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本日は、聖務表と異なりまして、2週間分の内容をお伝えしたいと思います。そして、来週は受難週にあたりますので、マタイ27章から十字架のメッセージをお取次ぎしたいと思います。賛美の変更も出てくると思いますが、よろしくお願いします。先週は「土の器」と題して、お話しいたしましたが、土の器とは私たちの肉体のことであります。さらに続いて、パウロは肉体のことを別のものにたとえています。私たちの肉体と肉体の中身は将来どのようになるのでしょうか、いつものように2つのポイントで学びたいと思います。
1.見えるものは一時的
16節にまず、「外となる人」と「内なる人」という区分があります。外なる人というのは、土の器、肉体のことであります。外なる人、肉体は衰えていくわけであります。4:11で、パウロは「死ぬべき肉体」と言っております。そうです。この肉体は、年齢と共に衰え、やがては死ぬべき存在なのであります。肉体は年老いて、やがては死ぬのです。おお、なんという厳粛、なんという残酷、なんという運命でしょうか。私の子供は、幼稚園に迎えに行くと、みんなに「うちのパパは51歳なんだよ、大きいでしょう」と自慢します。もう、私は恥ずかしくなります。ラジオで「オヤジギャグの特集」をやっていましたが、オヤジは年齢を聞かれたらこう答えると言うのです。「おいくつですか?」「はい、20歳と381ヶ月でーす」。こういうふうに答えられたら、相手はちんぷんかんぷんになります。それでは、外なる人に対するものはなんでしょうか。「内なる人」です。内なる人と言いますのは、魂と霊であります。しかし、正確に言いますと、救われている人の魂と霊です。で、この内なる人はどうなるのでしょうか。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。ということは、私たちの魂と霊は、肉体の衰えと関係なく、日々新たにされているということです。これは、3:18に書かれていたように、「栄光から栄光へと主と同じ姿に姿を変えられて行く」ということであります。おおー、となると、クリスチャンの生き方というのは、この世の人たちと随分と変わってきますね。パウロは言うように、どんなことがあろうと、勇気を失いません。この世の患難は軽く思えてきます。
さらには、どんな価値観になるのでしょうか。18節「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」これはどういう意味でしょうか。「見えるもの」とは、直接的には「外なる人」のことであります。衰えていく肉体のことであります。肉体は「一時的」であります。では、「見えないもの」とは何でしょうか。これは、「内なる人」のことであります。魂とか霊のことであります。魂も霊も目には見えません。そして、クリスチャンは目に見えない、そして永遠に続く、魂と霊に目を留めるというのであります。しかし、不思議ですね。目に見えないのに対して、どうやって目を留めることができるのでしょうか。「目を留める」のギリシヤ語は、他に「注意する」「見守る」「気をつける」という意味もあります。ですから、英語の聖書では、consider、「よく考える」というふうに訳しているものもあります。私たちは、「内なる人」のことをよく考えているでしょうか。たばこを吸うとか、お酒を飲み過ぎることは確かに「外なる人」に害を与えます。では、「内なる人」の害とは何でしょうか。マルコ7:20-23でイエス様はこのように言われました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」私たちは外から肉体に取り入れるものを気にしますが、「内なる人」から出てくるものに対しては、あまり気にしないという傾向があります。男性がやられやすいのは、不品行、姦淫、好色、高ぶり、愚かさなどです。私もクリスチャンになっていなければ、「好色と愚かさ」丸出しの人生だったでしょう。今でも、酒の席で歌った変な数え歌を覚えています。私がボケてそういうのを歌い出したら、面会謝絶にしてもらいたいと思います。女性がやられやすいものは、悪い考え、貪欲、ねたみが多いのではないでしょうか。「悪い考え」とは、ものごとの悪い面を見て、捻じ曲げて考えるということです。女性の方が「ねたみ」が強いかもしれませんね。こういうことを言うと性差別で訴えられるかもしれませんが、そういう傾向性があるということです。
