「パウロが受けた啓示」   Uコリント12:1-10


2005/07/10 鈴木 靖尋牧師

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 神様は必要とあらば、すばらしい奇跡の体験を与えてくださいます。ごく少人数ですが、イエス・キリストを直接見たり、神様の声を肉声で聞いたり、あるいは天国を一度見て帰って来たという人もいます。しかし、信仰というのは見て信じるよりも、見ないで信じる方が幸いなのです。特別な体験はないよりもあった方が良いと思いますが、そういうものがなくても聖書のみで信じていける人はすばらしいと思います。きょうは、使徒パウロの特別な体験をとおして、2つのことを学びたいと思います。

1.パウロが受けた啓示

 パウロは前回、自分がどれだけ苦しみに会ったかを誇りました。そして、この箇所では、パウロはどれだけすばらしい啓示を受けたか誇っています。なぜかと言うと、コリント教会に分裂と混乱を与える自称「大使徒」たちがいたからです。パウロは、自らを誇ることは、愚かで無益なことはわかっているけど、しかたなく告白しているのです。パウロは「いやー、あんたこそ大使徒だ」と言われないように、主から受けた幻と啓示を、「あるひとりの人」と、第三者のように書いています。2-4節「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」14年前」とはパウロがアンテオケに呼び出された頃、あるいはアラビヤに退いていた頃かもしれません。とにかく、パウロはダマスコで復活の主に出会って召命を受けてから、10年以上は鳴かず飛ばずの時期があったということです。しかし、その期間はパウロにとって養いの時でありました。

 12使徒たちはイエス様から直接、選ばれて、3年半薫陶を受けました。ユダは落ちましたが、他の使徒たちは十字架と復活の目撃者として、初代教会を築き上げました。しかし、パウロはイエス様を直接見たわけでもなく、教えを受けたわけでもありません。そういう意味で、パウロは本当の使徒だとは言えないわけです。ですから、パウロは自分のことを「月足ずで生まれた者と同様な私…使徒の中では最も小さい者」(Tコリ15:8,9)と表現しています。リビングバイブルでは「未熟児みたいな、一番ちっぽけな者」と訳しています。私は何らかのハンデイを持っていても、負けないでそこから立ち上がる人に、ものすごく感動を覚えるのであります。ダビデも数に入れられていなかったのに、イスラエルの王に選ばれました。ひょっとしたら、自分のコンプレックスから来ているのかもしれません。イエス様を直接見た証言のもとに、福音書が書かれました。しかし、パウロが書いた手紙には、福音書にはない教理面がものすごく詳しく書かれています。この世に来られる前のキリスト、再び来られるキリスト、救いの原理、教会論…これらはパウロの独壇場です。主はこれらのことを私たちに知らせるために、パウロを選び、パウロに啓示を与えたのであります。ですから、パウロが書いた内容は、自分が実際に研究したものではなく、神様から直接受けた啓示ということができます。そういう意味で、パウロの教えは、使徒ペテロやヨハネと比べても、同等の権威があるということです。

 パウロは肉体を離れてなのか、そのままなのか分かりませんが、第三の天・パラダイスまで引き揚げられました。おそらくそこで、キリストと出会い、数々の啓示を受けたに違いありません。すばらしいですね。パウロ以外にも、パラダイスに引き揚げられたことのある人は、ある程度、いるようです。この間、来られたメルボンド師も祈っている間、天に引き揚げられたようです。ご本人は「雨が降り止まないと、返済ができないからなんとかしてくれ」と願ったのですが、イエス様はそういうことに興味がなかった。イエス様はメルボンド師に「教会が抱えている罪」について教えてくださいました。それは「律法主義である」と言うことでした。また、ハンター師も幻の中で高い所に引き揚げられ、地球全体を見渡すことが出来たそうです。彼はそのとき、神様がこの地を癒そうしていていることがわかったということです。また、インドネシヤの迫害が起こったとき、一人の神学生が刀で首を切られました。彼は数時間死んで、天に昇りました。そこにはいくつかの大きな部屋があったそうです。生前その人がどのように生きたかによって、部屋が分けられているようです。彼は、死後、キリストのさばきを受けることが分かったということです。このように、神様はある人に、特別なことを教えるために、天に引き揚げることがあるようです。しかし、そういう人は稀だということです。だれもかれも、パラダイスに上って経験できるわけではありません。パラダイスというキャバレーやパチンコぐらいなら行けるかもしれませんが…。

