「聖きを全うせよ」     Uコリント7:1-4

2005/04/24 鈴木 靖尋牧師
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 きょうのテーマは、聖さ、ホーリネスです。日本には、いくつかの聖め派の教団がありますが、私もその中に少しだけ属していました。そういう神学校にも行きました。しかし、私は「聖め」とか「ホーリネス」には馴染めませんでした。教授たちは聖さを強調していましたが、他の教団をさばいていました。「聖め」といいながら、灰汁の強い先生方がいっぱいいたなーというイヤな思い出があります。そういうことで、私はきょうの箇所は、あまり語りたくないのです。しかし、順番に聖書を学んでいますので、苦手な箇所も語らなければなりません。これはちょうど、子どもが人参やピーマンが嫌いだと言うようなものです。ですから、好き嫌いしないで、きょうのみことばも食べたいと思います。噛まないで、ぐっと飲んじゃったりして…。

1.このような約束

 Uコリント7:1に「このような約束が与えられているのですから」と書かれています。「聖くなれ」とか「汚れから離れよ」と命ぜられる前に、約束があるということです。どんな約束でしょうか。少し、前の箇所にあります。6:17-18「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」問題は、これを条件として取るか保証として取るかであります。私たちクリスチャンはすでに、父なる神様の息子であり、娘であります。もう、身分が与えられているんです。この箇所は旧約聖書からの引用ですから、まだそうなっていないように書かれていますが、イエス様を信じたら、既に神様の息子であり、娘です。ハレルヤ!ローマ人への手紙には、キリストを信じると、神の義が与えられると書いてあります。義というのは、1ぺんも罪を犯したことのない完全な正しさと言う意味です。神様は私たちにその義をプレゼントして下さったのです。私たちはイエス様の血潮によって、すべての罪が赦され、神の義が着せられている存在です。たとえて言うとこうです。泥んこになった子どもが、汚れた服を脱ぎます。そして、お風呂に入って、石鹸でゴシゴシ洗い、頭もシャンプーします。ああ、奇麗になりました。お風呂から出ます。タオルで体をふきます。さて、その子どもは、どちらの服を着るでしょうか。先ほど脱いだ汚れた服でしょうか、それとも洗濯した服でしょうか。洗濯した服ですね。これが、神の義です。私たちは神の義の衣をいただいたんです。ということは、私たちクリスチャンは、聖さをすでにいただいているんです。これを原初的聖化と神学的に言ったりします。

 もう一度、復習します。この世の人がイエス様を信じると、罪赦され、神の義を着せてもらいます。そして、身分的には、父なる神の息子であり、娘なのです。神様は王様ですから、私たち王子であり、王女なんです。プリンス&プリンセスです。私たちは罪深いこの世から贖い出され、神様のものとなりました。これが、神様のくださる聖さなんです。これが、ホーリネスなんです。私たちは自分に対するイメージをしっかり持たなくてはなりません。「私は、神様のものだから、既に聖められている、聖い存在だ。アーメン」。さて、そういう人がこんど罪深い世の中でまた生活することになります。いや、聖いまんま天国に引き揚げてもらったら良さそうなものですが、神様は私たちをこの世に遣わすとおっしゃっています。もう、私たちはこの世のものじゃないのです。神様のものとして、神様から、この世に派遣されている存在です。するとどうなるでしょうか。どんなことが起るでしょうか。また、泥がつくし、汚れがつきます。ひょっとしたら、友達にさそわれ昔の罪を犯すかもしれません。また、友達や家族に条件反射的に悪いことばを発するかもしれません。また、この世の快楽や楽しみに引きずりこまれるかもしれません。そのときに、「彼らから分離せよ、汚れたものに触れないようにせよ」という戒めを守れと聖書は言います。でも、その前にとても重要なことがあります。何でしょうか?「私はすでに聖い存在だ」ということです。「私はすでに神の息子であり、娘だ」ということです。そういうふうに自分のイメージを持っていたらどうでしょうか。神の子どもとして、それはふさわしくないと思うでしょう。私は聖いので、もう汚れたことはしたくないと思うでしょう。自分を何様と思うか、これが大事なんです。いや、私たちはすでに何様なんです。罪赦されただけではなく、義とされ、神の子どもとなっているんです。聖書では、クリスチャンは「聖徒」と呼ばれています。あのコリントの人たちをパウロは聖徒と呼んだのです。コリントの人たちは、不品行、分裂、争い、高慢、汚れが教会内にありました。でも、パウロは彼らを「聖徒」と呼んだのです。私たちも「聖徒」「セイント」なのです。もちろん、再び罪を犯すかもしれませんが、聖徒なんです。もちろん、再び罪を犯すかもしれませんが、神の子どもとしての身分はなくなりません。もちろん、再び罪を犯すかもしれませんが、イエス様の血潮で衣は何度も聖められます。この約束、この保証に立つことが何よりも大切です。自分がキリストにあって、何者になったのか、これが重要なのです。