世の人たちは、目に見える一時的なもの、つまり肉体に目を留めます。年を重ねた人に対する化粧品。コエンザイムQ、コラーゲンなどの栄養剤や健康食品。ダイエット、しわとり、プチ整形、健康のための様々な運動、育毛剤、ズラ…こういうものは、テレビの何チャンネルかで1日中やっています。ほどんどのものが、この「外なる人」の老化をどのように食い止めるかであります。もちろん、年をとっても健康で美しく見せることは悪いことではありません。でも、老いと死は確実にやってきます。やはり、「外なる人」に投資しても、それは一時的で過ぎ去るものだということを忘れてはいけません。私たちはもっと「内なる人」である、魂と霊に投資をすべきであります。新聞や雑誌、テレビの時間を、聖書や信仰書を読む時間に回す必要があるかもしれません。お金も、聖書とか信仰書、あるいはセミナーに使うべきであります。聖書をいつまでも、教会の貸し出し用をあてにしてはいけません。この世の人の価値観は、見栄え、外なる人がいかに美しいかであります。テレビを見ると女性のアナウンサーはみんなそういう人たちが起用されているように思います。ヨン様も○○様も同じです。容姿がすべてという価値観です。しかし、聖書の価値観は、入れ物よりも、中身です。外なる人よりも、内なる人であります。外なる人は衰えます。あのオードリーヘップバーンもそうでした。マレーヌ・デイトリッヒもそうでした。アランドロンもそうでした。ピンクレデイも天地真理もそうです。私たちは一時的なものではなく、いつまでも続く「内なる人」のことをよく考えましょう。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。…私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」アーメン。
2.地上の幕屋
パウロは5章から、外なる人と内なる人を別のものにたとえています。1節に「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても」とありますが、これは、魂と霊が住んでいる場所をさしています。パウロは肉体を「地上の幕屋」にたとえています。パウロの職業は天幕作りでしたから、天幕の寿命をよく知っていたでしょう。「天幕」は英語ではテントですから、いわゆるテントを想像しても結構です。布製やビニル製がありますが、長年使っていると、朽ちてきます。1節後半には「神の下さる建物」と書いています。テントと比べて、建物、ビルデングは半永久的であります。コンクリートは50年持つと言われています。でも、パウロは「天にある永遠の家」と言っていますので、50年どころか、永遠に壊れない住まいということになります。2節から4節までを見ますと、「着る」とか「脱ぐ」という表現が繰り返し出てきます。パウロは、幕屋を脱いで、天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。「それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです」とも言っています。
私たちは自分たちの体をどのように考えたらよいのでしょうか。この世の人たちは「体と心」あるいは「肉体と精神」と別けます。そして、肉体が滅んでしまったら、心も精神もなくなってしまうと考えるでしょう。心とか精神は、脳の中にある1つの活動ぐらいにしか考えていません。これを「魂」とか「霊」と言うと、宗教的だなーと馬鹿にされるかもしれません。しかし、聖書は肉体だけではなく、魂も霊も実態的なものであると言います。ただそれが目に見えるか、目に見えないかだけであります。そして、魂と霊という「内なる人」は、何か入れ物が必要だということです。この地上では、肉体という幕屋を着ています。しかし、この幕屋はだんだん古びて、やがては壊れてしまいます。するとどうなるのでしょうか。内なる人が幕屋を脱ぐんですね。これを「死」と呼んでいます。魂と霊が肉体を離れるのを「死」というわけです。肉体は土に帰ります。そして、魂と霊は裸の状態になります。クリスチャンであるなら、パラダイスに引き揚げられ、主と共に待ちます。何を待つのでしょうか。肉体が栄光の体に復活することです。この栄光の体を、「神のくださる建物」「天にある永遠の家」「天からの住まい」と呼んでいるのです。一般の宗教のように、霊魂だけがどっかで「ふあふわ」と生きるのではありません。聖書は肉体のあがない、肉体の復活を述べています。ですから、私たちの救いは、内なる人が、栄光の体を着たときに初めて完成されるのです。今、私たちが見ているこの肉体は、地上の住まい、テントであります。しかし、これでは永遠の御国で暮らすことはできません。この肉体は脱がなければならないのです。
