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リバイバルミッションの田中政男先生が、先月、天に召されました。まだ60代後半でした。田中先生は若い頃から滝元明先生とご一緒に日本全国を伝道してこられた伝道者です。1985年に一度脳梗塞で倒れ、2000年にも脳内出血で倒れたこともあります。しかし、治ってからまたすぐ、伝道であります。ご子息の証がリバイバル新聞に載っていました。「お父さんは物心付いた時から、お家にいなかった。なぜか、トイレの壁に一年間の伝道スケジュール表がはってあり、トイレに入る度に、家にいない父を思い出しながら、その表を恨めしく眺めていた。しかし、不思議なことに私の内には父のようになりたいという願いが起こされていた」。息子さんもお父さんの後を継いで伝道者になっています。田中先生は私よりも一世代上の先輩です。田中先生は、身を粉にして伝道した先生でありますが、きょうは、伝道について共に考えたいと思います。
1.ためし、吟味せよ
4節で「キリストは弱さのゆえに十字架につけられた」とありますが、どういう意味でしょうか。これは、キリストは弱々しかったという意味ではありません。この弱いという意味は、肉体をもっていることの限界さを表わしています。使徒パウロもそういう意味では弱い者でありました。コリント教会のある人たちは、「キリストも弱い、パウロも弱い。だから、恐れることはない」と罪の中にとどまっていました。しかし、4節後半には「神の力のゆえに生きておられます」と書いてあります。これは、キリストが復活後、神様から偉大な力を受けて、生きておられるということです。パウロは今や、「キリストの権威をたずさえて、あなたがたのところに行くから覚悟せよ」と少し脅しています。そして、5節「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか」。きょうの前半のメッセージは、「ためし、吟味せよ」という言葉を取上げたいと思います。「ためす」は、英語ではExamineでありますが、「厳密に観察して試験して調査・吟味する」という意味であります。また「吟味する」は英語ではproveですが、「…であることを証明する」という意味です。
少し前に、NASAからスペースシャトルが打ち上げられました。ところが、打ち上げの際、タイルが剥げ落ち、シャトル本体を傷つけてしまいました。直前、打ち上げを中止して調査したのですが、やはり不備があったようです。こんどは、宇宙において、その傷を調べ、めくれた耐熱保護材を修理したようです。地上では、損傷を再現した模型をつくって風洞実験を実施しました。その結果、損傷した保護材がはずれ、シャトルの機体後部に衝突する可能性は低く、仮に衝突しても飛行には影響がないと判断したようです。スペースシャトルはものすごいお金と時間、そして人命がかかっているので、打ち上げたら、なんとかなるというわけにはいきません。考えてみますと、私たちの人生も一度きりであります。「若いときは何でもやってみて、失敗から学ぶんだ」とよく言われます。ある人は、「結婚する前に、何人かの異性と付き合ってみて、その中から合う人を探すんだ」と言う人もいます。しかし、聖書で罪とはっきり言っているものは避けた方が良いです。なぜなら、その罪が致命傷となり、学ぶどころか、命をとられる場合もあるからです。人間は肉体を持っているゆえに弱い存在です。人生も一度きりです。だから、パウロは飛び出す前に、「ためし、吟味しなさい」と言っているのです。
私も今、「ためし、吟味している」時であります。私は52歳になりました。この10年間は収穫の時であると思っています。私としてはブレイクスルーしたいんですね。テレビに出演している人で、結構、中高年でブレイクしている人がいます。デユーク更家さんは、ウォーキングでブレイクしました。今はモロッコに家を構える億万長者です。綾小路きみまろは漫談でブレイクしました。キャバレーで、司会をしながらドサ周りしていた人です。マツケンサンバUの振り付けをしたあの人も結構、年配です。みんなそれまで、食えない下住み生活をしていた。ある日、突然、ブレイク、良いですねー、うらやましいですね。私の年代は、ちょうど境目なんです。私よりも少し上から70歳代は団塊の世代、日本の経済成長を担ってきた人たちです。同じ頃、日本の牧師たちも、会社経営をするように、教会をデカクして成功したいと頑張ってきました。