「献金の本質」    Uコリント8:10-15

2005/05/15 鈴木 靖尋牧師

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 ある人たちは、聖書みたいに古いものは現代の私たちには役に立たないと思っています。しかし、聖書は永遠に変わらない真理を語っています。また、方法論というよりも、本質的なものを語っています。ですから、どんなに人間の知恵が増し加わろうとも、聖書は微動だに動くものではありません。むしろ、私たちが聖書から謙遜に学ぶなら、そこからたくさんの知恵や真理を汲み上げることができるでしょう。きょうは献金の本質を、私たちの生活一般にも適用したいと思います。

1.今、持っているもので

 コリント教会はエルサレム教会に自主的に献金を行なったようです。ところが、教会内のいろんな問題で中断してしまいました。それでも、献金をしたいという願いがなおコリントの人たちにはあったようです。だから、パウロは11、12節でこのように語っています。「ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。」ここに、繰り返し出てくる表現があります。「今、それをし遂げない」どんなふうに、でしょうか?「持っている物で」「持たない物によってではなく」「持っている程度に応じて」となっています。神様は「今、持っているもの中からささげなさい。持っていないものまでささげなさい」とは、言われないということです。先週も学びましたが、献金は「いくら、いくらささげなさい」と強制してささげるものではありません。この世において、「宗教」と名前がつくものはやたら献金が強調されます。「献金する人は信仰がある人だ」とか、「献金すればさらにご利益を受ける」とあおったりします。しかし、それは間違いです。献金は恵みであり、神様から受けた恵みに応じて、ささげれば良いのです。神様は私たちの経済事情をよくご存知であります。また、神様は私たちのささげる心そのものを一番大事にしておられるからです。ここでは、「今、持っているもので」と言われています。つまり、「特別なお金が入ったらささげます」とか、「給料が上がったらささげます」「お金が余ったらささげます」ということではありません。お金が余るなどという日は一生来ないかもしれません。ですから、「余分なお金が入ったら、ささげます」というのではなく、今、持っている中から精一杯ささげれば良いということです。

 「今、それをし遂げなさい。持っているもので、それをし遂げなさい。持たない物によってではなく、持っている程度に応じてしなさい」。この原理は奉仕にも言えるのではないかと思います。私は救われて間もない頃、英語礼拝の通訳を頼まれました。教会には、現役の英文科、あるいは英文科卒の人が何人もいました。しかし、彼らは恥をかきたくないのでやろうとしないのです。その頃、ミス・ケネディという宣教師がおられ、私たちに「今、持っている物でやってみなさい」とチャレンジしました。もっと、「英語が上手になってから」ではなく、今、持っている英語力で良いから使ってみなさいというわけです。日本人は高校生で数千という単語を習得しています。しかし、実際、日常会話で使うのは中学校レベルで十分なんです。しかし、正しく英語を語らなければならないというプレッシャーから、今持っているものが出て来ないのであります。今持っているものを使っていくうちに、だんだんヴォキャボラリーが増えてくるんですね。大学受験や英検のための勉強は問題があるように思えます。とにかく、私は恥をかきながら、ボロボロになって通訳をしました。でも、そうやって奉仕にチャレンジするところが買われたのか、いろんな奉仕を頼まれました。それで、だんだん用いられるようになったのです。あまりパフォーマンス指向になってはいけませんが、神様は積極的な人を用いるということは確かです。みなさんは奉仕を頼まれたとき、「私にはそういう能力がありませんから」「私よりも上手な人がいます」「もうちょっと、うまくなってから」と断ったりしないでしょうか。もし、なんべんも断っているならば、奉仕は二度と回ってきません。なぜでしょう。神様は喜んで仕えたいという人を用いたいからです。神様は「いやいや」奉仕をやっている人を用いたくないのであります。小さなことでも良いのです。今、持っているものから始めたら、次のステップが見えてくるのです。

