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4月は年度替りですので、何かと大変です。学校のときは、新しいクラスメイトや先生方とどう関わったら良いかと緊張したものです。環境が急激に変わると、精神的にものすごくダメージを受けます。日本には不登校やひきこもりが大変多いようですが、人間関係に対してナイーブな人が多いのではないかと思います。きょう登場します、パウロは新しい地、新しい地へと福音を携えて出て行きました。だから、人々からの迫害や圧迫が、日常茶飯事でした。パウロは自分を神のしもべとして推薦しましたが、どのような点に気をつけたのでしょうか。私たちが、パウロの生き方を学ぶならば、どんな環境の中でも、立派なクリスチャンとして生きて行けるんじゃないかと思います。6章4節から10節までを読みますと、神のしもべとしての特徴が、なんと30個も書かれています。これを全部解説しますと、3時間くらいかかりますので、代表的なものを選びたいと思います。きょうは、普段よりも多いんですが、4つのポイントでお話します。
1.非常な忍耐
4節と5節には、パウロが受けたものが10個あげられています。これらはすべて否定的なものですが、そういう中でも、パウロは自分を神のしもべとして推薦しています。先ず最初が、非常な忍耐、悩み。悩みと言いますのは、精神的・肉体的な圧迫のことです。悲しみ、嘆き、鞭打ち、入獄、暴動、労役。労役はある英語の聖書では、オーバーワークと書かれていました。働き過ぎということです。徹夜は英語の聖書では、スリープレス。教会に対する心使いからくる睡眠不足であります。断食。断食は自分で断食をするというよりも、食べるものがないので断食をせざるを得ない。断食というよりは「餓え」ということであります。パウロが受けた苦しみは、少し後の11章後半に詳しく書かれています。「しもべ」というのは奴隷でありますから、そうしたからと言っても何か報酬をもらえるわけではありません。やって当たり前という世界であります。教会では、特定な人たちを聖人とか聖職者に祀り上げていますが、本当は神のしもべなのであります。神のしもべであるならば、非常な忍耐、悩み、悲しみ、嘆き、鞭打ち、入獄、暴動、労役、眠れぬ夜、餓えという苦しみが伴うのが当然であるということです。聖書が本当であるならば、教会はどうでしょうか。神のしもべを、王様や教皇、○○世にまで高め過ぎてしまったのではないでしょうか。
神のしもべにとって第一に伴うものが、非常な忍耐であります。パウロは3節から分かるように、「この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて自分を神のしもべとして推薦しています」。この務めとは何でしょうか。それは、和解の務めであります。パウロは神の和解を人々に手渡す人であります。神様、キリスト様、そしてパウロは「とうか、和解を受け入れてください」と懇願しています。懇願って、決して格好の良いものではありません。身を低くして、「どうかキリストを信じて、救われてください」と願うことであります。西洋のキリスト教は、いわば殿様商売であります。懇願などいうのはありえません。キリスト教国は特にそうであります。「お前ら、救ってやるから献金しろ」「お前ら、救ってやるから我々を敬え」「お前ら救ってやるから教会の言う事を聞け!」と1800年間もやってきたんです。黙示録に大バビロンのことが書いてあります。この世と妥協し、富と権力と名声を得た宗教が、大バビロンであります。使徒パウロは、まったく逆のものを受けています。では、なぜ、非常な忍耐が必要なのでしょうか。それは人々のところに出かけて行って、神様の和解を懇願するからであります。この世の人たちが、「ああ、そうですか。キリストを信じて、私も神様と和解したいです」と言うでしょうか。おそらく、一番最初に来る返答は、「神なんか信じない」ではないでしょうか。日本人の場合は、「私は私の神様を信じています。けれど、キリスト教の神様はいりません」と答えるでしょう。まず、真の神様のことから説明しないとダメです。欧米やイスラムの人たちは、唯一の神様は信じています。おそらく、80%以上は信じているでしょう。しかし、キリストを救い主、主として信じているかどうかは、別であります。キリストを信じないということは、神様と和解していないということです。神様と敵対関係、あるいは無関係ということであります。「オレには関係ない!」という人に伝道するのに一番大切なことが、非常な忍耐であります。忍耐がないと、「もう、やってられない。勝手にしろ!」となるでしょう。