 

2.縁を切る

 7:1の後半、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神をおそれかしこんで聖きを全うしようではありませんか」。この訳だと、霊肉の汚れが自分の中にあって、それをきよめなければならないような意味にも取られます。この箇所をリビングバイブルで紹介します。とっても分かりやすくて、こちらの方が、原文にもっと近いです。「愛する皆さん。私たちは、このようにすばらしい約束を与えられているのですから、肉体と霊を汚すいっさいの悪ときっぱり縁を切って、自分をきよめようではありませんか。そして心から恐れかしこみつつ、ただ神様だけに、自分をささげようではありませんか」。すごいですね。聖きを全うするとは、自分をささげるという献身として書かれています。最初のポイントは、神様から一方的に、聖くさせられている、義とみなされているという約束でした。ところが、第二の面は、神様の約束に対する私たちの応答であります。神様がせっかく、聖めてくださったから、「私は聖い生活をさせていただきます」ということです。本当にそんなことができるのでしょうか。聖書に、「犬は自分が吐いたものを食べる」とあります。また、豚はいくら奇麗にしても、汚いところを転がるようであります。お酒をやめても、またお酒に戻るかもしれません。タバコをやめてもまたタバコを吸うかもしれません。もう、怒らないぞと決意してもまた怒るかもしれません。もう、嘘つかないぞと思ってもまた嘘をつくかもしれません。でも、クリスチャンになって1つだけ変わったことがあるのです。それは、「ああー、自分には罪があるな、罪を犯したなー」という痛みがあるんです。昔は、「こんなもん、たいしたことない、みんなやっている。悪いのは俺じゃない、世の中だ」と当たり前に過ごしていたんです。でも、クリスチャンなると、麻痺していた心が目覚めるのです。「痛いー、苦しいー」。これは正常なことのしるしです。クリスチャンなると今までなんとも思っていなかったのに、「ああー、これは罪だなー」と分かる。それは救われている証拠です。どうぞ、安心してください。

 しかし、ここでパウロが教えていることは、一歩、聖さへと進むことを教えています。どうしたら、聖い神様にふさわしい者となるのでしょう。どうしたら私自身が聖いものとなるのでしょう。身分とか約束ではなく、こんどは、中身の問題です。中身が聖くなるためには、あることをしなければならないということです。それは何ですか。再び汚れないように、注意するということです。リビングバイブルはこう言っています。「肉体と霊を汚すいっさいの悪ときっぱり縁を切って、自分をきよめようではありませんか。」「きっぱり縁を切る」なんて、ものすごく日本的ですね。つまり、クリスチャンになると身辺整理をしなければならないということです。身辺整理って何ですか?肉体を汚すもの、霊を汚すものを捨てたり、関係を絶ったりするということです。これをしないと、罪に巻き込まれ、敗北してしまいます。では、私たちの肉体を汚すものとは何でしょう。コリントの教会で問題だったのは、不品行、性的罪でした。いやー、これは男性には痛いですね。京都のどこかの牧師もこれにはまっていたんですね。よそごとではありません。では、どうして不品行、性的罪を犯してしまうのでしょうか。「それは罪だよ」という心の声があったはずです。何故、負けてしまったのでしょうか。それは縁を切っていなかったからです。たとえば、こんなことをするでしょう。コンビニで、ポルノ雑誌をちらりと見ます。昔、買った本も捨てられません。ビジネスホテルで、泊まったとき、ちょっとぐらいならと「パチッ」とスイッチを入れます。そうしていくうちに肉がどんどん太っていきます。聖書も読んでいないので、霊はやせっぽっちです。誘惑がやってきます。肉はおすもうさんのように太っています。少しずつ栄養をやっていたからです。やせっぽっちの霊が「やめろよ」と止める。しかし、肉がはるかに強い、「なんだこのやろー」。肉に負けて罪を犯します。どうしたら良いでしょうか。肉に断食させます。そして、霊に食べ物を与えます。部屋からエッチな本をすべて捨てます。変なビデオも本も見ない。その代わり、聖書を読み、信仰書を読みます。すると肉はだんだん弱くなり、霊がだんだん強くなるんです。そうなると誘惑がやってきても今度は負けません。

