「土の器」      Uコリント4:7-15

2005/03/06 鈴木 靖尋牧師

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 創世記2章には、神様は「土のちりで人を形造った」と書いてあります。その意味は、私たちの肉体は、土と同じ成分でできているということです。また、イザヤ書には「主は陶器師で私たちは粘土である」と書いています。使徒パウロが「土の器」と言っていますが、花びん、水差し、とっくりなどの陶器の器を想像したら良いと思います。土の器こそが私たちの肉体であります。細い器もあれば、太い器もあります。背の高い器もあれば、低い器もあります。共通して言えることは、土の器ですから、何かにぶつけたら欠けるし、落ちたら割れてしまいます。けっこうもろくて、壊れたら修復不可能です。しかし、私たちクリスチャンは、もろい土の器の中に宝を持っている存在だということです。

1.宝とは何か

 パウロは「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」と言いました。「この宝」となっていますから、やはり少し前をみなければなりません。6節には「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」とあります。すると、それは神様の啓示の光のことなのでしょうか。もし、啓示の光と解釈するなら、かけた部分、ひび割れたところから、光が出てくるでしょう。クリスチャンでも弱さがあるし、失敗することもあります。でも、そこのところから神様の光が溢れ出ていたらなんと幸いでしょうか。もう1つの解釈は、この後の文全体を見るということです。これが宝じゃないかなと思えるものがあります。この後には「イエスの命」が2回、「命」が1回出てきます。ですから、宝とは「イエス様の命」ではないかと思います。土の器の中に、イエス様の命を持っていると、「壊れそうで、壊れない」ということが起こるようです。「命」とはギリシヤ語では「ゾーエ」であります。この命は、復活の命、神の命、永遠の命という意味です。生まれつきの人は残念ながら、肉体の命しか持っていません。肉体の命は、犬とかネコなど動物がもっている命と同じです。しかし、この命だけだと、どうしても限りがあります。長くもっても80年か90年であります。怪我や病気で、もっと縮まります。

 どうでしょうか、「ゾーエ」の命、神の命、永遠の命をいただきたいとは思いませんか。ヨハネ3:16にすばらしい約束があります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。どうすれば、良いのでしょう。それは、いたって簡単です。御子イエスを信じれば良いんですね。別な表現では、救い主イエスを心の中に受け入れたら良いんですね。そうしたら、神様が賜物として、永遠のいのちを与えてくださるということです。ものすごく簡単です。ものすごく簡単なことをどうして多くの人たちはできないのでしょうか。その理由は、簡単すぎるからです。しかし、子供は素直にもらいます。大人は「ただより怖いものはない」と疑って、手を出そうとしません。だから、イエス様は「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできません」とおっしゃったのです。神の国は、私たちの行いや努力で勝ち取るものではありません。神の国は恵みであり、信仰によって受け取るものです。まだ、もらっていない人はぜひもらいましょう。マタイ13章に神の国のたとえが書いてあります。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ13:44)。「ただ」と言いながらも、「持ち物全部売り払って買う」とは、どういうことでしょうか。これは信じることを、意味しています。つまり、主イエス・キリストを自分の全存在を賭けて信じるということです。頭の知識だけでもダメです。イエス様を部分的に信じるのもダメです。イエス様をまるごとそっくり、受け入れるということです。だから、他の箇所で、「キリストの肉を食べる」とか「キリストの血を飲む」と言われているのです。神の永遠の命は、あんまり簡単過ぎて、世の中の人には見えないのです。しかし、それは宝です。かけがえのない宝です。この宝を得たならば、たとい、人生の長さが30年でも十分、元をとれます。でも、たとい120歳まで生きたとしても、この宝を得ないならば、大損であります。ですから、持っていない人はイエス様を信じてこの宝をもらいましょう。神様はウソを言っているのではありません。「あげよう」と言っているのですから、子供のように手を出して受け取りましょう。アーメン。

 

2.宝の効果

 神の命、永遠の命は、天国に行くためだけではありません。なんと、この地上でも、すばらしい効力というか効果があります。このことを知らないと宝の持ち腐れということになります。4:8-11「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」ここを読むとわかりますが、2つの分野に分けることができます。最初の分野は使徒パウロが福音宣教のために受ける苦しみであります。四方八方から苦しめられる。途方にくれる。迫害される。倒される。つまりそのことは、イエスのために死に渡されるということです。土の器である肉体が、外側からぎゅっと圧迫されたり、打ち叩かれたりされるんです。普通だったら、ひび割れるか、粉々に打ち砕かれるはずです。ところが、そうはならない。第二の分野は使徒パウロに働くイエスの命です。どんなふうに働くのでしょうか。「四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」すごいですね。何か土の器というよりも、テニスのボールのように弾力性があります。テニスの試合見たことがあると思いますが、時速100キロ以上出ているんじゃないでしょうか。簡単に破れない。強く打ちたたかれれば、強く跳ね返ります。つまり、簡単に壊れずはずの土の器が、どういうわけか壊れない。七転び八起きのようにタフな存在です。なぜでしょう。土の器の中に宝をもっているからです。その宝とは、イエスのいのちであります。