 ここから、私たちが学ぶべきことは何でしょう。それは、神様はご自分が用いようと選んだ人には、必要なものをくださるということです。パウロはガマリエルの門下生として律法を深く学んだ人であります。また、自由にギリシヤ語を話すことができたので異邦人伝道にはもってこいの人でした。しかし、パウロはそんなものは「ちりあくた、糞土のようなものだ」と言っています。パウロは一度、ダマスコの途上で打ちのめされ、そんなものよりも神様のくださる賜物の方がいかにすばらしいか知ったのです。パウロにはこういう聖書の啓示をはじめたくさんの、霊的賜物が与えられました。預言、癒し、知識、異言、信仰など。彼は使徒でありましたが、牧師でもあり、伝道者、神学者、預言者でもあったのです。本当に霊的な巨人であります。でも、それらすべては神様がパウロを用いようとして与えたものです。だから、パウロは「私たちはキリストのしもべ、また神の奥義の管理者である。管理者には、忠実であることが要求される」(Tコリ4:1,2)と言っています。イエス様は私おも、牧師に召してくださいました。大変申し訳ありませんが、私はあまり頭が良い方ではありません。学歴もそんなにないし、人格的にも欠けがあります。だいたい、生まれと育ちが良くなかった。指導力もないし、自分さえ良ければそれで良いと考える、我がままな者です。でも、神様は牧師とするために、私に必要な賜物をいくつか下さいました。第一に「勧め」の賜物です。これは学者の賜物ではなくて、聖書の真理を分かりやすく教えられるということです。第二は「知恵」の賜物です。学者は難しいことを難しく語ることができますが、私は難しいことを単純に語ることが出来ます。「勧めと知恵」は、おそらくコンビなのかもしれません。私は聖書を瞑想すると、「聖霊様が、これとこれを語りなさい」と教えてくださいます。次週の聖書箇所を読むとき、「ああ、こんな砂漠のような箇所から、一体、何を語れるんですか」と思うときがよくあります。しかし、聖書をよく読んだあと、目をつぶります。すると、あぶり出しのように、語るべきメッセージが浮かび上がってきます。私のメッセージがすばらしいとかすばらしくないと言うのではなく、神様はご自分を現すためには、石ころでも用いるということです。

 みなさん、私たちには生来の能力、才能があります。ピアノのように努力して得たものもあるでしょう。しかし、神様がくださる賜物があります。それは自分の快楽のためではなく、神様ご自身が、あなたを用いるために与えた能力であります。メルボンド師がおっしゃっていました。メルボンド師の奥様は特別に音楽大学で学んだことがないそうです。しかし、神様は奥様に「歌」の賜物を与えました。一生懸命、学んで努力して歌う歌もある程度すばらしいです。しかし、神様が与えた賜物は、格段に違います。技術を越えて、人々の心に感動を与えることができるのです。ホルンの宮田四郎氏、そしてクラリネットの柳瀬氏、二人とも、「自分ほど、うまい奏者は日本にはいない」と自負していました。それぞれドイツに行って学ぶわけですが、「日本人は技術的には申し分ない。しかし、何かが足りない」と師匠から言われたそうです。それはスピリット、聖霊からくる賜物であります。お二人は聖霊の力と賜物をいただいてから、変わりました。彼らが演奏すると、癒しが起こります。人々の心に平安を与えることができます。みなさん、これが聖霊の賜物です。もちろん、努力や勉強も必要です。しかし、それ以上に大切なのは、神様のくださる能力、賜物であります。そのためには、何が重要でしょうか。「主よ、あなたのご栄光のために私を用いてください」と自らをささげることです。神様はご自分の栄光をこの世に、あなたを通して現わしたいと願っておられます。どうぞそれを求めましょう。あたたに与えられている賜物を発見しましょう。与えられたら、その賜物を忠実に管理しましょう。