 またこのことは、人生一般にも言えることではないでしょうか。ある人たちはこのように言います。「いつか、お金がたまったら、ヨーロッパ旅行したい」。「では、貯金を積み立てているの?」と聞くと、「いや。ぜん、ぜん」と答えたりします。「いつか、病気が治ったらこういうことをするのになー」という人もたまにおります。私は前の教会にいたとき、国立相模原病院が近くでした。私は副牧師と一緒に、月に何度か喘息の患者たちを見舞いに行っていました。広場でギターを弾いて、一緒に歌うという集会が度々持たれました。喘息というのは病気そのものよりも、もし突然発作が起きたらどうしようという恐怖の方が大変です。彼らは退院しても、病院の近くにアパートを借りて住んでいました。いつ、発作が起きても大丈夫なようにです。彼らは「健康になったら何でもできるのになー」と良く言っていました。健康になったら何でもできるのになー。私は健康でしたが、何でもできるわけではありませんでした。健康は万能ではありません。皆さんの中にもご病気を抱えている方がおられるかもしれませんが、「健康になったら・・・しよう」ではなくて、今、し始めたら良いのではないでしょうか。私たちは「お金があったら」「助けてくれる人がいたら」「チャンスがあったら」と言い訳しがちであります。しかし、最も必要なことは、信仰をもって一歩でも踏み出すことだと思います。ある人が言いました。「もし、仕事を初めることができたら、もう半分はできたようなものだ」と。

 日本のキリスト教会には1つの病気があります。それは「もし、リバイバルが来たら」であります。「リバイバルが来たら、大きな癒しも起る」。「リバイバルが来たら、大きな会堂も建つ」。「リバイバルが来たら、もっと大勢救われる」。確かに、中国とかインドネシヤ、南米ではリバイバルが起こっています。死人がよみがえります。会堂に入れ切れない人が集まっています。本当にうらやましいなーと思います。でも、リバイバルが来なければ何もできないのでしょうか。ヨハネ4:35「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」これは、サマリヤの出来事です。確かにサマリヤのリバイバルは使徒8章にあります。ピリポがサマリヤに下って行ったら、ものすごいことが起こりました。しかし、ヨハネ4章のときにはリバイバルは起こっていなかったんです。ユダヤ人が救われていないのに、どうしてサマリヤ人が救われるのでしょうか。でも、一人の婦人が変えられたことによって、サマリヤの町に変革が訪れました。弟子たちは「サマリヤが救われるのは、まだ先のことでしょう」と思っていました。ところが、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」。私たちも、「この人は、まだ早い。うちのお父さんは、お母さんはまだ早い」と思ってはいないでしょうか。来週、中嶋先生が来られますので、軽い気持ちでお誘いしたらいかがでしょうか。日本人は、教会という建物に入るだけでも大変なんです。一回、入って、神様を体験したら、こんどは救いを求めるようになるかもしれません。キリスト教を知的に理解をしてから入る人もいますが、神様を体験してから神の国に入るという人も大勢いるでしょう。ゴスペルで30人以上の方が洗礼を受けましたが、その多くの人がジーザスと出会ったので、クリスチャンになったのではないでしょうか。新約聖書に出てくる、ザーカイは木の上からイエス様を見下ろしていました。それなのに、イエス様は「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。イエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」とも言われました。「きょう」なんです。明日とかいつかではありません。使徒パウロも「今、持っているもので」と言いました。「今です」。聖書には「時」と言うことばが2種類あります。1つはクロノスで、過ぎてゆく時間のことであります。もう1つは、カイロスで、「ちょうどよい時」「好機」という時であります。これは、永遠の神様が、あなたに特別な時を与えて、特別なことをなしてくださるということです。成功する人の人生は、神の時を捕まえる人であります。神様の時が来たら、持っているもので踏み出す事の出来る人であります。「いつか」とか「こんど」、「やがて」ではなく、今、持っているものでやってみましょう。神様から、何年間も、迫られていることはないでしょうか。しかし、今、あなたがそれを、し始めたら、半分はできたようなものです。アーメン。