 使徒の働き14章にこのような記事があります。使徒パウロが第一次伝道旅行に行った際、ものすごい迫害を受けました。14:19,20「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。」パウロは石打ちにされ、半死の状態でした。ところが、立ち上がって町に戻って行き、翌日、別の地に伝道に行きました。ちょっと考えられないですね。普通だったら全治一ヵ月の重傷のところを、1日で回復しています。ありえなーい。これこそが宝の効果です。パウロが言っているように、「倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」。パウロが死の様に等しくなるとき、イエスのいのちが明らかに示されるということです。「明らかにされる」とは、英語の聖書では、マニフェスト、「現われる」であります。みなさん、自分がせっぱつまったとき、弱ったとき何が出てきますか?ひょっとしたら、怒りとか憎しみ、不信仰が出て来ないでしょうか。大体、その人の本心が露わにされるときというのは、平常のときではありません。何か思いがけないことが起こったときです。金曜日の朝からものすごい雪が降りました。私は毎朝、散歩していますが、その日も雪の中を散歩しました。中川あたりはもう、横殴りという感じでした。環七から裏道にはいってやれやれと思いきや、水が「ビヒョー、ビヒョー」と2回もかかった。なんとおじさんが植木に水をやっているんですね。雪の日にですよ。私は「かかりましたよ」と言いました。おじさんは「すいません」と軽く謝っただけです。真夏だったら許せますけど、冬ですよ。ちょっとだけ、怒りが出てきましたけど、すぐおさまりました。また、私も5才の子どもにレゴ・ブロックで乗り物を作ってあげます。彼は絵を見て「そうじゃない。違う」と言うんですね。そういう時はむちゃくちゃ腹が立つ。「だまれ!だまれ!」と2、3回言います。それでも文句つけると、「文句言うなら、お前が作れ!」と怒鳴ります。怒鳴ったあと、「いやー、子供の心を傷つけたかなー」と反省します。「なんで、反応しちゃうんだろう5才の子どもに…」。

皆さん、おそらく、キリストのいのちが現われるとはこういうことじゃないかと思います。正しいことをしている、自分が悪くない。なのに、苦しめられ、ひどい目に遭う。するとまず反応するのが肉であります。これは無意識というか条件反射的なものです。パウロだって生まれつきの性質は気が短い方ですから、怒ったと思います。しかし、その後にキリストのいのちが、グググググーと現われ出てくる。生まれつきの人は、肉で反応して、怒りに身を任せるかもしれません。だけど、御霊の人はそれで終わらない。キリストのいのちが現われ出てくるのであります。どんなとき、一番、キリストのいのちが現われるのでしょうか。それは、パウロのようにイエス様のゆえに、苦しめられるときです。思い通りにいかないとか、自分のわがままや失敗で苦しみを受けるときはあるかもしれません。が、しかし、キリストのゆえに苦しむということが果たしてあるでしょうか。私自身も少ないなーと思います。水をかけられたくらい何でしょうか。迫害でもなんでもありません。単なるハプニングです。やっぱり、本気じゃないということですね。まだ、どこか自分の身が可愛い。馬鹿にされたくない。キリストの名前を出したり、福音を宣べ伝えていないので、その代わり迫害もないし、嫌な思いをすることがないんですね。最近のクリスチャンは私をはじめ、スマートになりすぎています。外堀を埋めることばかり考え、本丸までたどり着けないでいます。パウロのようにもっと過激になりましょう。そうすると風当たりも強くなり、苦しんだり、倒されたりすることもあるでしょう。しかし、そこまでいかなければ、本当のキリストのいのちが現われ出て来ないということです。リバイバルが起こると、必ず迫害が起こります「リバイバルは良いけど、迫害は嫌です」とは言っていられません。インドネシヤや中国がそうです。彼らは「迫害がなくなりますように」とか「迫害から守られるように祈ってください」とは言いません。「迫害を通して福音が広がりますように祈ってください」と言います。本当になまぬるい信仰を悔い改めます。多少、迫害を受けるくらい熱心なクリスチャンになりましょう。キリストの死を帯びることによって、キリストのいのちが現われるという体験をしましょう。

 