 「きっぱり縁を切る」とありましたが、私たちはだれと親しい関係を持つべきか、整理しなくてはいけません。リビングバイブルでは、6章の後半、このように書いています。「主を愛していない者の仲間入りをしてはいけません。クリスチャンは、信じていない人と、どうして手をつなぐことができましょう。神の宮と偶像との間に何の一致があるでしょう」。私は洗礼を受けたのが1979年6月でしたが、7月に付き合っていた彼女から「分かれて欲しい」と言われました。「鈴木さんは変わってしまった」と言われました。また、同郷の友人とも断絶せざるを得ないことになりました。彼は私の親友の友達で、東京に出てきてから、一緒にお酒を飲んだり、車で出かける友人でした。しかし、価値観が全く違い、また、あることが起こったために、もう付き合えなくなったのです。私は「いつくしみ深き」の「わが友は笑い迫害すとも」でじーんと来ます。私は洗礼を受けてから、彼女と友達を一ぺんになくしてしまったのです。しかし、こんどは教会に行くようになりました。日曜日の礼拝と夜の集会、水曜日の祈祷会、土曜日の掃除。さらに、早天祈祷会という朝6時からの祈り会に出て、それから会社に行くようになりました。教会でもたくさんの友達もできました。そういう意味では、古いものと縁を切って、新しいものと関係を持つようになったのです。みなさんも、クリスチャンなってから、淋しい思いをされた方が何人もおられるでしょう。しかし、この世の人たちと全く付き合ってはいけないという意味ではありません。私たちはそこに遣われているからです。何のために?それは伝道のためです。イエス様を証し、福音を分かち与えるためです。全部の人と関係を切ってしまったら、伝道のチャンスもなくなってしまいます。しかし、ここで申し上げたいことは、リビングバイブルでもありましたように、「主を愛していない者の仲間入りをしてはいけません。クリスチャンは、信じていない人と、どうして手をつなぐことができましょう」ということです。つまり、そういう人たちと、一緒のくびきをつけないということです。彼らを無視しろという意味ではなく、境界線を引くということです。私たちは家に柵や塀を建てます。あるいは、私たちの体には皮膚があります。これが境界線です。あるときは、「クリスチャンとしてそれはできません」と断らなければなりません。また、あるときは、「私はそういうところには行きません」と断らなければならないのです。「私はクリスチャンです」と言うこと自体、境界線を張っていることになるんです。隠れキリシタンのように自分を隠していたら、この世の誘惑に勝つことはできません。

 また、霊を汚すものとは何でしょうか。それは偶像崇拝です。占いとか、オカルト、それから魔術的な本やゲームも問題です。私は「ハリーポッター」の本とか映画は私たちの霊に良くないと思います。しかし、日本は偶像崇拝の国であります。家には仏壇や神棚があるでしょう。檀家とか氏子だったりします。法事やお葬式もあります。都会には誘惑、地方には因習があります。田舎に行ったら、冠婚葬祭、全部関わらなければなりませんから大変です。また、クリスチャンになる前に、他の宗教と関わったり、偶像を拝んでいた人もいるでしょう。こういうこのからも縁を切っていく必要があります。しかし、子どもや奥さんが、勝手に仏壇をひき下ろして、燃やしてしまうということはできません。やっぱり、そこの家長が変わらなければそれは無理です。ですから、一日も早く、家族が救われるように祈らなければなりません。でも、何らかの境界線は引く必要があります。お墓参りに行っても、先祖に祈らないとか、仏壇を拝まないとかそういうことはすべきでしょう。しかし、クリスチャンでも色々な考え方がありますので、戒律みたい書くことはできません。でも、1つだけ言えることは、私たちクリスチャンはイエス様と婚姻関係にあるんです。教会はキリストの花嫁と言われています。たとえ、他にどんな神様があろうと、私たちはキリスト様と結婚したんですね。結婚したにも関わらず、他の神々に行ったならばそれは何でしょう。霊的姦淫です。私たちはイエス様と結婚した限りは、もう、他の神様とは縁を切る、付き合わないということです。たまに、「私は、イエス様を信じるし、お釈迦様も信じるよ」と言う人がいますが、それは、おかしい人です。聖書には「二人の主人に仕えることはできない」とか「二心の者は安定感に欠く」とあります。ですから、私たちは、その人がクリスチャンだと自称しようとも、同じくびきを負うことはできません。旧約聖書のイスラエルの民は、せっかくエジプトから救い出され、カナンの地に入りました。ところが、カナンの偶像、バアルを拝んで堕落したのです。バアルは豊穣の神様ですが、同時に性的にみだらなお祭もあります。イスラエルの民は、聖なる神を捨て、そちらの神様になびいてしまったのです。これは、旧約聖書が私たちに示している最大の教訓であります。まことの神様だけを礼拝する。イエス様だけを愛する。否定的かもしれませんが、これこそが、聖なる民としてなすべきことであります。