神のしもべ、つまり福音を宣べ伝える者にとって一番必要なものは、「非常な忍耐」であります。「非常な忍耐」は、ギリシヤ語を直訳しますと、「たくさんの忍耐」であります。ですから、聖書学者たちは、その後に続く9つのもの「悩み、悲しみ、嘆き、鞭打ち、入獄、暴動、労役、眠れぬ夜、餓え」を含んでいると解釈しています。それはもとかく、神の和解をもたらす、神のしもべには「たくさんの忍耐」が必要だということです。1回や2回、馬鹿にされて「もう、いい。お前なんか地獄でもどこでも行ってしまえ!」と言っちゃいけないんです。げし、げし、とやられても、神との和解を勧める、これが神のしもべです。もう終わりましたが、「ごくせん」。ものすごい視聴率で、最終回は30%超えていたようです。私は最後だけ見たんですが、相手高校に殴られ放題で、1つも抵抗しない。リーダー各の生徒が足蹴にされていました。ストーリーは、よくわかりませんが、あそこで、ケンカを買っていたら、彼らは卒業できなかったかもしれません。3年D組が全員卒業できるように、みんなが非常な忍耐をしたわけです。先生の生徒たちへのゴールは卒業だったんです。私たちのこの世の人たちに対するゴールは、何でしょう。「キリストを信じて、神の国に入ってもらうことです」。このためだったら、頭を何べんでも下げても良いのではないでしょうか。神様、キリスト様、パウロが懇願しているんですから、私たちも「どうか救われてください」とお願いすべきです。そのために、非常な忍耐が伴うことも覚悟したいと思います。
2.純潔
6節と7節には、神のしもべが持つ、恵みが7つあります。忍耐や悩み、苦しみばかりだと潰れてしまいます。それらを乗り越える、7つの恵みであります。6節から見ますと、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により…」。最初に出てくるのが「純潔」であります。純潔とは、道徳的な純潔さ、そして、動機の純粋性であります。これがないと、この務めがそしられ、人々につまずきを与えてしまいます。先週、京都かどこかの牧師が、性的虐待で訴えられてニュースになりました。詳しい事はわかりませんが、非常にカルト的な教会だなーと思いました。牧師が高められすぎて、教祖みたいになっています。牧師のことばは神のことば、教会員は絶対服従。こうなると、カルトです。牧師は大体、男性が多いですから、男性の罪と言えば、そういうものであります。あのようなことがテレビで報道され、新聞に載りますと、多くの人たちが躓いてしまいます。全国には、真面目に伝道している牧師や伝道者がたくさんいます。それでなくても、日本人は教会に行かないのに、大打撃であります。
使徒パウロが、「純潔」とあげているのは、やはり意味があります。純潔とは、ピュアー、道徳的にも動機においても、混じり気のないことです。政治家は清濁合わせて飲むと言うかもしれませんが、神のしもべはそういうことをしてはいけません。でも、大きな誘惑が1つあります。それは「教会成長」であります。30年くらい前から、教会成長ということばがアメリカから入ってきました。「教会は大きくならなければならない、大きくなければ教会ではない。大きい教会は良い教会、小さな教会は良くない教会。」そのように露骨には言いませんが、日本の多くの教会は、教会成長を目指してがんばってきました。しかし、アメリカでは「教会成長」ということばは、今は既に、死語になっているそうです。日本においては、団塊の時代の牧師は今もがんばっていますが、若い牧師たちは、何か間違っているんじゃないかと気付き始めました。私も若い牧師に入るんでしょうか?それとも、境界線にいるかもしれません。正直、私も大きな教会を目指してきましたし、今も心の奥底では、大きな教会を建てたいと思っています。でも、もっと大切なのは純潔さであります。純粋な動機であります。もし、牧師が教会成長を第一の目的にするならどういう弊害が出てくるでしょう。清濁合わせて飲むということが起こるのです。建前と本音を使い分けます。講壇では神のことばを語るかもしれませんが、他の場所では違う。家庭やスタッフ、役員の間で何を話すでしょうか。教会の成長を妨げるものはすべて悪になります。賜物のある人、影響力のある人、お金を持っている人が尊ばれます。いつしか、神の国の価値観とは全く逆の、この世の価値観が教会を支配してしまいます。