昆虫の世界を見ますとそのことがよく分かります。トンボがヤゴからかえるとき、古い皮を捨てます。蝶も成虫になるときは、さなぎを脱ぎしてて、蝶になります。でも、キリスト教の場合は、一度捨てたものが、神様によって全く新しい元素に変えられるということです。イエス様が一番良い例です。イエス様が復活されたとき、弟子たちはすぐ分かりませんでした。マグダラのマリヤは「墓の番人」と思いました。エマオの途上の二人は、全く別人だと思いました。彼らは、しばらくしてやっとわかったのです。また、弟子たちの中に現われたときは、部屋の戸が閉ざされたままでした。栄光の体は、物質に左右されないということです。しかし、手には釘の穴、わき腹には槍の傷跡がありました。ですから、栄光の体に復活しても、あるものは残るということかもしれません。復活してから、食べたり飲んだりできないのかと心配なされる方もおられるかもしれません。イエス様は復活後、弟子たちと何度か食事をしています。また、神の国が完成したときに、ぶどうから作った飲み物を飲むとおっしゃっています。天国では12種類の木から自由に取って食べることができると書いてあります。福音書には、神の国を晩餐会にたとえられていますので、食べる楽しみはあるということです。しかし、結婚とか、子供も産むことはありません。なぜなら、私たちは天の御使いのようになるからです。つまり、永遠に生きる存在なので、子孫を残す必要はないということです。夫婦の関係はなくて、兄弟姉妹というのは、ちょっと寂しい感じもしますが、どうなんでしょうか。ま、行ってみなければわかりません。一言で言いますと、内なる人、つまり私たちの魂と霊は実体があり、概念とか、生物の現れではないということです。
そして、5節から10節までを読むと、果たしてどちらが良いかというパウロの意見を見ることができます。つまり、この地上で天幕生活をしているのと、天上において永遠の住まいで暮すのとどちがら良いかということです。8節にはパウロの本心が書かれています。「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうが良いと思っています」という訳ですね。これは、死んで主のみもとに行きたいということです。似た箇所が他にもあります。ピリピ1:21-24「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」げー、パウロは、「生きることと、死んで主のもとへ行くこと、んんー、どっちが良いか」板ばさみの状態です。でも、本心を言うなら、「世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」。この世で生きているよりは、死んだ方がはるかに良いと言っているんです。ここで、パウロは自殺を勧めているのではありません。なんか、最近はネットで知り合って、一緒に自殺をするというヒドイ事件もあります。パウロは、そういうことをしろと言っているのではありません。
なぜ、パウロが死んで主のもとへ行きたいと言ったのでしょう。それは、見ちゃったからです。Uコリント12章には、彼は第三の天に引き揚げられ、パラダイスを見たと書いてあります。とにかく、将来、行くところを見ちゃったんですね。だから、本音を言ったら、死んで主のみことへ行きたいということなんです。これは、世をはかなんで自殺を計るということとは全く違います。向こうの方があまりにもすばらしいので、早く行きたいということです。1月来られたメル・ボンド師もパラダイスに引き揚げられて、素晴らしい体験をした人であります。先生の本にこのように書いてありました。私は臨死体験をした多くの人の話を聞いたり、またそれらの人々の体験を本で読んだことがあります。彼らは主の臨在の中に入って行き、また帰ってきたのです。彼らは全員変えられて帰ってきたのです。