名前をあげて大変失礼ですが、尾山令仁先生、大川先生、吉山先生、手束先生、堀越先生…。教会成長、教会成長とやってきたわけです。私も韓国のチョーヨンギ師を目指し、大教会を夢見て頑張ってきました。先日まで600名会堂、2000名の信徒の教会と具体的に祈っておりました。そういう祈りの課題や新会堂の図面を書いたA4の紙がデスクの脇にころがっています。でも、今は「それは違うんじゃないか」と宙ぶらりんになっています。なぜか、それは聖書の教会・セル教会を目指したからです。この世的な教会観と聖書が言う教会観は違うんです。この世的な価値観の教会とは、大勢の人を集めて、影響力のある教会を作ることです。人数を集めれば予算も増え、音楽も、ミニストリーも豊富にできる。ヤベツの祈りのごとく、「地境を広げてください、祝福してください」と祈り求めます。有名で有力な牧師とスタッフ、大きな会堂、有名人を集めて、エンターティメント教会。癒しも音楽もすばらしい。とにかく大勢の人を教会に集める。
しかし、それが聖書的な教会でしょうか。福音書とかパウロの書簡を読んでも、「イベントを開いて、教会に大勢の人々を集めなさい」とは書いていません。神様はどちらかと言うと、有力で有名な人よりも、無名で無力な人を用いられます。クリスチャンを1箇所に集めるというよりも、地域に散らされていくのが本当です。大きな建物というよりも、家々の教会です。超人的な人に力が集約するのではなく、同労者に分与していく形です。ヤベツの祈りはヤベツのための祈りです。しかし、主の祈りは、イエス様が「みんなにしろ」と命じた祈りです。主の祈りは、「御名があがめられ、御国が来ること」です。牧師があがめられ、教会が来ることではありません。実は私の聖書は古くなって、マタイ5章から10章まで欠落しているんです。山上の説教の大事なページがない。なんという皮肉!神様は教会を通してこの世に働きかけたいと願っています。だから、教会が成長するために、私たちのエネルギーを使うのではなく、この世に向かって神様のみこころを行なうために、エネルギーを使うべきなんです。聖書の考えは、人を集めるのではありません。救われた人を訓練して、家や会社、地域に派遣することです。私は、昔のやり方、昔のビジョンに戻っていくか、それとも、全く新しい聖書的なビジョンに向かって行くか岐路に立たされています。昔のやり方、昔のビジョンとは、すべてを犠牲にして、大教会・大教団を目指した先輩たちの方法です。しかし、40代、50代はビジョンを亡くして失速している状態です。「日本のリバイバルなんてもはや幻影じゃないか」とどこかで諦めています。しかし、日本のリバイバルは外国とは別のやり方で来るのではないかと思います。それは、大集会・大クルセード方式ではなく、草の根・口コミ式ではないかと思います。クリスチャンや牧師が、家庭や地域に出かけて行って、かゆいところに届いていく伝道です。今の時代は、ひきこもりが多いので、「来い」と言っても来れないんです。だから、こちらから行くしかないんです。つまり、「待っている伝道から、行く伝道」、これが鍵ではないかと思います。
そこで、大切なのは、「ためし、吟味する」ということです。神様は「相手のところに行け」とおっしゃっているのですが、行かせないものが自分の中にあるということです。いや、たとえ行ったにしても、燃え尽きたり、破滅してしまうかもしれません。さきほどの、スペースシャトルではありませんが、どこかに破れがあるとそれが原因で、大気圏で燃え尽きます。ですから、自分自身に破れはないか、傷がないか、動機が純粋であろうかチェックしなければなりません。これまでのキリスト教会は、行ないが良ければ良い。「一生懸命奉仕し、献金し、伝道している。ああ、すばらしいクリスチャンだ、牧師だ」とやってきた。しかし、そういう人たちが鬱や燃え尽き、性的罪、過労死で倒れました。家庭も子どもたちも犠牲になりました。何が悪かったんでしょう。動機が正しくなかったのです。自分の名声、自分の栄光のためにやったのです。それも、ある程度まで行くかもしれません。しかし、行き着くところは自己崩壊でしょう。私の場合、外に向かって、人々のところに行けない理由がいくつかあります。やはり、人からの拒絶を恐れています。過去において親や兄弟、友人、先生から拒絶されたからです。私が10代の息子と話せないのは、私が父親と10代の頃、口をきかなかったからです。何か、私の中に束縛があるんです。同じように、私たちが出て行けない原因は、自分自身の中にあるのではないかと思います。だれが妨げているのでもありません。