 

3.心を開く

 パウロは7:2節から「私たちに対して心を開いてください」と言っています。「私たち」ってだれでしょうか。パウロのような使徒たちに対してです。パウロはコリント教会を創設した人です。前のポイントは縁を切るとか、俗なるものを捨て去るということに重点が置かれていました。しかし、それだけだと私たちは成長することができません。つまり、私たちは使徒たちのような人と、使徒たちが書いた聖書に心を開かなければならないということです。パウロは、コリントの人たちに約束しています。「私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません」。そして、パウロはコリントの人たちを信頼し、誇りに思っています。コリントの教会の周りには、偽預言者もいたし、ユダヤ教徒もいました。しかし、パウロのような人たちに心を開いて、交わっていくならば、霊的健康が保たれ、信仰的にも成長していくわけです。これと同じように、私たちクリスチャンは、世の罪とは一線を引きますが、主にある兄弟姉妹とは交わって行く必要があります。しかし、これも「ただし」があります。クリスチャンでありながら、なおもこの世の罪を犯していたり、偶像礼拝をしていたりしている人は別です。信仰を持っているといっていながら、人を利用したり、コントロールする人はやっぱり避けるべきであります。でも、私たちは神様を恐れ敬い、聖い心を持っている人たちを友としなければなりません。もちろん、罪のない完全な人はいません。お互いに天国に行くまでは罪があります。それでも、主にある兄弟姉妹として、キリストの恵みを分かち合う。そのためには、思い切って「心を開く」必要があります。「心を開いてください」と言われても、「また、傷つくんじゃないだろうか」と恐れます。でも、私たちは信仰の共同体を必要としているんです。互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに祈り合い、互いに励ましあう。これが教会なんです。セル教会はこの共同体をとても大切にしています。どうか、一人ぼっちの孤立したクリスチャンならないで、共同体に属しましょう。共同体に属したら、誘惑からも守られますし、信仰的にも成長します。

 また、この新約聖書は使徒たちが書いたのです。イエス様は文章を残しませんでした。代わりに、使徒たちがイエス様の教えを書き残しました。また他にも、聖霊様から啓示を受けて書いたものもあります。ですから、「心を開く」とは、聖書に対して心を開くということです。Uテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」。ここに「義の訓練」とあります。クリスチャンは義とされたところにとどまらないで、義の訓練も必要なんです。中身も聖い者、正しい者となる、そのためにはみことばを読んで、神様から訓練を受ける必要があります。聖書には、幼子が食べる柔らかいものもあれば、堅い義の食物もあります。みなさん堅いものが嫌いですか、それとも流動食の方が好きですか。堅いものとはお肉とか、栄養があるものです。みことばも、栄養のあるものは堅いんです。実行するのが難しいれど、それはキリストの弟子の食べ物です。どうぞ、聖書に対して、「これは神様のことばである」と、心を開きましょう。そのときに、真理の御霊があなたに悟りを与え、みことばを味わうことの喜びがあなたに訪れるでしょう。私たちは毒になるものは体に入れません。しかし、良いものは体に入れます。これは聖書を読むことです。そうしていくうちに、私たちは成長し、実質的にも、神の息子、神の娘となることができるのです。神様はあなたに対して、岸辺にとどまっていないで、もっと沖へ出なさいとチャレンジしているのではないでしょうか。

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