多くの場合、良くない人であったのが、良い人となり、善意とあわれみに満ちた、神さまを敬う人に変わっているのです。この体験は、Uコリント5章にある、祈り抜く体験によく似ています。祈り抜く体験は、臨死体験とは異なっていますが、同じところに到達していると考えることができると思います。祈り抜く体験は、全き心をもって異言で祈り始め、肉が霊の領域へ到達するまで、祈り続けていく体験です。5:2「この幕屋の中にあって、うめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます」にある、「うめき」はギリシヤ語では「声に出して祈り、熱心に着ようとすることである」と定義しています。私たちの霊は絶えず、神様の霊的な世界で、より深い体験をすることを必要とし、そのことを切に願っているのです。自然の世界で私たちが霊の食物を必要とし、食物がないと死ぬのと同じです。私たちの肉の身体が、そうであるように、このことは霊の身体にもあてはまるのです。私たちの霊は、自然の世界から超自然の世界に、不満足な人生から超自然的な満足できる人生へと、超自然的に成長し続けたいともだえているのです。メル・ボンド師は、「この地上においてうめきを覚えるくらい必死に、主の臨在を求めよ」と勧めておられます。神様の臨在を一度体験したなら、世の中の楽しみは、安っぽいイミテーション、偽物に映るということです。私も、栄光の主をそしてパラダイスを見たなら、もっと違う話ができるだろうなーと思います。イスラエル旅行も良いですが、パラダイスに一度、引き揚げられたいですね。そうすると、単なる解説ではなく、体験として証することができるからです。
使徒パウロは、結論として、どっちでも良いと言っています。天上では確かに主とお会いすることができます。そして肉体にいる間は、主から離れています。でも、神様はその保証として御霊を下さいました。御霊は主の霊でありますから、同じであります。私たちは天国に行ってイエス様と出会うときに、異質なお方とか、初対面という感じがしないでしょう。むしろ、「懐かしいなー」と思うでしょう。なぜなら、クリスチャンになってから、主が内側におられて、歩みを共にしていたからです。さきほど引用したピリピ1章でも言われているように、私たちがこの肉体にとどまっているのには訳があります。それは地上にまだ使命が残されているからです。使命がなくなったら、さっさと引き揚げてください。そうすれば、栄光の主とまみえることができるでしょう。でも、まだ生きているなら、「んんー、なんか役目があるんでしょう」。「いやー、もう年取って、何もできません」という人がいるかもしれません。でも、パウロは9節でこう言っています。「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」。そうです、私たちは「主を喜び、主に喜ばれる生き方をする」これが、最後の一息までやるべきことがらです。当教会の山下牧師は、90何歳かで召されましたが、最後は「ハレルヤ、ハレルヤ」と言って、召されたそうですね。いいねー。くれぐれも、「南無阿弥陀仏」と言わないように。そういう可能性のある方は、面会謝絶にするように頼んでおいてください。ま、たとえボケようと、あらぬことを言おうとも、霊は救われていますから、大丈夫です。私たちは聖書が言う、来世観を持たなければなりません。この世の人たちは、輪廻とか、無になるとか、常世の国に行くとか漠然としたことしか言いません。じゃあ、私たちはどうなんだと言われたらどう答えるでしょうか。主イエス・キリストは天からくだって来られた方です。この地上ではなく、天上から来られたので、天国のことをちゃんと説明できるのです。この世の宗教は、すべて人間が考え、人間が想像し、人間が作り出したものです。しかし、聖書の救いはそうではありません。聖書の救いは、父なる神様が計画し、子なる神様が実現し、聖霊なる神様が適用してくださるのです。皆さんは、聖書の死生観、聖書の来世観をお持ちでしょうか。いや、そういう観念ではなく、主のすばらしい臨在を体験しておられるでしょうか。主のすばらしい臨在を体験しているなら、肉体にとどまろうと、あちらの方に行こうと関係ありません。どうぞ、切なるうめきをもって、主ご自身を慕い求めましょう。
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