 

2.パウロが受けたとげ

 7-9「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」パウロに、すばらしい啓示とすばらしい賜物も与えられましたが、良くないものも与えられました。神様は良き神様なのに、何故、悪いものを与えるのでしょうか。パウロは、「私から去らせてください」と三度も祈りました。三度とは完全ですから、三回というよりも十分祈ったということでしょう。その良くないものとは何でしょうか。パウロは「肉体に一つのとげが与えられた」と言っています。刺とは何でしょうか。いろんな説があります。パウロがダマスコの途上でまばゆい光を見て、3日間盲目でした。その後、目からうろこのようなものが落ちたと書かれています。ひょっとしたら、パウロは目が悪かったのかもしれません。ガラテヤ4章で「もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか」とガラテヤの人たちに言っています。その証拠として、パウロの手紙のほとんどは口述筆記です。最後に、パウロ自身が手ずから、大きな字で書いたときもあります。他に、てんかんであったとか、マラリヤからくるひどい頭痛持ちという説があります。ガラテヤ書にありますが、その病があることにより人々から軽蔑される可能性があったということです。もし、メッセージしている人が、途中、口から泡を吹いて倒れたら、やぱっぱり大変であります。パウロが「これさえなければ、もっと伝道できるし、もっと多くのことができるのに」とイエス様に何度も訴えたことでしょう。

 クリスチャンのある人たちは、病の癒しを求めないで、「これはとげですから」とその病気を甘んじて受ける人がいます。私は、それは違うと思います。パウロの場合は特別でした。なぜなら、彼は第三の天に上り、見てはいけないものを見、口に出すことのできないことばを聞いたんです。彼は使徒として、特別な啓示を受けました。だから、神様はパウロが高慢にならないように刺を与えることを許したのです。刺は神様が与えたというよりも、サタンから来たものです。ヨブ記にもありますが、神様はサタンに、ヨブの持ち物や肉体に触れることを許しましたが、命をとることは許しませんでした。そのように、神様はパウロに刺が下ることを、許されたのです。もし、パウロが絶好調で走るならものすごいことができたかもしれません。でも、彼も人間なので、高慢になって堕落するかもしれません。それはまるで、糸の切れた凧、あるいは風船のようにどこかに飛んで行っちゃいます。そのため、重しが必要です。パウロにとっての重しが肉体の刺だったのです。しかし、この刺は、細いバラの刺、というよりも、原文では杭という言葉が使用されています。霊的巨人を押さえつけておく、杭ということになるでしょうか。多くの人はパウロのような霊的巨人ではありません。だから、「これは肉体のとげです」と簡単に言ってはいけないのです。それは使徒パウロと同等に自分を扱っていることになります。ですから、神様のみこころは、Vヨハネにありますように、「愛する者よ。あなたが、魂に幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」。これが一般的な神様のみこころであります。