 

2.欠乏を補う

 13節以降を見ますと、「欠乏を補うことによって平等になる」と書いてあります。これは、コリントの教会に余裕があるならその分を、欠乏しているエルサレム教会に与えるということです。また、逆にエルサレム教会に余裕ができたら、こんどはコリント教会にささげる。そういうことで、平等になるということです。平等というよりも、釣り合いとか均等という方が良いかもしれません。つまり、同じキリストのからだとして、こっちが豊かであれば、足りないところに与えなさいということです。考えてみると、私たちの体もある程度、均衡が保たれています。右利きの人が、右手だけが大きくて長くなったらどうなるでしょうか。あるいは、口にばかり栄養が行って、目とか鼻にいかないとどうなるでしょうか。しかし、これをキリスト教会全体のこととなると、弱い。ものすごく弱い。都市の教会はある程度、豊かです。それに比べて地方の教会は、大変です。なぜなら、学生が卒業するとみんな都会に出て行くからです。せっかく育てても、都市に流れて行く。そうなると、やはり経済的にもきびしくなります。自分の教会、自分の教団と考えると、知らない教会に対しては、熱意が下がります。しかし、よーく考えてみますと、日本の教会の多くは、海外からの援助でできたものです。プロテスタントはアメリカ、イギリス、ヨーロッパのお世話になっています。ノルウエーという国は、世界で一番、宣教師を出している比率の高い国です。ノルウエーというと、昔、バイキングで有名です。大海賊で、ヨーロッパ中を荒らしまわっていた悪い国です。しかし、キリスト教国になったら、福音を世界中にもたらす国になりました。一番、宣教師の少ない国は、やはり日本でしょう。「日本が救われていないのに、どうして海外の宣教なんかできるか」これが本音であります。だから、日本の教会は受けることに慣れて、与えることが弱い。なかなか、自立できない教会もあります。キリスト教の精神は、受けることよりも与えることであります。しかし、教会の中には貰いたいという貧乏人根性がありますので、なかなか与えることができません。

 私もそうなんです。私は8人兄弟の7番目で生まれたものですから、人を面倒見る、お世話するということにものすごく弱い。他の人はともかく、自分さえ良ければいい。他の人など、どうでも良い。自分の生活がいっぱいで、そんな余裕はない。そんなふうに生きてきました。しかし、クリスチャンになったとき、なんで与える人が多いのだろうと驚きました。まず、自分が洗礼を受けたとき、たくさんの方からお祝いのカードとかプレゼントをいただきました。私が神学校に行くといったとき、70代のやもめの一人暮らしの方が、8000円もする聖書を贈ってくれました。牧師になるとき、ジャケットをオーダーしてくれた人もいました。それを着て、18年前にここで説教したわけです。私は教会に来て初めて分かったのですが、なんで兄弟姉妹はこうやって気前が良いのかなーと思いました。この世では、世話になったらから、その分あげる。ギブアンドテイクの世界です。世話になっていない人にはあげません。しかし、教会では、たとえ返ってこなくても、与えます。聖書には、返されたら報われてしまうので、返してもらわないほうが良いとまで書いてあります。私も子どもが4人も与えられましたが、だんだん、与えることの喜びが出てきました。しかし、それでもどこかに貧乏人根性がまだ宿っています。賜物のテストをしても、「与える」という賜物は、ずーっと下です。では、どうしたら気前良く、必要を覚えている人にあげることができるのでしょうか。それは「父の心」だと思います。数年前から、父の心の回復という教えが入ってきました。イエス・キリストとか聖霊は神学的に分かっていても、父なる神様が弱かったです。父なる神様は、本当に良いものを私たちに一方的に与えてくださる方です。ですから、その人が癒され、父なる神を体験すると、父の心が与えられます。父の心は、返却とか報いは期待しないんです。私たちは、この「父の心」をいただいたなら、献金とか与えることがあまり苦にならなない。むしろ、与える喜びが来ます。与える喜びとは、成長したクリスチャンの喜びかもしれません。「ください、ください、ください」と求めているのは、まだ子どもなのかもしれません。

