari Church. All Rights Reserved.