自分が作った束縛の世界が、自分を新しいライフスタイルに進ませていないのです。私たちは「新しい人生に向かって進みたい。せっかくクリスチャンになったのだから、もっと神様から用いられたい」。しかし、それを邪魔しているものがあります。それは自らの傷であり、恐れであり、不信仰なのです。ある人は、父や母との関係が悪かったので、神様が本当に私たちを導き、守り、必要を与えてくださる方だと信じられません。基本的信頼感が欠如しているので、この世の海原に出て行くことができないのです。だから、私たち自身が癒され、解放されたら、ブレイクスルーが起こるはずであります。ブレイクスルーの日本語は克服という意味もあります。そういうものを克服したときに、私たちの人生が新しい世界へとブレイクスルーできるんです。昔、「敵は本能寺にあり」と言いましたが、新しい世界へ行くことを妨げているものは案外、自分の中にあるということではないでしょうか。そこのところをお互い、「ためし、吟味」したいと思います。
2.真理のためなら
8節「私たちは真理に逆らっては何もすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」。英語の聖書には、真理に逆らっては「no power、行なう力を持てない」と書いてあります。そして真理のためだけに、それができるということです。真理とは何でしょうか。私たちにとって真理とは、神様の真理であります。哲学者が言う真理ではありません。イエス・キリストはヨハネ16章で「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。ですから、この真理は、命の通った、神様のみこころ、神様の真理であります。第一のポイントでは、傷がいやされ、正しい動機で新しい人生へ踏み出すということでありました。その標準、基準になるのが、聖書が言う真理であります。私たちの深い心の動機をさぐるのは、真理のみことばです。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」神のみことばは、生きていて、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。神のみことばは、どれが神のみこころであり、どれが不純で利己的なものか、切り分けることができるということです。これまで、いろんな教会成長の本が出ました。そういう本には、「牧師はリーダーとしてかくあるべきだ」という項目もあります。しかし、よく読んでみると、全く聖書的ではなく、この世のだれかの考えを取り入れたものです。イエス様は「人々に仕えなさい」と教えているのに、その本は「人々に仕えさせなさい」と言っているわけです。信徒は献金を持ってくるお客さんでしょうか。そうじゃないですね。教会を会社経営と同じにしてはいけません。神様を自分の目的を達成するしもべにしてはいけないのです。そういう意味で、みことばは私たちの隠れた動機をチェックするリトマス試験紙みたいなものです。
また、みことばは私たちの束縛を断ち切る両刃の剣です。私たちが新しい地に踏み出せないのはなぜでしょうか。ときには、自分のせいではなく、自分の父や母、あるいはおじいちゃん、おばあちゃんから来ている場合もあります。これを世代間連鎖と言います。昨年来られた李先生は怨念晴らしは世代間連鎖するとおっしゃいました。李先生は4代目のクリスチャンです。おじちゃんは韓国で牧師をしていて、お父さんは牧師の子ども。当時は献金だけではなく、献米もあった。お金の代わりにお米をささげるわけです。子どもであったお父さんはお腹がへって、日曜日、礼拝が終わってから、献米の箱の蓋をあけて中を覗いてしまいました。それを牧師のおじいちゃんから見られて、「みっともないことをするな!」としこたま叩かれたそうです。で、お父さんは牧師にならないで、日本で実業家になるわけです。怒りをエネルギーにして頑張り、軽井沢の離山一帯、5000坪を持っていたそうです。李先生は、父親の怨念を受けて育ち、銀行員になりました。金の力で人々をひれ伏させてやりたいと思ったそうです。李先生の傷は理不尽な扱いをされると、ものすごいエネルギーが湧いてきて、その相手を叩き潰したくなるということです。同時に先生は、在日韓国人としてセルフ・イメージに傷があり、存在不安があったそうです。あることで高速道路を車で走れなり、5年くらいそれが続いたそうです。しかし、李先生はクリスチャンになり、怨念からブレイクスルーして、今や、怨念晴らしとセルフ・イメージ、恐れと不安のエキスパートになりました。自分の傷が癒されて、こんどは同じ傷で苦しむ人を癒す人になったわけです。