 しかし、みなさん。今のものと矛盾するようではありますが、刺とまでは行かないまでも、何らかの弱さというものがだれにもあるものです。弱さと罪とは違います。罪は悔い改め、神様のきよめをいただかなければなりません。「私が怒りっぽいのは弱さです」とか「私があきっぽいのは弱さです」などと言ってはいけません。それは罪です。一方、弱さの場合は、肉体に受けた何らかのダメージが継続的に続いているということです。たとえばアルコール依存症の方は、完全に癒されることはないと聞きます。長い間、アルコールを絶っていても、たった1杯で元通りになるということです。ですから、ある人たちは「私はアルコール依存から解放されて、7年目になります。現在も癒しの途上にある者です」などと言います。みなさんには何らかの肉体の弱さをかかえておられるでしょうか。「ど近眼」の人はいらっしゃいますか。この間、中嶋先生がそのためにお祈りしてくださいました。0.0いくつの人が、0.4くらいになるという人が何人もいらっしゃいました。「ど近眼」から「近眼」になり、それで頭痛から解放されたということです。疲れやすい人はおられるでしょうか。壮健な人ほど無理をして走り続けます。そして、パタンと倒れたら二度と起き上がれない。そういう人よりも、体に何らかの弱さのある人は、無理をしないので、90歳まで生きられるようです。鬱的な人はおられるでしょうか。うつ病までにはいかないけど、失望落胆、鬱的になってしまうというのはあるかもしれません。ホルモンのバランスが悪いせいか、体や心に変調をきたすという人もおられるかもしれません。皮膚の弱い方、気管の弱い方、胃腸の弱い方、間接の弱い方、頭の弱い方…いろいろおられるかもしれません。なぜでしょう。私たちが死にたる体を持っているからです。もちろん完全な癒しもありますが、弱さのままで、残る場合もあります。どうしたら良いのでしょうか。

 ここに、すばらしい約束があります。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」これは、パウロだけに与えられた約束ではありません。弱さをかかえていらっしゃるすべての人への福音です。パウロもそうですが、弱さがある。私を倒れさせ、苦しめるものがある。しかし、同時にもう1つのことが起こります。それは神様の恵みの力です。恵みが自動的に働いて、弱さがまるでないかのように克服してくれるのです。パウロはローマ8:2で「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」と言いました。弱さというのは、「死の原理」であります。しかし、それに対抗するためにいのちの御霊の原理が働くということです。たとえるとこうなります。この地上にいるすべての人には、万有引力の影響を受けています。高いとこにいれば、下に落ちるという法則があります。しかし、鳥は空を自由に飛んでいます。なぜ、落ちないのでしょうか。鳥は学校で万有引力の法則を学んだことがありません。万有引力に打ち勝つためにどうしたら良いか研究したこともありません。それでも鳥たちは万有引力に打ち勝っています。なぜでしょう。それは命があるからです。同じように、私たちには「死の原理」がだれにでも働いています。しかし、私たちの内には別の原理があるのです。それは、命の御霊の原理です。聖霊の働きです。聖霊が私たちの内側にいらっしゃって、私たちを引き揚げてくださるのです。「私の恵み」とは聖霊の力であります。聖霊はイエス様を信じる人ならだれにでも内住してくださり、世の終わりまでも共にいてくださいます。パウロがなぜ、「刺を取り去ってください」と3度も祈っても聞かれなかったのでしょうか。それは、パウロが神様にいつも頼ることを学ぶためです。そして、「主の恵み」でいつも生きることを忘れないためです。

 もう10年以上も前になりますが、矢部登代子さんという姉妹のことが、雑誌に書いてありました。姉妹は若いときの怪我が原因で、腰の骨が固まってしまい、歩けないどころか、車椅子に座ることもできなくなりました。そのため、どこへでも自由に行くことができません。しかし、彼女のところに多くの人たちが訪れます。みんな矢部さんから励ましを受けて、ある人はキリストに出会います。ある癒しの集会に、彼女がベッドに寝たまま出席していました。私が感動したのは、彼女は諦めないで奇跡を信じて、癒しの集会に出ていたことです。でも、その日は癒されなかったようです。雑誌に書いてあったように、腹ばいになって、首だけぴょこんと上げておられました。しかし、彼女の笑顔が忘れられません。そのとき、なぜ、多くの人たちが彼女の周りにやってくるのか分かりました。彼女の内側にイエス様が生きておられるからです。肉体は確かにハンディはありますが、彼女の魂がものすごく健康で輝いていました。主が私たちに約束されています。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」だから、私たちもパウロのように弱さを誇りたいと思います。この世のたちは、弱さを隠し、強さを誇るでしょう。しかし、その人は、主の恵みを知らない人です。私たちはキリストの力が私たちをおおうために、むしろ喜んで、弱さを誇りたいと思います。

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