ですから、教会が大きいとか小さいとか問う前に、神様に対して純潔であるかどうかです。やっていることがすばらしくても、動機が何かです。妬みや分派心、怒りでやっていたら、最後は悲惨です。地味でも、教会が大きくならなくても、神様の前に正しいこと、嘘、偽りのない愛を追い求めるべきであります。大きな教会でも、イエス様がいない場合があります。メル・ボンド先生がメッセージでおっしゃっていました。身なりの貧しい人が教会にやってきました。しかし、教会から追い出されました。次の週も、次の週もやってきましたが、中に入れてもらえませんでした。1ヶ月たったある日曜日、教会の外で腰掛けていました。そこにイエス様が来られたそうです。そして彼に言ったそうです。「私は何十年もこの教会に入ろうとしたけれど、入れてもらえなかった」と。イエス様がいない教会が果たしてあるかどうかわかりませんが、ものすごい皮肉です。そういえば、黙示録にあるラオデキヤの教会がそうでした。あの手紙は教会、クリスチャンに送られたものです。未信者じゃありません。なのに、イエス様が戸の外に立っています。それでも、ラオデキヤの教会は「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もない」と自負していました。主はラオデキヤの教会にこうおっしゃいました。「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい」。「ぴーこのファッションチェック」ではありませんが、変なものを着ていないでしょうか。金ピカとか、ブランド品を着ていれば良いというわけではありません。私たちも、偽善とか虚飾、偽りの衣を捨て、神様のくださる白い衣を着たいと思います。
3.人々の評価
8節には4種類の人々の評価があります。「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。」正直、ほめられたり、好評を博したりするなら悪い気はしませんね。しかし、これも曲者です。イエス様がルカ6章でこのように言われました。「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです」(ルカ6:26)。みんながほめてくれたら良さそうなものですが、そうではないということです。ここで問題なのは「みなの人」であります。おそらく、その人はみんながどう自分を思っているか、気になっているのかもしれません。額には緊張からくる汗がにじんでいます。人が自分を何といっているか聞き耳をたてています。大きな会社のフロアーで働く人とか、学校の生徒、小さな子どもをかかえる主婦に、そういう人がいるかもしれません。しかし、「みんなからほめられる、みんなからよく思われる」ということは不可能です。病気になります。あのパウロですら、そしられたり、悪評を受けたんです。イエス様も全くそうでありました。全部の人たちから、「あなたは救い主です」と言われたわけではありません。もし、自分の意見や考えをはっきり言うならば、当然、賛成する人と、反対する人に分かれます。福音もそうであります。聖書に「信じる者が救われ、信じない者はさばかれる」とはっきり書いてあります。また、「信じたら神様に従う」ということもはっきり書いてあります。しかし、偽預言者はそうじゃないですね。彼らは、神様よりも、人のご機嫌を取る人たちです。私たちは愛をもって真理を語る必要があります。そのときに、嫌われたり、悪評を受けるかもしれません。しかし、何が大切なのでしょうか。確かに評判も大切ですが、もっと大切なのは神様の評判です。