その李先生が常磐セルで12回に渡って教えてくれましたが、私の怨念はこうだと診断されました。理不尽な力によって抑圧されてきた枠組み。自分の意思を越えて、何かをさせられる。何かが動いていく、それを受け入れさせられる。「俺のせいじゃないのに、なんでだー」という怒りがあるんです。だから、私はちゃんとやってきたことが覆されたり、思わぬことが起きたりすると、カーッとくるんです。この間も戸締りしようと思ったら鍵がない「鍵をここに置いたはずなのになんでないんだ!」と過剰反応しました。脱いだズボン、玄関、教会の台所、デスク…どこにもない。「確かに置いたはずなのになんでないんだー!私は無意識に神様にも怒っていたのです。次の朝、鍵は食堂の隅にありました。有悟が変なところに置いていたようです。チャン・チャンですが、あの怒りはなんだったのだろうと思いました。で、分かったのは父親もそうだったんですね。この間、秋田に帰って分かったのですが、父のお父さん、おじいちゃんの家はものすごい資産家だったそうです。しかし、親と喧嘩したのか、遺産相続をすべて放棄し、無一文から始めます。おじいちゃんの奥さんも地主の娘だったそうですが、遺産を受けないで嫁いで来た。私の父は長男じゃないのですが、そのことに腹を立て、馬を引いて本家の家に「遺産をよこせ」とどなりこんだ。腹いせに、座敷に馬をあげたそうです。父は国鉄に入社したのですが、労働組合に入っていたため、レッドパージーで解雇されます。それから父の人生は狂ったのです。まさしく、理不尽な力によって抑圧されてきた枠組み。自分の意思を越えて、何かが動いていく、それを受け入れさせられる。それに対する怒りが、酒乱に走らせ、母や私たち子どもに当たったわけです。私にも同じものが流れています。ただ、私は牧師ですから、振り上げたこぶしを妻や子ではなく、自分を打ち叩く。抑圧するわけですね。ですから、もしも、私が伝道牧会において、不当な扱いを受けたら、自由がきかなくなるのです。前に進みたくても、進めない。固まってしまうのです。これは私の課題ですが、みことばの剣によって、不当な扱いに対する怨念から断ち切られるようにお祈りください。
皆さんも、クリスチャンとして、神様の恵みと愛を隣人に届けることができないとすれば、何かに束縛されているからではないでしょうか。また、神様から新しい道に進むことを示されているにも関わらず、前に踏み出すことができない。やはり、心の奥深くに、恐れと不安があるからかもしれません。パウロは、「真理のためなら、何でもできるのです」と言いましたが、本当にできますか。もし、できないとすれば、私たちは神様の真理と出会い、神様の真理に生かされ、神様の真理に押し出されるところまでいかなければなりません。神様が真理のみことばを通して、そこへ「行け!」と言ったら行くべきです。私たちに必要なのは大胆さ、勇気であります。失敗を恐れない信仰であります。私も町で会う人のため、癒しの祈りをしたいんです。しかし、「癒されなかったらどうしよう」という恐れがあります。だから、声をかけることができません。先月、秋田に行ったときは、癒しもできたし、伝道もできました。私にとってこの10年間が収穫の時です。「待つ伝道から行く伝道」にならないのでしょうか。使徒4章にすばらしいみことばがあります。使徒4:29-31「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
「待つ伝道から行く伝道」の原動力がここに示されています。これはキリスト教会では、陳腐かもしれませんが、それは祈ることです。私たちが主に向かって祈るならば、聖霊に満たされ、出て行く力が与えられ、語るべきことを語ることができるのです。祈って聖霊に満たされる。そうすれば、真理を行なうことができるのです。なんで、こんな当たり前すぎることをわかってしないのでしょうか。やっぱり祈りです。祈りが不足していたから、出て行く勇気がなかったのです。私たちが祈るときに、昔の聖徒たちと同じように、主が先立って進み、伝道の門戸をあけてくれるえしょう。恐れが消え去るまで祈りましょう。信仰がくるまで祈りましょう。そして、主が示してくださる新しい人生へと進み出しましょう。
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