3.宝の結実

4:12-15までを見ますと、パウロに現われたキリストのいのちが、コリントの人たちに影響を与えているということがわかります。12節「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」。「あなたがた」とはまさしく、コリントの人たちです。14節にも「あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」とあります。15節は「ますます多くの人々に及んで…神の栄光が現われるようになる」と書いてあります。つまり、パウロが福音を宣べ伝えたために、イエス様の死を味わうような経験をしました。その結果、コリントの人たちもイエス様のいのちが働きました。さらには、多くの人々に及ぶということです。ということは、キリストにある苦しみは、自分ばかりか、多くの人をいかす命をもたらすということです。そういう方程式がなりたつならば、「苦しみや迫害は良いことだ。むしろ喜ぶべきことだ!」ということになります。えー?苦しみを喜ぶなんて変ですね。先月、牧師チェンジングがありました。そのことを先週も申し上げましたが、講師の石原師はこのようなことを言っておりました。石原先生は鰹節が大好きだそうです。それも削って袋に入れてあるものじゃなく、堅い固形のものをかんなみたいなヤツで削る方です。堅いヤツを、ゴシゴシと削ると、なんともいえない香りがするということです。その香りは、袋入りのものとは全然違うそうです。で、何を言いたいかと申しますと、石原先生はその鰹節になりたいと言うことなんです。自分の身を削るようなことをあえてする。すると、キリストのかおりというか、キリストのみわざが起こるということです。昨年のチェンジングライフキャンプでは、もう体がボロボロで言うことをきかない。キャンプは、4日間あるのですが、3日目で、体が動かない。終わりの頃には、どうしようもないような人が残ります。無理やり連れて来られたような人は絶対、心を開こうとしません。スポンサーと一緒に泣くしかない。どうしようもないので、神様に向かってただ泣く。そうすると、神様ご自身が、そういう人たちに触れてくださる。4日目の朝、絶対無理だというような人が解放されている。私は石原先生と違って、自分の身を削るような奉仕はしたくありません。自分が可愛いからという意味ではなく、やるのは神様ご自身だという考えがあるからです。だから、祈り方も中島先生のような省エネ方式にあこがれています。でも、牧師ですから、教会員で、病気の人とか、難問を抱えている人のためには手を置いて注ぎ込んでしまいます。難しいですね。削り節にはなりたくないのですが、神の愛がそうさせるのかもしれません。ま、そのように導かれたら、そうすれば良いんですね。人為的でなく、神様に導かれた時は、すばらしい栄光が現われるのかもしれません。

 とにかく、キリストにある苦しみは、多くの実を結ぶということです。イエス・キリストも死ぬことによって、復活のいのちがあらわれました。私たちは、キリストとは違いますが、その原理だけは、あてはまるということです。ところで、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」で始まる、宮沢賢治の有名な詩があります。リバイバル新聞に書いてありましたが、「雨ニモマケズ」は斉藤宗次郎と言う人がモデルであったそうです。彼は、内村鑑三の忠実な弟子であり、キリストの救いを勤務していた小学校で伝え続けたことから教職を追われ、その後は新聞配達を天職として働き続けた人物でした。なぜ、「雨ニモマケズ」のモデルになったかと言うと、19歳年下で熱心な仏教徒であった宮沢と、熱心なキリスト教徒の斉藤は、非常に親しい関係を築いていたからです。彼の奥さんがこのように証言しています。斉藤はいつも「感謝、感謝」と言って新聞配達と畑仕事を続け、雪の朝には販売店前から小学校前まで雪を掻いて子供たちのために道をつけ、吹雪で泣き出した子供は抱えて校門まで走り、新聞配達の帰り道には病人を見舞い、悩みのある人々の訴えには親身になって聞いていていたといいます。で、新聞配達の最後の配達先が花巻農学校でした。そこで勤務している宮沢が「先生、休んでおでんせ」と職員室に案内し、共に教育問題などを語り合い、最後は声を合わせて歌っていたという記録があります。斉藤は銃殺刑覚悟で、「非戦論」を唱えましたが、内村鑑三があわててそれを思いとどまらせたという事件もあったそうです。「でくのぼう」と言われた、彼の生き方を見て、村人ばかりか、昔は迫害した僧侶も彼を尊敬するようになったということです。いやー、「雨にもまけず、風にもまけず、雪にも夏の暑さにもまけぬ丈夫なからだをもち」は、土の器の中に宝を持っていた証ではないかと思います。

何年か前から、「心の傷の癒しとか解放」ということを強調してきました。しかし、癒しや解放はゴールではありません。キリストの弟子として成長するための、第一ステップです。妨げになっているものを取り除いたならば、キリストの弟子として力強く歩むこと、これが次のステップです。私たちにはそれぞれ、賜物と召しがあります。どんな働きや仕事をしようと、キリストの弟子として歩むということが大切です。キリストの弟子として歩むとき、この世の風当たりも当然強くなるでしょう。迫害されたり、嫌な思いをしたり、身を削られるようなことがあるかもしれません。でも、簡単に逃げない。簡単に白旗をあげない。簡単にあきらめない。そうしちゃうと、せっかく、キリストのいのちが、土の器から現われようとしていたのに、そのチャンスを失うことになります。私たちはしょせん土の器かもしれません。弱くで、傷つき、欠けたり、壊れたりします。でも、そうは簡単にダメにならないんです。なぜでしょう。それは土の器の中に、キリストの命という宝を有しているからです。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」

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