 では、なぜ、貧しい人と富んでいる人がいるのでしょうか。ここに「平等になる」と書いてありますが、神様は平等な方ではないと思います。よく、「平等じゃない」、「フェアーじゃない」、「不公平だ」と文句をつける方がいらっしゃいます。私が知る限り、神様は平等な方ではありません。タラントのたとえを見ますと、おのおののその能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もう一人には1タラントを渡したと書いてあります(マタイ25:15)。平等じゃありません。イスラエルの選びでもそうであります。神様はどの国の人たちよりも、イスラエルを神の民として選びました。主は8人兄弟の8番目のダビデを選びました。兄のエサウではなく、弟のヤコブを選びました。ローマ9:15「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」とあります。私たちは人と比べてはいけないのです。神様は人をそれぞれ違ったものとして造られたのであります。ある人は生まれつき頭の良い人もいます。容姿端麗の人もいます。金持ちで生まれた人もいます。病弱で生まれた人もいます。能力がある人、あまりない人がいます。長生きする人もおれば、短命な人もいます。なぜでしょう。神様は平等ではありません。それは、私たちが互いに補い合うことを学ぶためであります。持っている人は持っていない人に与えることによって喜びがあります。しかし、貰う人は卑屈になってはいけません。それは神様がその人と富ませたのは、その人を通して与えるためだからです。その人を通して、神様が与えてくださるわけです。日本にはこういう考えはあまりありませんが、西洋では、金持ちは貧しい人に与えるのが当然であると思っています。「当然?」と考えるのは行きすぎかもしれませんが、多く持っている人はそれだけ責任があるということです。5タラント持っているひとは、2タラント持っている人よりも多くの責任があるということです。1タラントの人は、1タラントしか持っていないと卑屈にならないで、1タラント全部使えるようにフルに能力を発揮すれば良いのです。1タラントは現在のお金で6000日分の給料です。今で言うと、5、6千万円ですから、大した額であります。足りないでしょうか?

 天国の法則があります。それは与えたら与えられるということです。ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」これは試してみないと分かりません。私は結婚式でたくさんいただいたことがあります。その頃、小牧者訓練会というところに属していました。大きな大会では、予約献金というのがあります。とのときになくても、紙に「このくらいいついつまでささげます」と書いて、出すわけです。約束の期日が来るとちゃんと本部からそのコピーが送られてきます。まことにえげつないというか、「あなたは、約束したでしょう?」と暗黙のうちに催促しているわけです。「ゲー」。その頃、結婚式がありましたので、小牧者訓練会だけではなく、他のところにもささげることができました。するとどうでしょう。また、その額が、いやそれ以上、返ってきます。今はあまりありませんが、あの時には、与えたら、与え返されるという法則を体験しました。今、あまりないのは、与えていないから、ケチになっているからですね。「ああー、主よ、ケチになっています。悔い改めます」。「神様は自分の生活がダメになっても良いからささげよ」とはおっしゃっていません。「いつか余分なお金が与えられたらささげなさい」ともおっしゃっていません。「今、持っているもので、持っている程度に応じて」とおっしゃっています。これが献金の本質であります。私たちは天の父のような心を持ちたいです。天の父は、私たちに良きものを与える神様です。ひとりじめしないで分かち合いなさいと勧めておられます。この地上に教会があるのは、父なる神様の恵みを分かち合うためであります。霊的なものも、物質面においても、奉仕においても、互いに分かち合うところに神の国があります。父なる神様はそういう共同体の中に住んでくださり、さらに恵みを増し加えてくださいます。

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