日本人は神様よりも人であります。「人がどう思うか」「人がどう見るか」という方に重点をおき過ぎています。親と共依存の関係にある子どもは特にそうです。李先生がおっしゃっていました。一人の娘さんが、どこかに旅行に行きました。それで友達にお土産を買うのにとても悩んでいる。「どれが良いか、これが良いだろうか。こっちがセンスあるかなー、こっちかなー」。「友達のために、そんなに悩んでいるの」と聞いた。すると、友達じゃなくて、お母さんだと言う。家に帰って、お母さんに見せた時、「あんたこんなもの買ってきたの」と言われないために、真剣に悩んでいる。お母さんのためのお土産じゃなくて、友達のためなのですよ。なんで、そんなに悩むんですか?その娘は、お母さんから好意を得たいからです。お母さんから認められたいからですね。おそらく、結婚するときも、「おかあさんが、すばらしい婿さんね」と気に入るだろうか、それとも…。まさしく共依存ですね。日本人は、共依存のベルトを切らなければなりません。親でも、人でもありません。「神様がどう思うか」「神様がどう見るか」であります。もし、神様の前に正しいことをしているなら、たとえ、人々からそしられようと、悪評を受けようと関係ないですね。あとから、分かる日がきます。ま、地上で分からないことがあっても、天国では必ずわかります。箴言29:15「人を恐れるとわなにかかる。しかし主を信頼する者は守られる」とあります。どうぞ、人の目を恐れてはいけません。人の評判を気にしてはいけません。むしろ、私たちは主を信頼すべきであります。主は私たちの隠れた所を見ておられます。そして、必ず報いてくださるからです。
4.7つのパラドックス
最後はおまけです。4つ目は覚えていないかもしれません。でも、パラドックスということばは頭に残るかもしれません。パラドックスとは「一般の意見に反する」という意味です。逆説的とか逆転的と言っても良いかもしれません。神のしもべには7つのパラドックスが伴うということです。8節の後半から10節までお読みします。「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」。大逆転、大変面白いですね。人々からは「人をだます者のように見える」けれど「真実」だということです。私たちはセールストークに懲りています。「宗教と訪問販売お断り!」という札が玄関に貼ってあったりします。また、「良い話には注意!」と聞いています。福音は「良き訪れ、良い知らせ」ですね。きゃー、だから困っちゃう。いくつもの関門や関所を通っていかなければならない。しかし、有力なヒントがあります。福音は貧しい人に語るということです。富んでいる人、満腹な人にはいくら語っても跳ね返されてしまいます。心の貧しい人、悲しんでいる人、義に餓え渇いている人にこの福音を伝えるのです。ずばっと入って行きます。富んでいる人、満腹している人に無駄な時間をかけないでください。
もう1つあげて終わりにします。7つのパラドックスの2つ目。「人に知られないようで、よく知られ」です。英語の聖書は、とても面白い。unknown
yet well-known.パウロはキリストの直弟子ではありませんでした。だから、「ペテロやヨハネは知っているけど、お前はだれだ!」と言われたんです。しかし、パウロは使徒たちが行っていないところへ出かけ伝道しました。コリントもそうです。だから、コリントの人たちは、「パウロを知らない」とはいえないんです。だって、パウロが宣べ伝えた福音によって救われたからです。ここで重要なのは、多くの人から知られなくても、魂と魂の関係ある人から知られていたら良いということです。多くの人と交わることは不可能ですし、その必要はありません。私たちは神様が与えてくださった隣人を愛すれば良いのではないでしょうか。名前ばかり知っているくらいではなく、心底ぶちまけた兄弟姉妹、そういう人を一人でも増やしていったら本当のセル教会です。unknown
yet well-known.私たちはクリスチャンは地上では有名でなくても良いのです。牧師は有名になりたいという誘惑がありますが、どちらで有名になるべきでしょうか。地上では有名でも、天国では無名では困ります。私たちが目指すのは、地上ではunknown無名でも、天国ではwell-know有名になることです。地上では無名でも、天国では有名。それは、イエス様の愛によって、一人ひとりを愛することです。イエス様の恵みによって、一人ひとりに仕えることです。
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